朝日奈くんは、俺の日常から完全に姿を消した。
いつもの電車にもいない。千瀬川駅のホームにもいない。
一本早い電車に乗ろうが、逆に遅らせようが、あの涼やかな香りをまとった後輩が俺の前に現れることは、二度となかった。
「ハァ、ハァッ……」
学校にもいないなんて、そんな馬鹿なことがあるか。
四限目が終わった直後、俺は一年生のフロアに足を運んでいた。階段をダッシュで駆け上がったせいで、息が乱れる。だけど、そうでもしなければ追いつけないと思ったからだ。……実際、きのうの昼休みも放課後も、不発に終わっている。
あんな風に、一方的に契約を終わらせるなんて、朝日奈くんらしくない。感情に身を任せて、突拍子もなく衝動的にそんな真似をする男だとは、どうしても思えなかった。
だって、朝日奈くんはいつだって緻密で、打算に溢れているから。
「あれ、はやみん先輩?」
廊下の角を曲がると、トオルくんとばったり出遭う。周りに何人か連れはいるけど、そこに朝日奈くんの姿はない。
「トオルくん……あの、朝日奈くんは……?」
「えっ、ああ、律世っすか?」
周りにも聞いてくれたけど、居場所は誰にもわからないようだった。
「学校には、来てるの」
「はい。でも最近、休み時間になるとすぐどっか行っちゃうんすよ。あと放課後も」
「そう……やっぱ、避けられてんのか」
「え?」
「いや、なんでもない」
漏れた独り言を打ち消すように、とっさに首を振る。
でも、避けられているのはきっと事実だ。俺がトオルくんに訊く可能性もしっかり考慮して、誰にも居場所を明かさずに。
「なんか、伝えときましょうか?」
親切にそう言ってくれるトオルくんに、また首を振った。
「ううん、大丈夫」
「じゃあ、放課後あいつのこと引き留めておくとか」
「ありがとう。けど……大丈夫」
「ほんとっすか?」
「うん。なんか……自分で見つけ出さなきゃいけない気がしてる」
うまくは言えないけれど、こればかりは誰の手も借りたくなかった。 勝手に俺を探し出して、契約を持ちかけてきた朝日奈くんへの、せめてもの当てつけかもしれない。
「わかりました。なんかあったら、いつでも言ってください!」
手を振り去っていくトオルくんにお礼を言って、俺は自分の教室へと引き返した。
午後の授業中も、先生の声を聞き流しながら、朝日奈くんの行動パターンをひたすら反芻していた。
朝の電車にも現れない。休み時間もすぐどこかへ消えてしまう。トオルくんたちにも居場所を教えない。
――ここまで徹底して避けられると、笑えてくる。
窓の外を眺めながら、自嘲的な笑みが漏れる。と、そのとき。制服のポケットに入れていたスマートフォンが、鈍く身を震わせた。
「――……?」
クラスメートの背に隠れて画面を覗き込む。するとそこには、トオルくんからのメッセージが並んでいた。
『授業中にすんません!律世のこと、これだけは言っておきたくて』
画面を凝視する。なんのことだろう、と息をつく暇もなく、通知のポップアップが連続で画面を叩いた。
『体育祭で、はやみんと律世が一緒に走ってんの見て思い出したんすけど』
『入学したばっかんとき、律世、上からよく中庭を見てたんです』
『何見てんだろーって不思議だったんすけど』
『今思えば、はやみんのこと、見てたんだと思うんです』
……中庭。
教室の喧騒から逃れるようにして、ひとりでいられる場所を探し、たどり着いたあの場所。誰の目も気にせず、ただ時間をやり過ごしていただけの場所。
視線を感じたことなど一度もない。けれど――もし、トオルくんの言うことが本当なのだとしたら。
身体の芯が、急に熱を帯びていく。
だけど、こちらの動揺などお構いなしに、トオルくんのメッセージは続いた。
『なんつーか、そのときはいつもすげえ穏やかで』
『なんでかわかんないんすけど、これは伝えておかなきゃと思って』
トオルくんはいつも明るくて、周りのテンションなんてお構いなしの眩しい存在。そんなイメージばかりが占めていた。
だけどメッセージには、トオルくんの優しさが静かに灯っている。本当は、傍にいる友人のことを陰で見守っていて、ここぞという場面で手を差し伸べられる。そういう一面を持っている人なのかもしれない。
もっとも、本人が自覚している可能性は低そうだけど。
――朝日奈くんのことだって……俺はまだ、何も知らない。
体に残った熱が、じわじわと胸の奥を締め付ける。
計算高くて、笑顔がうさんくさくて、いつも俺を振り回す。だけどたまに見せる、あの静かで穏やかな表情が、トオルくんの言葉で鮮やかに蘇った。
……どうして、忘れていたんだろう。
画面の向こうのトオルくんに『ありがとう、助かった』とだけ短く返し、スマホをポケットに沈める。
波立つ胸のざわめきをごまかすように、息を吐き出した。
ガタガタ、と教室のあちこちで椅子が引かれる音がする。終礼のチャイムが響き終わるより早く、俺はリュックをひっつかんで席を立った。
行き先は、もう決めている。
校舎の最果てにある弓道場へ向かうため、逸る足音を響かせて、廊下を蹴った。
◇
部員たちの威勢のいい掛け声も、矢が的を射ぬく音も聞こえない。
――……だけど、朝日奈くんはきっといる。
西日が影を落とす、静まり返った弓道場。
「ハァ……」
荒くなった息を整え、重い引き戸を開ける。ひんやりとした木と畳の匂いが肌を刺した。
中に入ると、ひとり静かに的を見据えていた人影が、袴姿でゆっくりこちらを振り返る。背筋の通ったその佇まいは、悔しいくらいきれいだ。
「――意外と早かったですね、早見さん」
……少しくらい、驚けよ。
久しぶりに会った気がしないくらい、朝日奈くんの表情は前に会ったときから崩れていない。しかも、なんだ。意外と早かった、って。
「俺が来るって、わかってたの」
「まあ、そうですね」
「なにそれ……自分から終わりにしたくせに」
「賭けたんですよ」
「かけた……?」
「早見さんが、俺を探しに来てくれるか。もしくは、放置されるか」
こっちだって、もう驚かない。だっていかにも、朝日奈くんがやりそうな手口だ。
「でもまさか、今日来てくれるとは思いませんでした。部活、休みですし」
「それは……知らなかった」
ほかの部員が来る前に、朝日奈くんと話そうと急いでしまったけど、そうか。だから、誰も来る気配がないのか。
二人きりの弓道場を見渡して、納得する。
「賭けには勝った、ってこと?」
「さあ。それは、早見さん次第ですね」
朝日奈くんは軽く息を吐きながら、肩を後ろに回して肩甲骨をほぐす。無駄のないその動作は、これから矢を射る準備のようだった。
「俺次第って、どういうこと」
「言わなきゃわかりませんか?」
「……わかんないよ」
「まあ、そうですよね。先に言っておきますけど――あの契約を再開するつもりは、ありません」
あまりに淡々とした口調に、背筋が冷えていく。
何か言い返そうと唇を開かけたときにはもう、朝日奈くんは矢をつがえて立っていた。
パァン――ッ!
寸分の狂いもなく、真ん中を射止める矢。それが、朝日奈くんが示した意思をたしかなものにする。
「なんで……、」
「だって、返しましたよね? お金」
彼は背を向けたまま、静かに言葉を継いだ。
「あの契約は、なかったことにしてほしいんですよ」
なかったこと……?
そう言われて、清算された意味をいまさら理解した。朝日奈くんは利害で繋がった俺たちの関係まで、きれいさっぱり清算するつもりなのだと。
「理由もなしに、俺は納得できない」
これまでのこと全部、なかったことにもできない。
強く拳を握りしめると、目の前の袴が翻る。朝日奈くんが俺を見据えた。
「じゃあ、早見さんは? 説明できます?」
「説明?」
「どうして俺のことを探し出したかったのか」
「そ、れは……」
「あの契約がなくたって、前の生活に戻るだけですよ。俺と契約するまでの一年ちょっと……そっちの方が長いじゃないですか」
正論だった。ぐうの音も出ないほど、朝日奈くんの言う通りだ。
どうして朝日奈くんを探し出そうとしたのか。金も戻ってきて、リセットできるはずなのに、どうしてこんなに焦っていたのか――自分でも、わからなかった。
ただ、漠然と、嫌だった。
この朝日奈律世という男が、ずっとわからなくて嫌だ。掴めたと思ったらすり抜けて、惑わせて、今度は存在ごと消えようとする。
――隣にいたいって……じゃあ、あれはなんだったんだよ。
溢れ出るすべての感情が綯い交ぜになって、視界を熱くする。出てこない言葉の代わりに、俺はそばに立てかけられていた弓へ手を伸ばした。
「早見さん?」
「俺にも、賭けさせて」
ひったくるように弓を持ち上げると、朝日奈くんは目を瞠った。
「なに、するつもりですか」
声は冷静だけど、いつもの、余裕に満ちた表情はそこにはない。
「あの的に矢が刺さったら……契約破棄を、取り消してほしい」
「早見さん……弓道の経験、」
「そもそも俺には、金を返される義理なんてない」
歩み寄ってくる朝日奈くんに構わず、矢を取りに向かう。弓道の経験はおろか、弓を持ち上げたのだって初めてだ。
「やめてください。素人が射るのは、本当に危険で」
後ろからそう言われても、止まらなかった。
「払った金と同等の対価を、俺はもらってたはずだし」
「早見さん、話を、」
「いまの朝日奈くんは、全然、理にかなってない」
矢筒から矢を掴み取ろうと、手を伸ばした――その瞬間だった。
「っ、」
激しい足音が響いたかと思うと、体がなにかに覆われる。温かくて、力強い。
「ダメだって……言ってるでしょ」
視線を下ろせば、長い腕が俺の身体をぎゅうっと強く締めつける。後ろから俺を抱きすくめた朝日奈くんは、耳元で大きく息を吐いた。
その必死さに、不覚にも心臓が飛び跳ねる。
「……はなして」
「嫌です」
そんなに強く締めつけなくても、十分身動きはとれないのに。
そうやって、心のなかで悪態をついていないと、心臓が壊れてしまいそうだった。だってさっきから、体温と吐息がダイレクトに伝わってきて、落ち着かない。
「あなたを、危険にさらしたくない」
鼓膜を揺らす声が震えている。俺はそれに耐えかねて、弓からそっと手を放した。
「わかった……やらないから」
「はい」
「だから、放して」
「いえ……もう少しこのままで、いたいです」
なんで。そう訊こうとしたのに、さらに強く抱き締められて言葉を呑む。背中から伝わる鼓動が速い。
「俺、欲張りなんです」
「……なに、いきなり」
「早見さんが探しに来てくれたこと、嬉しかったのに……俺、その先を求めてます」
「先って、」
「そろそろ、気付いてもいいんじゃないですか?」
体温が離れたかと思えば、今度はくるりと反転させられる。真正面には、俺の目線に合わせて、朝日奈くんが屈んでいた。
瞳が、近い。
「言われなきゃ……、わかんないよ」
「じゃあ、はっきり言っていいんですか?」
「な……いや、それは――」
「やっぱり気付いてるんじゃないですか」
お得意の罠にまんまとかかった。
なんでも見透かしてしまいそうなその瞳から目を逸らせば、朝日奈くんはふっ、と笑みを落とした。
「なんか、今はこれで十分な気もしてきました」
「なんのこと?」
「早見さんも、ちゃんと照れてくれるんだって分かったんで」
……照れてなんかない。たださっきから、朝日奈くんの熱に中てられ続けてるだけで。
抱き締められたときの熱を思い返して、また顔が火照りだす。俺はお返しにと言わんばかりに、朝日奈くんを睨み上げた。
「なんで、俺なの」
「ん?」
「最初から、って。体育祭のとき言ってたけど……なんで俺にこだわるの」
真っ直ぐぶつけた問いに、朝日奈くんは目を瞬く。けれどすぐに、どこか降参したような、柔らかな笑みを浮かべた。
「早見さんは、たぶん覚えてないと思いますけど。入学する前に一度、会ったことがあるんですよ」
「え……俺と、朝日奈くんが?」
「はい。体験入学の日、ですね」
まさか、だった。体験入学といえば、中学三年生が入学前に、この高校での生活を実体験するイベントのこと。
「早見さん、受付やってましたよ」
「そうだっけ、覚えてない」
「そう言うと思いました」
「それで……受付が、なに?」
「なんでこんなクソ暑い日にタダ働きさせられてんだ——って顔、してました」
「……」
覚えていないのは事実だけど、そのときの心境は容易に想像がついた。
体験入学は夏休みに行われるから、生徒は休みどきに駆り出される。——バイトのシフトを削って、炎天下のなか薄いテントの下でタダ働きなんて——心のなかでそう悪態をついていた自分は、間違いなくいたと思う。
「後輩相手に、愛想とかまったくなくて」
「それは……ごめん」
「周りの先輩たちは優しかったんで、全然」
嫌味か。そう突っ込みたいけど、罪悪感が勝つ。
朝日奈くんは「でも、」と一呼吸おいて、背筋を伸ばした。
「一番羨ましかった」
「うらやましい……」
「何にも迎合しないで生きていけそうな、あなたが」
そんな数秒のやりとりで何がわかる。とは、思わなかった。朝日奈くんのことだから、何かを見抜いたに違いない。
実際、間違ってもいないと思う。周りの顔色を伺うのは、あまり得意じゃないから。
朝日奈くんはふっ、と視線を遠くに移した。その先には、さっき矢で射た的がそびえている。
「ドライな人だな、って。思ってたんですけどね」
差し込む西日が眩しくて、俺は目を眇める。朝日奈くんの視線が、流れるようにこちらに還ってくる。
……もしかして、トオルくんが教えてくれた『中庭を眺めていた朝日奈くん』は、こういう顔だったんじゃないかって。ただの直感だけど、そう思った。
「俺の弓道を見て、『すごい』って」
「え……?」
「同じ日に体験入部で、ここで、弓を引いてたんですよ。俺」
ぽつり、ぽつり。花びらのように落とされる言葉が、静まり返った弓道場に染み込んでいく。
「一年前も褒めてくれましたよ。ちょっと前、俺の弓道を褒めてくれたときと、同じ目で」
そう、だったのか。だから俺は、朝日奈くんの放つ矢に惹かれて——。
言葉を失って固まっていると、朝日奈くんの手が伸びてくる。
「忘れててくれて、よかったです」
俺に、止める術はない。
静かな笑みとともに、ひんやりとした指先が頬にそっと触れる。体育祭のときのような、日焼けの痕はないはずなのに。
「なん、で……」
「最初から褒めてくれた武器を使うなんて、卑怯じゃないですか」
「使う?」
「早見さんの気を引くために、ですよ」
「っ、」
弓を引くために鍛えられた、少し硬い指の質感。頬骨のあたりをなぞられて、思わず肩を竦める。
心臓がバクバクとうるさくて、自分のものじゃないみたいだ。
「あのときから、俺はあなたに近づきたかった。どんな手を、使ってでも」
耳元で囁かれる告白に、顔が沸騰しそうになる。
「ちょっと、待って……」
わずかに震える両手で、朝日奈くんの手首を掴む。もちろん、簡単に放してはくれない。
「はい……どうしました?」
だけど、見上げた瞳は今までで一番優しい。そして、落ち着いたその低い声に、また心臓がドクンと跳ねる。
「俺は、まだ……わかんない」
「ん……?」
「朝日奈くんを、どう受け止めていいのか……俺が、なんで君を探し出したかったのか……」
自分で自分の気持ちがわからないなんて、滑稽もいいところ。だけど、これが本心だった。
「わかってますよ」
てっきり、呆れられると思っていたのに。
はっきりとそう告げられて、目を瞬く。朝日奈くんは丁寧に俺の手を解くと、今度は優しく、そして静かに抱き寄せた。
「また……っ」
「早見さんが一筋縄ではいかないことくらい、最初からわかってます」
腕のなかで暴れそうになる俺を宥めるように、朝日奈くんは背中を撫でる。さっきは感じる余裕のなかった道着と、そこから覗く肌の香りに、頭がクラリとする。
「あなたがもっと簡単だったら、こんな煩わしいこと、しませんよ」
「煩わしいって……」
「心を開いてもらうだけじゃ、足りなかったので」
だから、わざわざ打ち明けたんですよ。体育祭で——。
「……っ」
耳元で紐解かれた事実に、思わずパッと顔を上げる。
俺が思っていたよりもずっと“欲張り”な朝日奈くんは、悪役のような笑みを湛えていた。悪い男、というのはきっと、こういう男のことを言うのだろう。
「どうしました? 顔、赤いですね」
「それは……、朝日奈くんが、変なこと言うから」
「いいですね。俺で満たされてるって顔だ」
腰に回された腕が、ぐいっ、と身を引き寄せる。反対側の手ではしっかり頬を捕まえられて、また逃げ場を塞がれた。
このままじゃまた……朝日奈くんのペースだ。
「………………………りに、きまってる」
「早見さん?」
ちいさく独り言を落とせば、覗き込まれる。力いっぱい睨み返して、もう一度、独り言をなぞった。
「いま、朝日奈くん以外のことを考えるなんて——むりに、決まってる」
自分が自分じゃないみたいだ。余裕綽々な朝日奈くんを崩したい、だなんて、これまでだったら考えられない。
よそはよそ、うちはうち。人は人、自分は自分。そうして無難に生きてきたはずなのに、俺は朝日奈くんを、自分のペースに巻き込んでみたいと思っている。
道着をぎゅっと掴むと、その肩がわずかに跳ねる。俺を見下ろした瞳は確かに、ふるりと揺れた。
「朝日奈くん」
「……はい」
「返されたあのお金は、やっぱり受け取れない」
「それは……どうして?」
「朝日奈くんに、それだけの対価をもらってたから」
動揺に畳み掛けると、朝日奈くんは観念したような息を吐く。そして、俺の肩口に顔を埋めた。
「……じゃあ、どうすれば満足ですか」
覇気も、圧もない。脱力したその姿が珍しくて、トクトクと鼓動が逸った。
「俺が金を返せばいいでしょ」
「やだ……味気ない」
そんな言い方は、ますますらしくない。首筋をくすぐる黒髪を見据えながら、俺はそっと息を吸い込んだ。
「なら……俺が朝日奈くんが欲しいもの、あげるとか」
「あー……そうですね。それなら対価だ」
「なにかある?」
「早見さん」
「…………俺が応えられる範囲で」
さらけ出したら言いたい放題か。
呆れながら条件を後づけすると、不服そうな顔が持ち上がる。彼は「うーん……」としばらく唸った後、真剣な顔で言った。
「早見さんの、バイト先の情報」
「え?」
「俺の、いま欲しいものです」
外面の笑顔も、悪役のようなしたり顔も、そこにはない。彼は視線を逃がすように、遠くの的を見つめる。
ど真ん中に刺さっているはずの矢が、西日に照らされて、かすかに揺らいだような気がした。
いつもの電車にもいない。千瀬川駅のホームにもいない。
一本早い電車に乗ろうが、逆に遅らせようが、あの涼やかな香りをまとった後輩が俺の前に現れることは、二度となかった。
「ハァ、ハァッ……」
学校にもいないなんて、そんな馬鹿なことがあるか。
四限目が終わった直後、俺は一年生のフロアに足を運んでいた。階段をダッシュで駆け上がったせいで、息が乱れる。だけど、そうでもしなければ追いつけないと思ったからだ。……実際、きのうの昼休みも放課後も、不発に終わっている。
あんな風に、一方的に契約を終わらせるなんて、朝日奈くんらしくない。感情に身を任せて、突拍子もなく衝動的にそんな真似をする男だとは、どうしても思えなかった。
だって、朝日奈くんはいつだって緻密で、打算に溢れているから。
「あれ、はやみん先輩?」
廊下の角を曲がると、トオルくんとばったり出遭う。周りに何人か連れはいるけど、そこに朝日奈くんの姿はない。
「トオルくん……あの、朝日奈くんは……?」
「えっ、ああ、律世っすか?」
周りにも聞いてくれたけど、居場所は誰にもわからないようだった。
「学校には、来てるの」
「はい。でも最近、休み時間になるとすぐどっか行っちゃうんすよ。あと放課後も」
「そう……やっぱ、避けられてんのか」
「え?」
「いや、なんでもない」
漏れた独り言を打ち消すように、とっさに首を振る。
でも、避けられているのはきっと事実だ。俺がトオルくんに訊く可能性もしっかり考慮して、誰にも居場所を明かさずに。
「なんか、伝えときましょうか?」
親切にそう言ってくれるトオルくんに、また首を振った。
「ううん、大丈夫」
「じゃあ、放課後あいつのこと引き留めておくとか」
「ありがとう。けど……大丈夫」
「ほんとっすか?」
「うん。なんか……自分で見つけ出さなきゃいけない気がしてる」
うまくは言えないけれど、こればかりは誰の手も借りたくなかった。 勝手に俺を探し出して、契約を持ちかけてきた朝日奈くんへの、せめてもの当てつけかもしれない。
「わかりました。なんかあったら、いつでも言ってください!」
手を振り去っていくトオルくんにお礼を言って、俺は自分の教室へと引き返した。
午後の授業中も、先生の声を聞き流しながら、朝日奈くんの行動パターンをひたすら反芻していた。
朝の電車にも現れない。休み時間もすぐどこかへ消えてしまう。トオルくんたちにも居場所を教えない。
――ここまで徹底して避けられると、笑えてくる。
窓の外を眺めながら、自嘲的な笑みが漏れる。と、そのとき。制服のポケットに入れていたスマートフォンが、鈍く身を震わせた。
「――……?」
クラスメートの背に隠れて画面を覗き込む。するとそこには、トオルくんからのメッセージが並んでいた。
『授業中にすんません!律世のこと、これだけは言っておきたくて』
画面を凝視する。なんのことだろう、と息をつく暇もなく、通知のポップアップが連続で画面を叩いた。
『体育祭で、はやみんと律世が一緒に走ってんの見て思い出したんすけど』
『入学したばっかんとき、律世、上からよく中庭を見てたんです』
『何見てんだろーって不思議だったんすけど』
『今思えば、はやみんのこと、見てたんだと思うんです』
……中庭。
教室の喧騒から逃れるようにして、ひとりでいられる場所を探し、たどり着いたあの場所。誰の目も気にせず、ただ時間をやり過ごしていただけの場所。
視線を感じたことなど一度もない。けれど――もし、トオルくんの言うことが本当なのだとしたら。
身体の芯が、急に熱を帯びていく。
だけど、こちらの動揺などお構いなしに、トオルくんのメッセージは続いた。
『なんつーか、そのときはいつもすげえ穏やかで』
『なんでかわかんないんすけど、これは伝えておかなきゃと思って』
トオルくんはいつも明るくて、周りのテンションなんてお構いなしの眩しい存在。そんなイメージばかりが占めていた。
だけどメッセージには、トオルくんの優しさが静かに灯っている。本当は、傍にいる友人のことを陰で見守っていて、ここぞという場面で手を差し伸べられる。そういう一面を持っている人なのかもしれない。
もっとも、本人が自覚している可能性は低そうだけど。
――朝日奈くんのことだって……俺はまだ、何も知らない。
体に残った熱が、じわじわと胸の奥を締め付ける。
計算高くて、笑顔がうさんくさくて、いつも俺を振り回す。だけどたまに見せる、あの静かで穏やかな表情が、トオルくんの言葉で鮮やかに蘇った。
……どうして、忘れていたんだろう。
画面の向こうのトオルくんに『ありがとう、助かった』とだけ短く返し、スマホをポケットに沈める。
波立つ胸のざわめきをごまかすように、息を吐き出した。
ガタガタ、と教室のあちこちで椅子が引かれる音がする。終礼のチャイムが響き終わるより早く、俺はリュックをひっつかんで席を立った。
行き先は、もう決めている。
校舎の最果てにある弓道場へ向かうため、逸る足音を響かせて、廊下を蹴った。
◇
部員たちの威勢のいい掛け声も、矢が的を射ぬく音も聞こえない。
――……だけど、朝日奈くんはきっといる。
西日が影を落とす、静まり返った弓道場。
「ハァ……」
荒くなった息を整え、重い引き戸を開ける。ひんやりとした木と畳の匂いが肌を刺した。
中に入ると、ひとり静かに的を見据えていた人影が、袴姿でゆっくりこちらを振り返る。背筋の通ったその佇まいは、悔しいくらいきれいだ。
「――意外と早かったですね、早見さん」
……少しくらい、驚けよ。
久しぶりに会った気がしないくらい、朝日奈くんの表情は前に会ったときから崩れていない。しかも、なんだ。意外と早かった、って。
「俺が来るって、わかってたの」
「まあ、そうですね」
「なにそれ……自分から終わりにしたくせに」
「賭けたんですよ」
「かけた……?」
「早見さんが、俺を探しに来てくれるか。もしくは、放置されるか」
こっちだって、もう驚かない。だっていかにも、朝日奈くんがやりそうな手口だ。
「でもまさか、今日来てくれるとは思いませんでした。部活、休みですし」
「それは……知らなかった」
ほかの部員が来る前に、朝日奈くんと話そうと急いでしまったけど、そうか。だから、誰も来る気配がないのか。
二人きりの弓道場を見渡して、納得する。
「賭けには勝った、ってこと?」
「さあ。それは、早見さん次第ですね」
朝日奈くんは軽く息を吐きながら、肩を後ろに回して肩甲骨をほぐす。無駄のないその動作は、これから矢を射る準備のようだった。
「俺次第って、どういうこと」
「言わなきゃわかりませんか?」
「……わかんないよ」
「まあ、そうですよね。先に言っておきますけど――あの契約を再開するつもりは、ありません」
あまりに淡々とした口調に、背筋が冷えていく。
何か言い返そうと唇を開かけたときにはもう、朝日奈くんは矢をつがえて立っていた。
パァン――ッ!
寸分の狂いもなく、真ん中を射止める矢。それが、朝日奈くんが示した意思をたしかなものにする。
「なんで……、」
「だって、返しましたよね? お金」
彼は背を向けたまま、静かに言葉を継いだ。
「あの契約は、なかったことにしてほしいんですよ」
なかったこと……?
そう言われて、清算された意味をいまさら理解した。朝日奈くんは利害で繋がった俺たちの関係まで、きれいさっぱり清算するつもりなのだと。
「理由もなしに、俺は納得できない」
これまでのこと全部、なかったことにもできない。
強く拳を握りしめると、目の前の袴が翻る。朝日奈くんが俺を見据えた。
「じゃあ、早見さんは? 説明できます?」
「説明?」
「どうして俺のことを探し出したかったのか」
「そ、れは……」
「あの契約がなくたって、前の生活に戻るだけですよ。俺と契約するまでの一年ちょっと……そっちの方が長いじゃないですか」
正論だった。ぐうの音も出ないほど、朝日奈くんの言う通りだ。
どうして朝日奈くんを探し出そうとしたのか。金も戻ってきて、リセットできるはずなのに、どうしてこんなに焦っていたのか――自分でも、わからなかった。
ただ、漠然と、嫌だった。
この朝日奈律世という男が、ずっとわからなくて嫌だ。掴めたと思ったらすり抜けて、惑わせて、今度は存在ごと消えようとする。
――隣にいたいって……じゃあ、あれはなんだったんだよ。
溢れ出るすべての感情が綯い交ぜになって、視界を熱くする。出てこない言葉の代わりに、俺はそばに立てかけられていた弓へ手を伸ばした。
「早見さん?」
「俺にも、賭けさせて」
ひったくるように弓を持ち上げると、朝日奈くんは目を瞠った。
「なに、するつもりですか」
声は冷静だけど、いつもの、余裕に満ちた表情はそこにはない。
「あの的に矢が刺さったら……契約破棄を、取り消してほしい」
「早見さん……弓道の経験、」
「そもそも俺には、金を返される義理なんてない」
歩み寄ってくる朝日奈くんに構わず、矢を取りに向かう。弓道の経験はおろか、弓を持ち上げたのだって初めてだ。
「やめてください。素人が射るのは、本当に危険で」
後ろからそう言われても、止まらなかった。
「払った金と同等の対価を、俺はもらってたはずだし」
「早見さん、話を、」
「いまの朝日奈くんは、全然、理にかなってない」
矢筒から矢を掴み取ろうと、手を伸ばした――その瞬間だった。
「っ、」
激しい足音が響いたかと思うと、体がなにかに覆われる。温かくて、力強い。
「ダメだって……言ってるでしょ」
視線を下ろせば、長い腕が俺の身体をぎゅうっと強く締めつける。後ろから俺を抱きすくめた朝日奈くんは、耳元で大きく息を吐いた。
その必死さに、不覚にも心臓が飛び跳ねる。
「……はなして」
「嫌です」
そんなに強く締めつけなくても、十分身動きはとれないのに。
そうやって、心のなかで悪態をついていないと、心臓が壊れてしまいそうだった。だってさっきから、体温と吐息がダイレクトに伝わってきて、落ち着かない。
「あなたを、危険にさらしたくない」
鼓膜を揺らす声が震えている。俺はそれに耐えかねて、弓からそっと手を放した。
「わかった……やらないから」
「はい」
「だから、放して」
「いえ……もう少しこのままで、いたいです」
なんで。そう訊こうとしたのに、さらに強く抱き締められて言葉を呑む。背中から伝わる鼓動が速い。
「俺、欲張りなんです」
「……なに、いきなり」
「早見さんが探しに来てくれたこと、嬉しかったのに……俺、その先を求めてます」
「先って、」
「そろそろ、気付いてもいいんじゃないですか?」
体温が離れたかと思えば、今度はくるりと反転させられる。真正面には、俺の目線に合わせて、朝日奈くんが屈んでいた。
瞳が、近い。
「言われなきゃ……、わかんないよ」
「じゃあ、はっきり言っていいんですか?」
「な……いや、それは――」
「やっぱり気付いてるんじゃないですか」
お得意の罠にまんまとかかった。
なんでも見透かしてしまいそうなその瞳から目を逸らせば、朝日奈くんはふっ、と笑みを落とした。
「なんか、今はこれで十分な気もしてきました」
「なんのこと?」
「早見さんも、ちゃんと照れてくれるんだって分かったんで」
……照れてなんかない。たださっきから、朝日奈くんの熱に中てられ続けてるだけで。
抱き締められたときの熱を思い返して、また顔が火照りだす。俺はお返しにと言わんばかりに、朝日奈くんを睨み上げた。
「なんで、俺なの」
「ん?」
「最初から、って。体育祭のとき言ってたけど……なんで俺にこだわるの」
真っ直ぐぶつけた問いに、朝日奈くんは目を瞬く。けれどすぐに、どこか降参したような、柔らかな笑みを浮かべた。
「早見さんは、たぶん覚えてないと思いますけど。入学する前に一度、会ったことがあるんですよ」
「え……俺と、朝日奈くんが?」
「はい。体験入学の日、ですね」
まさか、だった。体験入学といえば、中学三年生が入学前に、この高校での生活を実体験するイベントのこと。
「早見さん、受付やってましたよ」
「そうだっけ、覚えてない」
「そう言うと思いました」
「それで……受付が、なに?」
「なんでこんなクソ暑い日にタダ働きさせられてんだ——って顔、してました」
「……」
覚えていないのは事実だけど、そのときの心境は容易に想像がついた。
体験入学は夏休みに行われるから、生徒は休みどきに駆り出される。——バイトのシフトを削って、炎天下のなか薄いテントの下でタダ働きなんて——心のなかでそう悪態をついていた自分は、間違いなくいたと思う。
「後輩相手に、愛想とかまったくなくて」
「それは……ごめん」
「周りの先輩たちは優しかったんで、全然」
嫌味か。そう突っ込みたいけど、罪悪感が勝つ。
朝日奈くんは「でも、」と一呼吸おいて、背筋を伸ばした。
「一番羨ましかった」
「うらやましい……」
「何にも迎合しないで生きていけそうな、あなたが」
そんな数秒のやりとりで何がわかる。とは、思わなかった。朝日奈くんのことだから、何かを見抜いたに違いない。
実際、間違ってもいないと思う。周りの顔色を伺うのは、あまり得意じゃないから。
朝日奈くんはふっ、と視線を遠くに移した。その先には、さっき矢で射た的がそびえている。
「ドライな人だな、って。思ってたんですけどね」
差し込む西日が眩しくて、俺は目を眇める。朝日奈くんの視線が、流れるようにこちらに還ってくる。
……もしかして、トオルくんが教えてくれた『中庭を眺めていた朝日奈くん』は、こういう顔だったんじゃないかって。ただの直感だけど、そう思った。
「俺の弓道を見て、『すごい』って」
「え……?」
「同じ日に体験入部で、ここで、弓を引いてたんですよ。俺」
ぽつり、ぽつり。花びらのように落とされる言葉が、静まり返った弓道場に染み込んでいく。
「一年前も褒めてくれましたよ。ちょっと前、俺の弓道を褒めてくれたときと、同じ目で」
そう、だったのか。だから俺は、朝日奈くんの放つ矢に惹かれて——。
言葉を失って固まっていると、朝日奈くんの手が伸びてくる。
「忘れててくれて、よかったです」
俺に、止める術はない。
静かな笑みとともに、ひんやりとした指先が頬にそっと触れる。体育祭のときのような、日焼けの痕はないはずなのに。
「なん、で……」
「最初から褒めてくれた武器を使うなんて、卑怯じゃないですか」
「使う?」
「早見さんの気を引くために、ですよ」
「っ、」
弓を引くために鍛えられた、少し硬い指の質感。頬骨のあたりをなぞられて、思わず肩を竦める。
心臓がバクバクとうるさくて、自分のものじゃないみたいだ。
「あのときから、俺はあなたに近づきたかった。どんな手を、使ってでも」
耳元で囁かれる告白に、顔が沸騰しそうになる。
「ちょっと、待って……」
わずかに震える両手で、朝日奈くんの手首を掴む。もちろん、簡単に放してはくれない。
「はい……どうしました?」
だけど、見上げた瞳は今までで一番優しい。そして、落ち着いたその低い声に、また心臓がドクンと跳ねる。
「俺は、まだ……わかんない」
「ん……?」
「朝日奈くんを、どう受け止めていいのか……俺が、なんで君を探し出したかったのか……」
自分で自分の気持ちがわからないなんて、滑稽もいいところ。だけど、これが本心だった。
「わかってますよ」
てっきり、呆れられると思っていたのに。
はっきりとそう告げられて、目を瞬く。朝日奈くんは丁寧に俺の手を解くと、今度は優しく、そして静かに抱き寄せた。
「また……っ」
「早見さんが一筋縄ではいかないことくらい、最初からわかってます」
腕のなかで暴れそうになる俺を宥めるように、朝日奈くんは背中を撫でる。さっきは感じる余裕のなかった道着と、そこから覗く肌の香りに、頭がクラリとする。
「あなたがもっと簡単だったら、こんな煩わしいこと、しませんよ」
「煩わしいって……」
「心を開いてもらうだけじゃ、足りなかったので」
だから、わざわざ打ち明けたんですよ。体育祭で——。
「……っ」
耳元で紐解かれた事実に、思わずパッと顔を上げる。
俺が思っていたよりもずっと“欲張り”な朝日奈くんは、悪役のような笑みを湛えていた。悪い男、というのはきっと、こういう男のことを言うのだろう。
「どうしました? 顔、赤いですね」
「それは……、朝日奈くんが、変なこと言うから」
「いいですね。俺で満たされてるって顔だ」
腰に回された腕が、ぐいっ、と身を引き寄せる。反対側の手ではしっかり頬を捕まえられて、また逃げ場を塞がれた。
このままじゃまた……朝日奈くんのペースだ。
「………………………りに、きまってる」
「早見さん?」
ちいさく独り言を落とせば、覗き込まれる。力いっぱい睨み返して、もう一度、独り言をなぞった。
「いま、朝日奈くん以外のことを考えるなんて——むりに、決まってる」
自分が自分じゃないみたいだ。余裕綽々な朝日奈くんを崩したい、だなんて、これまでだったら考えられない。
よそはよそ、うちはうち。人は人、自分は自分。そうして無難に生きてきたはずなのに、俺は朝日奈くんを、自分のペースに巻き込んでみたいと思っている。
道着をぎゅっと掴むと、その肩がわずかに跳ねる。俺を見下ろした瞳は確かに、ふるりと揺れた。
「朝日奈くん」
「……はい」
「返されたあのお金は、やっぱり受け取れない」
「それは……どうして?」
「朝日奈くんに、それだけの対価をもらってたから」
動揺に畳み掛けると、朝日奈くんは観念したような息を吐く。そして、俺の肩口に顔を埋めた。
「……じゃあ、どうすれば満足ですか」
覇気も、圧もない。脱力したその姿が珍しくて、トクトクと鼓動が逸った。
「俺が金を返せばいいでしょ」
「やだ……味気ない」
そんな言い方は、ますますらしくない。首筋をくすぐる黒髪を見据えながら、俺はそっと息を吸い込んだ。
「なら……俺が朝日奈くんが欲しいもの、あげるとか」
「あー……そうですね。それなら対価だ」
「なにかある?」
「早見さん」
「…………俺が応えられる範囲で」
さらけ出したら言いたい放題か。
呆れながら条件を後づけすると、不服そうな顔が持ち上がる。彼は「うーん……」としばらく唸った後、真剣な顔で言った。
「早見さんの、バイト先の情報」
「え?」
「俺の、いま欲しいものです」
外面の笑顔も、悪役のようなしたり顔も、そこにはない。彼は視線を逃がすように、遠くの的を見つめる。
ど真ん中に刺さっているはずの矢が、西日に照らされて、かすかに揺らいだような気がした。

