◇
ゆっくりと浮上する意識のなかで、真っ先に鼻を突いたのは、消毒液と湿布の入り混じった匂いだった。
次に聞こえたのは、カサリと布が擦れる音。
——ここ……どこだ。
重い瞼を持ち上げると、見慣れない白い天井と、ベッドをぐるりと囲む淡いグリーンのカーテンが視界に飛び込んでくる。うっすらと天井に映し出された外の光は、まだ白く眩しかった。
どうして、こんなところにいるんだっけ。制服……ってことは、学校か。
「――やっと起きた」
上体を静かに起こすと、ぼやけた視界のなかで同じ制服の誰かが笑う。声だけでも、それが誰なのかすぐに分かった。
そして、今朝なにがあったのかも、その声ではっきりと思い出した。記憶は途中で途切れてしまっているけれど。
「朝日奈くん……ここは、」
「保健室です。ちなみに、もう午後ですよ。よく寝ましたね」
パイプ椅子に座っている朝日奈くんは、頭上の時計を指す。十二時半……四限目も終わって、ちょうど昼休みの時間だ。
朝日奈くんの言う通り熟睡していたようで、まだ眠気は残っているものの、ここ最近で一番体が軽いような気がした。
「なんで、ここにいるの。先生は?」
「いますよ、ちゃんと。俺と二人きりだと警戒しますか?」
「……別に」
まるで、警戒されていることを見越していたような言い方をする。
ほかに返す言葉もなく黙っていると、カーテンの向こうから生徒たちの騒がしい声が聞こえてくる。だけどそれは少し遠くて、この場所だけが賑やかな校内から切り取られているようだった。
「朝日奈くんが、運んでくれたの」
ひと呼吸おいて尋ねると、朝日奈くんはしずかに頷く。
「運んだっていうのは大袈裟ですけどね。早見さん、ちゃんと歩けてましたし」
「え……そうなの?」
俺の記憶だと、朝日奈くんに支えられてから意識がぼやけているんだけど。
「ふらふらでしたけどね。一緒に歩いてくれましたよ」
「そう、なんだ」
「でも、よかったです。あのまま倒れたりしたら、怪我してたかも」
「さすがに倒れたりは、」
「あんなに顔真っ青にして、何言ってるんですか」
笑って言う朝日奈くんに、肌がひりつく。
俺が目を覚ますのを待っていてくれたんだろうか。彼の手には文庫本が収まっているから、きっとここで、時間を潰そうとしていたのだろう。
「朝日奈くん、昼ごはんは」
「もう食べましたよ」
「昼休み入って、まだ十分だけど」
「早弁したんですよ、朝早いんで。腹減るの、早見さんもわかるでしょ?」
嘘だ。早弁なんて、してないくせに。
「それに最近は、前より早い電車に乗ってるようですし」
形勢逆転。なんでわざわざ嘘をつくのかと咎める寸前に、急所を突かれる。しかも、朝日奈くんは大体の理由をわかっているはずなのに。
「……相変わらず、性格悪い」
「あれ。俺のこと、『優しい人』だって言ってませんでしたっけ」
「それは……」
「あははっ、いいんですよ。そこは簡単に撤回すれば」
その笑い声が嫌いだ。朝日奈くんが自嘲するときに放たれる、乾いた笑い声のことだ。
「そんな風に言うなら……、なんで助けたりするんだよ」
キッと睨みつけても、彼はまったく動じない。それどころか、身を乗り出すようにして俺のことをじっと見つめた。
言ってることとやってることが、理にかなっていない。それは朝日奈くんの方なのに、いつもこっちが追い詰められているような気になるんだ。
「助けたわけじゃないですよ」
見つめ返してくる彼の瞳から、すっ、と乾いた笑みが消える。
パイプ椅子の脚が、ギィッと床をきしませた。近くなった涼やかな香りが、逃げ場のないこの場所に充満する。
「早見さんが倒れそうになったから、手を伸ばしただけです。それに、他のやつに介抱されるなんて、胸糞悪いんで」
あのときと同じだ。
トオルくんへの嫉妬心を剥き出しにされたときと似た空気に、気圧されそうになる。だけど大きく息を吸い込んで、それを耐えた。
いまここで逃げ出したら、何も変わらない。……朝日奈くんの、思う壺だ。
「……じゃあ、どうして。いつもと違う電車に乗ってたのに、どうしてあのとき駅にいたんだよ」
「さあ、どうしてでしょう」
「そうやって……またはぐらかす」
結局、俺はずっと宙ぶらりんだ。朝日奈くんの考えていることが、ずっとわからない。
彼は「それなら」と口角を持ち上げた。
「早見さんが答えてくれたら、俺も教えます」
「なに、それ」
「——早見さんはどうして最近、いつもより早い電車に乗っていたんですか?」
交換条件です。と言いながら微笑む朝日奈くんは、罠に掛かりそうな獲物をじっと見つめて待っている、獣のようだ。
じっとりと、嫌な汗が滲む。俺はたまらず目を逸らした。
「そんなの……なんで、俺が先に答えなきゃいけないの」
「答えたくないですか?」
シーツをぎゅっと握りしめて、小さく頷く。
理由なんて、朝日奈くんならきっと分かっている。それをわざわざ言葉に起こすなんて、拷問だ。
「しょうがないですね。じゃあ、俺の推測が合ってたら、黙って頷いてください」
朝日奈くんはパイプ椅子から静かに立ち上がる。そしてそのまま、俺のベッドに腰を下ろした。
ギィ、とスプリングが軋み、マットレスがわずかに沈む。気配が、さっきよりもずっと近い。
「早見さんは、俺と会うのが怖かったんですよね」
朝日奈くんはベッドに手をついて、さらに距離を詰めてくる。
「自分の知らない感情にさらされて、怖くなった。だから、電車をずらして俺を避けた」
逃げ道を塞ぐような目が、俺を射抜く。
「でも、ぱったり会うことがなくなると、逆に気になって」
それで——そう継がれた瞬間、シーツをつよく握りしめていた拳が大きな手に覆われる。
「眠れなくなってしまった」
睨みあげると、彼は握ったままの拳をスルリと撫でる。肩を弾けば、朝日奈くんは満足げな声で言った。
「俺の隣じゃないと、眠れなくなっちゃいましたか——?」
半月型に細められたその瞳を、久しぶりに見た気がする。
……そうか。朝日奈くんは自分の思い通りに事が進むと、こういう顔をするのか。
頭のなかでは冷静に分析できるのに、体は言うことを聞かない。
だけど、ここでヤケクソになったら。ここでまた彼の罠にハマったら、それこそ変わらない。——朝日奈くんはきっとまた、悪魔になろうとしている。
「そんなこと、ない」
「嘘はダメですよ。……まあ、俺が言うことじゃないですけど」
小さく絞り出した声を、朝日奈くんは器用に拾う。
いつもそうだった。小さなヒントから俺の本質を見抜いて、欲しい言葉をくれる。朝日奈くんは、緻密で恐ろしい。
……でも、どうして。自分のエゴで俺を捉えたいのなら、どうしてこんなに混乱させるんだよ。
「朝日奈くん……あのさ、本当は——」
核心に触れようとした、まさにその瞬間だった。静かな保健室に、昼休みの終わりを告げるチャイムが甲高く響き渡る。
「あー、残念。時間切れみたいです」
もしかして、このタイミングすら狙っていたんじゃないのか。俺が核心をつくことも計算に入れて、ここまで会話を引き延ばしたんじゃ……。
淡々とした会話のトーンに、拳から離れていく低い体温。すべてが飄々としていて、そんな邪推すら湧いてくる。
「っ、」
とうとうおかしくなったか。「じゃあ」とカーテンを開けようとするその手を、俺はとっさに掴んだ。
「ちょ……早見さん?」
引き寄せることはできないけど、引き留めることならギリできる。逃がすもんか、と両手で掴めば、朝日奈くんは戸惑ったように眉を歪めた。
でも、なんで。言いたいことはたくさんあるはずなのに、言葉に詰まる。また、絡まったまま出てこないつもりか。
「早見さん。俺、もう行かないと」
「……ッ」
優しく諭すような声が、いまは耳に痛い。
朝日奈くんは絡まった糸をほどくように、丁寧に、俺の指を一本一本はがしていった。
◇
あのとき、結局なにも言えなかった。
保健室での一件があってから、俺はまた死んだように眠っていた。積もりに積もった寝不足と疲労がたたって、高熱まで出す始末。今日は学校を休んでしまった。
「深ー、大丈夫かー?」
「ん……うん」
ノックと同時に入ってきた幼なじみが、テーブルに食料を並べていく。桜介は共働きの両親に頼まれて、看病を引き受けてくれたらしい。
もう子どもじゃないんだし、一人でなんとかするのに。親はともかく、桜介もすこぶる過保護だ。
「やっぱり具合悪かったんだなぁ。ぶっ倒れるまで気付かないとか、危なすぎるからやめろよ」
「ごめん……でも、倒れてはない」
「保健室、運ばれたんじゃないの?」
「まあ……けど一応、俺も歩けてたらしい。運んでくれた人が……言ってた」
運んでくれた人――朝日奈くんが本当のことを言っていたかどうかは、今となっては怪しいけれど。
訝しげな顔をしている桜介からペットボトルを受け取って、喉に流し込む。冷たくて気持ち良い。
「どうする? そろそろ冷えピタ替える?」
火照った頭をコクリと縦に振る。桜介は手際よく新しいシートを取り出して、そばに寄ってきた。
「じゃあ、前髪あげて」
「いや、自分でできるって」
「病人なんだし、甘えなよ」
「いい……子ども扱いしすぎ」
すこし強引にシートを奪い取って、ペチン、と額に貼り付ける。めずらしく俊敏に動いたせいか、桜介は目を見開いていた。
桜介が、親切で言ってくれているのはわかってる。だけどその甲斐甲斐しさが、いまの俺には息苦しかった。
「なんか深さ、ちょっと変わった?」
「いや……特に、変わんないと思うけど」
「そう?」
首をかしげる桜介の視線から逃げるように、手元のスマホへ目を落とす。するとそれを予感していたかのように、ピコンとメッセージ通知が鳴った。
差出人は、トオルくんだ。
『風邪、だいじょうぶですか?』
どこから情報を仕入れたんだろう。もしかして朝日奈くん……いや、さすがに休んだことまでは知らないだろうし。となると、俺のクラスに行って聞いたんだろうか。
『心配です!!』
追って送られてきたメッセージ。それと、うさぎがポロポロと涙をこぼすスタンプ。あまりにも透くんらしい。
「どうした?」
「後輩が、メッセージくれて」
「お、よかったなぁ」
素直に頷いて、『大丈夫だよ。ありがとう』と返信する。しばらくして、うさぎのスタンプが返ってきた。今度はキラキラと目を輝かせている。
『それなら良かったです! 家は一人ですか?』
『いまは幼なじみが来てくれてる』
『それなら安心っすね。お大事にしてください!』
簡単なやりとりを終えて、俺は仰向けになる。
桜介以外に、こんなメッセージをもらったのは初めてかもしれない。まっすぐで裏のないトオルくんの優しさが、じんわりと染み込んでいくのを感じていた。
ブブブ、ブブブ、ブブブ——!
枕元でスマホが振動を上げ始めたのは、それからすぐのこと。あまりにも連続して鳴るので、離れたところにいた桜介も、その音に反応していた。
また、トオルくん……?
あたたかな余韻を残したまま、重い腕を伸ばして画面を覗き込む。――その瞬間、血の気が引いた。
「なに……これ」
新しい通知が、古い通知を上へ上へと押し流していく。その異様な光景と、決済アプリを示すアイコンに息を呑んだ。
「あさひな、くん……?」
止まらない連続通知に、上体を起こす。
『100円を受け取りました』
『100円を受け取りました』
『100円を受け取りました』――。
なんだよ、これ。
アプリを開けば、送金は『朝日奈律世』からのものだと確認できる。しばらくして怒涛の通知がやんだと思えば、最後に二件だけ、静かにメッセージを受信した。
体育祭のとき、情報売買に使った方法とまったく同じ。それは、送金に添えられたものだった。
『朝日奈律世から100円を受け取りました:これまで受け取っていた分、お返しします』
『朝日奈律世から100円を受け取りました:契約はもう終わりにしましょう』
胸のなかを、冷たい風が吹き抜けた。
ゆっくりと浮上する意識のなかで、真っ先に鼻を突いたのは、消毒液と湿布の入り混じった匂いだった。
次に聞こえたのは、カサリと布が擦れる音。
——ここ……どこだ。
重い瞼を持ち上げると、見慣れない白い天井と、ベッドをぐるりと囲む淡いグリーンのカーテンが視界に飛び込んでくる。うっすらと天井に映し出された外の光は、まだ白く眩しかった。
どうして、こんなところにいるんだっけ。制服……ってことは、学校か。
「――やっと起きた」
上体を静かに起こすと、ぼやけた視界のなかで同じ制服の誰かが笑う。声だけでも、それが誰なのかすぐに分かった。
そして、今朝なにがあったのかも、その声ではっきりと思い出した。記憶は途中で途切れてしまっているけれど。
「朝日奈くん……ここは、」
「保健室です。ちなみに、もう午後ですよ。よく寝ましたね」
パイプ椅子に座っている朝日奈くんは、頭上の時計を指す。十二時半……四限目も終わって、ちょうど昼休みの時間だ。
朝日奈くんの言う通り熟睡していたようで、まだ眠気は残っているものの、ここ最近で一番体が軽いような気がした。
「なんで、ここにいるの。先生は?」
「いますよ、ちゃんと。俺と二人きりだと警戒しますか?」
「……別に」
まるで、警戒されていることを見越していたような言い方をする。
ほかに返す言葉もなく黙っていると、カーテンの向こうから生徒たちの騒がしい声が聞こえてくる。だけどそれは少し遠くて、この場所だけが賑やかな校内から切り取られているようだった。
「朝日奈くんが、運んでくれたの」
ひと呼吸おいて尋ねると、朝日奈くんはしずかに頷く。
「運んだっていうのは大袈裟ですけどね。早見さん、ちゃんと歩けてましたし」
「え……そうなの?」
俺の記憶だと、朝日奈くんに支えられてから意識がぼやけているんだけど。
「ふらふらでしたけどね。一緒に歩いてくれましたよ」
「そう、なんだ」
「でも、よかったです。あのまま倒れたりしたら、怪我してたかも」
「さすがに倒れたりは、」
「あんなに顔真っ青にして、何言ってるんですか」
笑って言う朝日奈くんに、肌がひりつく。
俺が目を覚ますのを待っていてくれたんだろうか。彼の手には文庫本が収まっているから、きっとここで、時間を潰そうとしていたのだろう。
「朝日奈くん、昼ごはんは」
「もう食べましたよ」
「昼休み入って、まだ十分だけど」
「早弁したんですよ、朝早いんで。腹減るの、早見さんもわかるでしょ?」
嘘だ。早弁なんて、してないくせに。
「それに最近は、前より早い電車に乗ってるようですし」
形勢逆転。なんでわざわざ嘘をつくのかと咎める寸前に、急所を突かれる。しかも、朝日奈くんは大体の理由をわかっているはずなのに。
「……相変わらず、性格悪い」
「あれ。俺のこと、『優しい人』だって言ってませんでしたっけ」
「それは……」
「あははっ、いいんですよ。そこは簡単に撤回すれば」
その笑い声が嫌いだ。朝日奈くんが自嘲するときに放たれる、乾いた笑い声のことだ。
「そんな風に言うなら……、なんで助けたりするんだよ」
キッと睨みつけても、彼はまったく動じない。それどころか、身を乗り出すようにして俺のことをじっと見つめた。
言ってることとやってることが、理にかなっていない。それは朝日奈くんの方なのに、いつもこっちが追い詰められているような気になるんだ。
「助けたわけじゃないですよ」
見つめ返してくる彼の瞳から、すっ、と乾いた笑みが消える。
パイプ椅子の脚が、ギィッと床をきしませた。近くなった涼やかな香りが、逃げ場のないこの場所に充満する。
「早見さんが倒れそうになったから、手を伸ばしただけです。それに、他のやつに介抱されるなんて、胸糞悪いんで」
あのときと同じだ。
トオルくんへの嫉妬心を剥き出しにされたときと似た空気に、気圧されそうになる。だけど大きく息を吸い込んで、それを耐えた。
いまここで逃げ出したら、何も変わらない。……朝日奈くんの、思う壺だ。
「……じゃあ、どうして。いつもと違う電車に乗ってたのに、どうしてあのとき駅にいたんだよ」
「さあ、どうしてでしょう」
「そうやって……またはぐらかす」
結局、俺はずっと宙ぶらりんだ。朝日奈くんの考えていることが、ずっとわからない。
彼は「それなら」と口角を持ち上げた。
「早見さんが答えてくれたら、俺も教えます」
「なに、それ」
「——早見さんはどうして最近、いつもより早い電車に乗っていたんですか?」
交換条件です。と言いながら微笑む朝日奈くんは、罠に掛かりそうな獲物をじっと見つめて待っている、獣のようだ。
じっとりと、嫌な汗が滲む。俺はたまらず目を逸らした。
「そんなの……なんで、俺が先に答えなきゃいけないの」
「答えたくないですか?」
シーツをぎゅっと握りしめて、小さく頷く。
理由なんて、朝日奈くんならきっと分かっている。それをわざわざ言葉に起こすなんて、拷問だ。
「しょうがないですね。じゃあ、俺の推測が合ってたら、黙って頷いてください」
朝日奈くんはパイプ椅子から静かに立ち上がる。そしてそのまま、俺のベッドに腰を下ろした。
ギィ、とスプリングが軋み、マットレスがわずかに沈む。気配が、さっきよりもずっと近い。
「早見さんは、俺と会うのが怖かったんですよね」
朝日奈くんはベッドに手をついて、さらに距離を詰めてくる。
「自分の知らない感情にさらされて、怖くなった。だから、電車をずらして俺を避けた」
逃げ道を塞ぐような目が、俺を射抜く。
「でも、ぱったり会うことがなくなると、逆に気になって」
それで——そう継がれた瞬間、シーツをつよく握りしめていた拳が大きな手に覆われる。
「眠れなくなってしまった」
睨みあげると、彼は握ったままの拳をスルリと撫でる。肩を弾けば、朝日奈くんは満足げな声で言った。
「俺の隣じゃないと、眠れなくなっちゃいましたか——?」
半月型に細められたその瞳を、久しぶりに見た気がする。
……そうか。朝日奈くんは自分の思い通りに事が進むと、こういう顔をするのか。
頭のなかでは冷静に分析できるのに、体は言うことを聞かない。
だけど、ここでヤケクソになったら。ここでまた彼の罠にハマったら、それこそ変わらない。——朝日奈くんはきっとまた、悪魔になろうとしている。
「そんなこと、ない」
「嘘はダメですよ。……まあ、俺が言うことじゃないですけど」
小さく絞り出した声を、朝日奈くんは器用に拾う。
いつもそうだった。小さなヒントから俺の本質を見抜いて、欲しい言葉をくれる。朝日奈くんは、緻密で恐ろしい。
……でも、どうして。自分のエゴで俺を捉えたいのなら、どうしてこんなに混乱させるんだよ。
「朝日奈くん……あのさ、本当は——」
核心に触れようとした、まさにその瞬間だった。静かな保健室に、昼休みの終わりを告げるチャイムが甲高く響き渡る。
「あー、残念。時間切れみたいです」
もしかして、このタイミングすら狙っていたんじゃないのか。俺が核心をつくことも計算に入れて、ここまで会話を引き延ばしたんじゃ……。
淡々とした会話のトーンに、拳から離れていく低い体温。すべてが飄々としていて、そんな邪推すら湧いてくる。
「っ、」
とうとうおかしくなったか。「じゃあ」とカーテンを開けようとするその手を、俺はとっさに掴んだ。
「ちょ……早見さん?」
引き寄せることはできないけど、引き留めることならギリできる。逃がすもんか、と両手で掴めば、朝日奈くんは戸惑ったように眉を歪めた。
でも、なんで。言いたいことはたくさんあるはずなのに、言葉に詰まる。また、絡まったまま出てこないつもりか。
「早見さん。俺、もう行かないと」
「……ッ」
優しく諭すような声が、いまは耳に痛い。
朝日奈くんは絡まった糸をほどくように、丁寧に、俺の指を一本一本はがしていった。
◇
あのとき、結局なにも言えなかった。
保健室での一件があってから、俺はまた死んだように眠っていた。積もりに積もった寝不足と疲労がたたって、高熱まで出す始末。今日は学校を休んでしまった。
「深ー、大丈夫かー?」
「ん……うん」
ノックと同時に入ってきた幼なじみが、テーブルに食料を並べていく。桜介は共働きの両親に頼まれて、看病を引き受けてくれたらしい。
もう子どもじゃないんだし、一人でなんとかするのに。親はともかく、桜介もすこぶる過保護だ。
「やっぱり具合悪かったんだなぁ。ぶっ倒れるまで気付かないとか、危なすぎるからやめろよ」
「ごめん……でも、倒れてはない」
「保健室、運ばれたんじゃないの?」
「まあ……けど一応、俺も歩けてたらしい。運んでくれた人が……言ってた」
運んでくれた人――朝日奈くんが本当のことを言っていたかどうかは、今となっては怪しいけれど。
訝しげな顔をしている桜介からペットボトルを受け取って、喉に流し込む。冷たくて気持ち良い。
「どうする? そろそろ冷えピタ替える?」
火照った頭をコクリと縦に振る。桜介は手際よく新しいシートを取り出して、そばに寄ってきた。
「じゃあ、前髪あげて」
「いや、自分でできるって」
「病人なんだし、甘えなよ」
「いい……子ども扱いしすぎ」
すこし強引にシートを奪い取って、ペチン、と額に貼り付ける。めずらしく俊敏に動いたせいか、桜介は目を見開いていた。
桜介が、親切で言ってくれているのはわかってる。だけどその甲斐甲斐しさが、いまの俺には息苦しかった。
「なんか深さ、ちょっと変わった?」
「いや……特に、変わんないと思うけど」
「そう?」
首をかしげる桜介の視線から逃げるように、手元のスマホへ目を落とす。するとそれを予感していたかのように、ピコンとメッセージ通知が鳴った。
差出人は、トオルくんだ。
『風邪、だいじょうぶですか?』
どこから情報を仕入れたんだろう。もしかして朝日奈くん……いや、さすがに休んだことまでは知らないだろうし。となると、俺のクラスに行って聞いたんだろうか。
『心配です!!』
追って送られてきたメッセージ。それと、うさぎがポロポロと涙をこぼすスタンプ。あまりにも透くんらしい。
「どうした?」
「後輩が、メッセージくれて」
「お、よかったなぁ」
素直に頷いて、『大丈夫だよ。ありがとう』と返信する。しばらくして、うさぎのスタンプが返ってきた。今度はキラキラと目を輝かせている。
『それなら良かったです! 家は一人ですか?』
『いまは幼なじみが来てくれてる』
『それなら安心っすね。お大事にしてください!』
簡単なやりとりを終えて、俺は仰向けになる。
桜介以外に、こんなメッセージをもらったのは初めてかもしれない。まっすぐで裏のないトオルくんの優しさが、じんわりと染み込んでいくのを感じていた。
ブブブ、ブブブ、ブブブ——!
枕元でスマホが振動を上げ始めたのは、それからすぐのこと。あまりにも連続して鳴るので、離れたところにいた桜介も、その音に反応していた。
また、トオルくん……?
あたたかな余韻を残したまま、重い腕を伸ばして画面を覗き込む。――その瞬間、血の気が引いた。
「なに……これ」
新しい通知が、古い通知を上へ上へと押し流していく。その異様な光景と、決済アプリを示すアイコンに息を呑んだ。
「あさひな、くん……?」
止まらない連続通知に、上体を起こす。
『100円を受け取りました』
『100円を受け取りました』
『100円を受け取りました』――。
なんだよ、これ。
アプリを開けば、送金は『朝日奈律世』からのものだと確認できる。しばらくして怒涛の通知がやんだと思えば、最後に二件だけ、静かにメッセージを受信した。
体育祭のとき、情報売買に使った方法とまったく同じ。それは、送金に添えられたものだった。
『朝日奈律世から100円を受け取りました:これまで受け取っていた分、お返しします』
『朝日奈律世から100円を受け取りました:契約はもう終わりにしましょう』
胸のなかを、冷たい風が吹き抜けた。

