朝日奈くんは、俺に睡眠を売りたいらしい。


 ◇

 ご機嫌な鼻歌が聴こえてきたのは、朝日奈くんと二人で階段を下っているときだった。
「お、早見くん……と、朝日奈?」
「森尾先生……場所、ありがとうございました」
 もしかして、この人の鼻歌か。
 階段の踊り場でたまたますれ違った森尾先生に、お礼を言った。熱気にもまれず優雅に昼休みを過ごせたのは、あの化学室のおかげだ。
「いいえ。それより君ら、仲良いんだね」
 先生は隣に並んだ朝日奈くんを見て、にやりと口角を持ち上げた。たしか森尾先生は、朝日奈くんのクラスの担任だ。
「そう見えます?」
「うん。だって、昼一緒にいたんだろ? わざわざ、学年も違うのに」
 朝日奈くんの問いかけに即答する先生。それは情報売買をしたからです、とは口が裂けても言えない。
 苦笑していると、朝日奈くんは隣の俺をのぞき込むようにして、悪戯っぽく、けれどどこか真剣な声で応えた。
「仲良くなりたいと思ってますよ。俺は」


 あんなこと……先生の前で言わなくてもよかったのに。
 踊り場を後にして、俺たちはグラウンドまでの道を歩く。心なしか、いつも歩いているペースよりもゆっくりだった。
「……今度、先生にからかわれそう」
 ぼそっと独り言を落とすと、朝日奈くんはあっけらかんとした表情で「そうなんですか?」と言う。
「よく話すんですね」
「まあ……一応顧問だし」
「食えないタイプですよね」
 それは君もでは? と、喉まで出かかった言葉を呑み込む。
「森尾先生って、早見さんと話も合いそうだし」
「え、そう?」
 校内では比較的、話しやすい人ではあるけど、特別そんな風に感じたことはなかった。
 朝日奈くんはじとっとした目つきで俺を見下ろす。どこか不満げな表情だ。
「さっきの鼻歌……あれ、あの曲でしたし」
 ああ、もしかして、階段で聴こえてきた鼻歌のことだろうか。それは、グラウンドに流れていたゾンビ映画の主題歌だった。
「そういえば、そうだね」
「森尾先生が流したんじゃないですか?」
「え、なんで?」
「鼻歌、あれ先生のでしょ」
 言われてみれば、そうかもしれない。生徒の可能性は低いと思っていたけど、まさかこんな身近にいるなんて。
「つまり、あの人も早見さんと趣味が合うってことですよ。……ほんと食えない」
 わざとらしくため息を吐きながら、朝日奈くんは空を仰ぐ。食えないのはお互い様だと思うけど、まあ、同族嫌悪ってやつだろうか。
 よくわからないまま、俺も一緒になって空を見上げた。
「午後はさらに暑そうですね」
「……うん。もう戻りたい」
「さすがに早すぎでしょ」
 朝日奈くんは呆れたように笑う。そして、なにかを思い出したようにこちらを覗き込んだ。
「そういえば、早見さんって午後なにか出ます?」
「あー……たしか、障害物競争」
「楽しそうですね。応援します」
 いいのか、違うチームなのに。
「だから、頑張ってくださいね」
「まあ、それなりに」
「クラスの人たちも応援してますよ」
「……それはどうだろ。余ってるとこに宛てがわれただけだし」
 自嘲気味に笑うと、朝日奈くんはピタリと足を止めて俺の腕を掴んだ。急にどうしたんだと振り返れば、彼は不服そうな表情で佇んでいる。
「——早見さんは、自分を低く見積もりすぎですよ」
「なに、急に……」
「あなたは余り物でもないし、ちゃんと人に好かれる人です」
 掴まれた腕から、じんわりと熱い体温が伝わってくる。ぎゅっとさらに強く握られて、俺は目を瞬いた。
 誰かに好かれるとか、嫌われるとか。そういうことに無頓着だったのは、人間関係と同じで煩わしいと思っていたから。自分を低く見積もるくせがついていたのは、期待を寄せて傷つきたくなかったから——。
 ぜんぶ見透かされてしまったような気がして、呆れ半分に笑った。……本当に、朝日奈くんは侮れない。
「真剣なんですよ。これでも」
 笑ったことを咎めるように、彼は口を窄める。
「うん。分かってる」
「ほんとに?」
「本当」
「ならいいですけど」
 ふっと腕の力が抜けて、彼の体温が離れていく。ちょうどそのとき、グラウンドから賑やかな音楽が流れ始めた。
 もうすぐ、後半戦が始まる合図だ。
「じゃあ、そろそろ。行きますね」
「うん」
「ちゃんと見てますから」
「ん……分かったよ。行ってらっしゃい」
 念を押して言った彼の背中に、ひらひらと手を振る。グラウンドまで颯爽と駆けていく赤いTシャツは、あっという間に人混みに紛れてしまった。
「……そんなに見られたら、緊張するって」
 ひとり取り残された俺は、自分のハチマキを締め直す。掴まれていた腕には、まだかすかに彼の体温が残っていた。

 ◇

 あれ……聞いてないんだけど。
 障害物競争の第一レースが終わる頃、第四レース走者の俺は眉を寄せていた。
『第一レースは黄色が勝利! 借り人コーナーで圧倒的な速さを見せました!』
 グラウンド全体に轟いたアナウンスに、額を押さえる。
 障害物競争って、ネットくぐって麻袋でジャンプするだけじゃないの……? 完全にリサーチ不足だ。
 どうやら今年の障害物競争は、後半が借り人競争になっているハイブリッド仕様らしい。トラックの最終直線には、ご丁寧に『借り人コーナー』と書かれた看板と、お題カードが載った長机が設置されている。
 つまり最終的には、お題に沿った人をこのグラウンドのなかから見つけて、声を掛けて、一緒にゴールしなければならない。
 ……知ってたら、絶対に辞退したのに。
「位置について——」
 憂鬱な心とは裏腹、レースはスムーズに進行していく。気づけば第二、第三レースがあっという間に終わっていた。
「次、第四レースの選手はレーンに入ってー」
 これって、借り人できない場合はどうなるんだ。
 最悪のシーンを想像しながら、促された通りスタートラインへと歩き出す。
 周りを見渡すと、同じレースを走る選手たちは前屈をしたり肩を回したりして、調子を整えていた。
「あ、いた! はやみーん!はやみんセンパーイ!」
 トオルくん……?
 入場口のほうから飛んできた、ひときわ大きな声を振り返る。すると、ハチマキを首に巻いたトオルくんが、ちぎれんばかりに両手を振っていた。周囲の視線が集まるのもお構いなしに、
「頑張ってくださーい!」
 と、メガホン代わりに両手を口に当てて叫んでいる。
 めちゃくちゃ目立ってる。それに、人のことあんなに全力で応援できるって、すごい。
 ——“あなたは余り物でもないし、ちゃんと人に好かれる人です”
 不意に、朝日奈くんの言葉が過って、体中がむず痒くなる。
 トオルくんがこんなに応援してくれるのは、俺だから……なのか。
 今までの自分には考えられない思考に驚いて、力が抜ける。ふう、と息を吐いて手を振り返すと、トオルくんは嬉しそうに歯を見せてガッツポーズをお見舞いしてくれた。
 そして、その数歩後ろには——。

「第四レース、位置について」
 パァン! 乾いたピストルの音が突き抜けるのと同時に、走り出す。
 ぎらぎらとした太陽が照りつけるトラック。一歩、二歩と地面を蹴るたびに、視界が激しく後ろへと流れていく。
 突風が耳元を掠めていくなかで、スタート直前のワンシーンが脳裏を過った。
 ——“がんばれ”
 トオルくんの数歩後ろには、朝日奈くんがいた。目が合った瞬間、彼は口元にしなやかな笑みを湛えて、たしかにそう言っていた。
 声は聴こえなかったけど、間違いない。
『第四レース、接戦です! まずは第一関門、どのチームが先に突破するでしょうか!』
 まずは、ネットくぐり。
 前を走っていた二人が勢いよく滑り込む。だけど焦りからかネットに足を取られ、もがくように失速した。
 ——ちょっと、チャンスかも。
 普段の自分なら、突破口を探すことすらしなかったかもしれない。余り物の走者なんだから、ビリになったって別にいいと勝負をいなしていた。
 でも、トオルくんの応援のせいで。朝日奈くんが見ているせいで——いまは、投げ出したくない。
 二人がもたついているわずかな隙間を目がけて、俺は迷わず身を沈めた。
 麻縄のざらついた感触が手を掠める。四つん這いになって、素早く手足を動かして前へと進む。ネットのたるみを押し上げながら、最短ルートを突っ切った。
「……っし」
 バサリと網を跳ねのけ、誰よりも早く青空の下へと飛び出す。勢いよく立ち上がって再び地面を蹴ると、自陣からありえない声が聴こえてきた。
「がんばれ早見くん!」
「いま一位だよ! 行け、がんばれ!」
 ありえない。ろくに会話もしない、盛り上がることもできない、いつも一人でいる俺に歓声なんて。
 ——……応援されるって、こんな感じなのか。
 さっきから、心臓がドキドキしている。走っているせいだけではなくて、すこし浮つくような、高揚感が込み上げる。
 第二関門の麻袋に足をつっこんだ俺は、トオルくんに書いたメッセージのことを思い出した。
 たった一言。言葉ひとつ。それが原動力になるなんて、書いたあの瞬間はまったく信じられなかったのに。
『水色! 早見選手、速いです! その後ろを追いかけるように、緑、黄色が続きます!』
 名前を呼ばれるのはやっぱり恥ずかしいけど、一位は悪くない。目立つのは好きじゃないけど、応援されるのは嫌じゃない——。
 運がいいことに、俺は第三関門のハードルもトップで通過した。周りの歓声は、ゴールに近づくにつれてどんどん大きなものになる。
「これで、最後……」
 目の前に見えてきたのは、例の借り人コーナー。白いカードがずらりと並んだ机を前に、俺は立ち止まった。
 肩で激しく息をしながら、乱れる呼吸を整える。流れる汗が目に入りそうになるのを拭い、すぐにカードを引いた。
「……は、」
 書かれていた文字を目にした瞬間、体がぴたりと停止する。後ろからは他の選手が追い上げてきて、思考を焦らせた。
 ……このお題に当てはまるような、それでいて、俺が連れていけそうな人。
「よっしゃ楽勝、背高いやつ!」
「メガネ掛けてるのは、っと……」
 後ろにいた選手たちは、迷いなく応援席のほうへ散っていく。
 ——早く、行かないと。
 俺はスタートラインのほうへ視線をやって、走り出す。お題の書かれたカードを握りしめて、全速力でその人を借りに向かった。

「っ、あさ、ひなくん……」
 人混みをかき分け、息を切らせて滑り込んだ先。そこにはスタートの直前、俺にエールを送ってくれた朝日奈くんが目を丸くして立っていた。
「え、早見さ——」
「きて……、おねがい」
 息を切らしながら、有無を言わせずその手を掴む。
 せっかく今まで、知り合いじゃないふりをしてくれてたのに、無駄にしてごめん。
​ 心のなかで懺悔しながら、掴んだ手には思いきり力を込めた。
「ほんとに、俺で良いんですか?」
「うん」
「お題、なんです?」
「……あとで、わかるから」
 二人並んで、急いでトラックに戻る。朝日奈くんは拒むどころか、むしろ俺をリードするような足取りでゴールへ向かってくれた。
 手をつなげた先で、俺を気にかけるように振り返る表情は、心なしか愉しそうだ。
『緑! 黄色! そして水色がいま、借り人審査にやってきました!』
 スタート地点まで戻ったせいで、トップだったはずのアドバンテージはもうない。最後は審査を終えて、二人で走るのみ。
「オッケーです」
 審査員の生徒はカードと朝日奈くんの顔を交互に見つめて、ゴーサインを出す。あのエリアのなかで朝日奈くんは、言葉を失うほど驚いていた。

「三着……」
 結果は三位。ラストスパートをかけたものの、トップで逃げ切ることはできなかった。
 まさか自分が、体育祭でこんな感情になるなんて思わなかった。あのまま一着でゴールしたかった、なんて。
「はぁ……はぁ……」
 両膝に手をついて、荒い息を吐き出す。地面に汗が滴り落ちるのを、静かに眺めた。
「惜しかったですね。接戦だったのに」
 借り人の朝日奈くんは、待機レーンで俺の背中を擦る。最終レースが終わるまで、トラック内から出られない決まりだ。
「うん……巻き込んで、ごめん」
 顔を上げれば、また次のレースが始まっている。
「いえ、全然。でも、よかったんですか?」
「ん……?」
「お題のあれ、俺で合ってます?」
 審査のとき、朝日奈くんが目にしたカードに書かれていたお題。それは——『優しい人』だった。
「合ってる」
「ほんとに?」
 即答したのに、疑い深い朝日奈くんはじっと探るような目でこちらを見つめる。
「他に頼めそうな人がいないから、俺を宛てがったとか」
 それを言い出すなら、君が俺に言ったセリフをそっくりそのまま、返したい。朝日奈くんだって、自分を低く見積もっている。
「違うよ。朝日奈くんは……少しだけ優しいし」
「少しだけっていります?」
「わりと重要」
 笑みを返せば、朝日奈くんは乾いた笑いを響かせる。
「俺が、損得勘定で動くような人間だって、知ってますよね」
「そうだね」
「そんな人間が優しいんですか?」
「最初はそう思わなかったけど……今は、違う」
 パァン! とピストルの音が響いて、また次のランナーが障害物を超えていく。激しく砂ぼこりが舞うなかで、俺はしずかに息を吸い込んだ。
「本当は優しいのに、優しくないふりするから。ずっとわかりにくかったけど」
「……そんなの、してました?」
「対価があるから親切にしてるって、振りかざしてた。本当は、それだけじゃないのに」
 人が散らしたノートを真っ先に拾いにきたり、小さな傘に入れてくれたり、人のために言葉を尽くしたり。
 自分は損得でしか動かないという顔を貼りつけながら、面倒なことに率先して手を伸ばす。
「だから、たぶん……ちょっとだけ優しい人」
 朝日奈くんの言葉がなければ、いま俺はこんなに清々しい気分でここに立てていないと思う。なんて、素直に言えるほどの勇気はまだないけれど。
「朝日奈くん?」
 彼が何かを言おうとして、口を閉じる。そのときほんの一瞬だけ、目元が緩んだ気がした。
「……」
 砂ぼこりがさらに、勢いをつけて舞う。レースは最終局面、グラウンドが歓声に満ちるなか、朝日奈くんは顔を歪めた。
 さっきのは、気のせいだったのか——様子が、おかしい。
「早見さんが、欲しい言葉くらい……すぐわかるんですよ」
「え……?」
「ここまで計算だとしたら、どうです?」
 なんだ、急に。
 なにかを決したような瞳に、気圧される。それに、計算だとしたら、って。朝日奈くんが打算的なことはとっくに知ってる。雨の日に晒された本心も、受け止めたはずだ。
「わかります? 俺が言ってるのは、“最初から” の話ですよ」
「最初から……?」
「あなたの隣にいたくて、契約を持ちかけたとしたら」
 どうしてそんなことを言うのかわからない。なのに朝日奈くんは、ずっと前からこの瞬間を待っていたかのような顔をしていた。
 その表情に、背筋が凍る。今日は夏日だと、言っていたのに。
「全部、早見さんと距離を詰めるために、やったことだとしたら」
「それは……俺が希少価値だからって」
「本心ですよ」
「じゃあ、」
「俺にとってあなたは、唯一無二なので」
 ピストルが二度、空を穿つ。選手たちが一斉に退場口していく。
 なのに俺は、そこから動けなかった。朝日奈律世が言い残したセリフを、反芻していた。

 これでも、優しい人間だって言えますか——?