朝日奈くんは、俺に睡眠を売りたいらしい。

 ◇

 俺の頭のなかは、日を追うごとにうるさくなっていった。
 ゲームにも手がつかなくて、ベッドに入り目を閉じる。暗闇のなかで真っ先に蘇るのは、朝日奈くんの声だった。

 ――“早見さんが……欲しい言葉くらい、すぐわかるんですよ”

 とくに、そのセリフを思い出す日はひどかった。
 どこまでが本心で、どこまでが虚像なのか。雨の日に見せたあの表情も、朝日奈くんが吐き出した罪悪感も、ぜんぶ俺を懐柔するために仕組まれたものだったとしたら。
「最悪だ……」
 もしその通りなら、本物の悪魔だ。朝日奈くんは罠をたくさん用意して、俺がハマるのを虎視眈々と見届けていた。
 ――……でも、だとしたらどうして。
 体育祭で、あんな風に種明かしをする意味がわからない。目の前の餌に飛びつこうとしていた獲物に、これは実は毒でした、と明かすようなものだ。

 あの日、隣の車両へ逃げてから、俺は朝日奈くんと同じ電車に乗ることも、いつもの車両で座ることも避けていた。
 校内でも朝日奈くんの行きそうな場所には近寄らず、昼休みは教室の自分の席で、死んだように過ごした。教室まで来られたら逃げる場所がないと心配していたけど、朝日奈くんが訪れることは一度もなかった。
 待ち伏せされることも、視線を感じることもない。あの決済アプリから通知が届くこともない。
 徐々に平穏を取り戻して、朝日奈くんの気配は、日常から綺麗さっぱり消え失せる――はずだったのに。

「もう、限界……」
 日が経つにつれて、思考も視界も、闇へ沈んでいくようだった。
 ぐったりしてカーテンの隙間を見据えると、もう朝が近い。十一月に入って、日はもう充分短いはずなのに、明け方の気配はよくわかる。
 洗面所で鏡をみれば、濃いクマが刻まれた自分の顔にぞっとする。母さんにはゲームのやりすぎだって怒られたけど、最近はめっきり手を付けられないでいた。

 ――なにこれ。朝日奈ノイローゼ?
 自嘲的に笑って家を出る。
 朝日奈くんに契約を持ちかけられる前の、あの平穏な日常に戻っているはずなのに、胸の奥のモヤは溶けなかった。
 毎日、うまく眠れない。ゲームで気を紛らわせようとしても、ふとした瞬間に思い出す。これまで、どうやって一日を過ごしてきたのか、途端にわからなくなった。

 前よりも一本だけ早い電車に乗って、千瀬川駅を通り過ぎる。
 朝日奈くんの姿は、今日もない。
「……避けてんだから、あたりまえだろ……」
 誰にも聞こえない声で呟いて、うずくまる。
 正直、ここまで顔を見せなくなるとは思わなかった。朝日奈くんのことだから、俺がいくら避けようとしたところで、すぐに見つけ出してくると思っていたから。​
 でも、実際は違う。もう一週間以上、彼の姿を見ていない。まるで、朝日奈くんも俺と会うことを避けているみたいだ。
 俺が逃げたから、追ってこない。それがあまりにも朝日奈くんらしくなくて、逆に落ち着かなかった。


 胸の奥に冷たい重石を落とされたまま、電車を降りる。今朝も結局、電車のなかで眠ることはできなくて、体が重い。
 改札を出ると、人の往来が激しくて視界が歪む。足が、うまく動かない。
「ハァ……ハァ……」
 なに、これ。
 喉が塞がったみたいに、息が入ってこない。もうすっかり空気は冷たいはずなのに、額から汗が噴き出して止まらない。膝から、一気に力が抜ける。
 ——……やばい、体が……。
 立ち止まったその瞬間、さっきとは比にならないくらいのめまいが襲った。ぐわん、と視界が渦を巻く。
 もう無理だ。倒れる。覚悟を決めた、その瞬間だった。
「——早見さん」
 頭上から、聞き間違えるはずもない、あの低く澄んだ声が降ってくる。
 ……なんで、ここに? 同じ電車には乗っていなかったはずなのに。
「ふらふらですね……ほら、俺に体重あずけて」
「な、んで……」
「そんなこと、言ってる場合じゃないでしょ」
 後ろから腰を支える、腕の感触。耳元をわずかに掠める、何かを諦めたような嘆息。それと、隣り合う彼からよく漂っていた、涼やかな香り。
 ——そんなこと、なんかじゃない。
 避けてたんじゃないのかよ。なんで今になって現れるんだよ。なんで、助けるんだよ。なんで俺がここにいるって、知ってるの。どうせ全部、偶然じゃないんだろ。
「安心してください。お代はいただきませんから」
 そっちこそ……こんなときに何言ってんだ。
 ​責め立てる言葉はいくらでも浮かぶのに、喉につかえて出てこない。代わりに睨みつけようとしたけれど、視界はもう、一面の黒い渦に呑み込まれていく。
「ホント……手がかかる人だ」
 朝日奈くんが、耳元でなにか呟いた。けれど、それを確かめる前に、俺の意識はぷつりと途切れた。