朝日奈くんは、俺に睡眠を売りたいらしい。


 スウェーデンリレーが花形種目であるということを、俺は直前まで知らずにいた。
「朝日奈くん、アンカーじゃんっ」
「うそ、じゃあ四百で仙崎と真っ向勝負?」
「うわ……、どうしよ。どっち応援すればいいの~」
 自陣でそう騒いでいた女子たちに、クラスの男子は「仙崎に決まってんだろ!」と総突っ込みを入れていた。
 仙崎というのはうちのクラスメートで、たしか陸上部だったはずだ。四百メートル専門で、スウェーデンリレーのアンカーにはもってこい。
 リレーの配点は大きいから、さっきまで「ここは絶対勝つぞ!」って、クラス一丸となっていたはずなのに。
 イケメンというのは恐ろしい。
 ――で、結果はというと。
『水色、仙崎、逃げ切ったー! 赤の猛追は一歩届かず、大熱戦です!』
 先にリードをしていたうちのチームが、最後まで逃げ切った形で勝利を収めた。とはいえ、朝日奈くんの走りは予想以上で、ゴールがあと五十メートル先なら結果は変わっていたかもしれない。
 声援は、ほかの種目の比にならないほど大きく、グラウンドを激しく揺らした。

 もしかしたら、あのとき朝日奈くんが口にした「難しい」は、リレーの結果のことを言っていたのかもしれない。
 わずかに取り違えたセリフを反芻して、俺は化学室の扉を開いた。
「お疲れサマです」
 にこりと微笑むイケメンが中で迎える。彼は赤いTシャツの胸元をぱたぱたと扇ぎながら、テーブルに購買のパンを並べた。
「本当に来たんだ」
「はい。せっかくいい場所、教えてもらったんで」
 そう言って掲げられたスマホには、あの決済アプリが映っている。

『昼ご飯、静かに食べられるいい場所知りませんか?』

 そのメッセージとともに彼から送られた『300円』。実は数分前、俺は朝日奈くんと、とある取引をしていた。
 先払いされたことで、こっちの逃げ場は塞がれたも同然だったけど。
「教えてもらえて助かりました。人が多くて、落ち着けなかったんで」
 大方、女子たちに囲まれでもしたんだろう。
 ただでさえ目立つのに、あんだけリレーで注目されればそうなるよ。
 惜敗した彼の雄姿を浮かべながら、俺は正面に腰を下ろした。
「森尾先生は?」
「さあ、俺が来たときにはもういませんでしたよ。鍵もかかってなくて」
「そう……」
「先生に何か用事でも?」
「ここ貸してくれたの、先生だから」
 今朝、廊下ですれ違った先生にダメ元で頼んでいたのだ。その対価は、例によって雑用だ。
「去年もここで?」
「去年は教室で食べてた。でも、あの熱気が耐えられなくて。砂っぽいし」
「あー、たしかに。早見さんのクラス、特に熱血って感じですもんね」
 パンの袋を開けながら、朝日奈くんは言う。
「でも、楽しそうですよね。早見さん」
「え……俺が?」
「いいクラスなんだなーと思って。早見さんが、あんまり居心地悪そうじゃないから」
「俺を基準にしないでよ」
「でも実際、伸び伸びできてるんじゃないですか?」
 そうか? と思ったけど、案外そうなのかもしれない。
 イベントに熱いところはたまについていけないけれど、基本的に悪い人たちじゃない。クラスメートと積極的に関わろうとはしないけど、だからといって周りに邪険にされているわけではなかった。
「たしかに……思ってたより、恵まれてるのかも」
「いいことじゃないですか」
「まあ、そうだね。皆がいい人で良かった」
「いや、そうじゃなくて」
「ん?」
 なにが? と見つめれば、朝日奈くんは「やっぱり分かってない」と少し呆れたように笑った。
「早見さんだから、だと思いますよ」
「なに、それ」
「交流は避けても、ないがしろにしてるわけじゃないでしょ?」
「そう、なのかな……わかんない。あんま考えたことないし」
「たぶん、そういうところですよ」
 朝日奈くんは、よく人を見てるよな、と思う。取引相手だから、まだリサーチされているだけなのだろうか。
「俺は早見さんのそういう……ドライというより無頓着なところ、結構好きです」
 好き、と言われて一瞬動きが止まる。突拍子もなさすぎて、ゴクリとパンの塊を飲み込んでしまった。
「……それ、褒めてるの?」
「褒めてますよ。ロジカルな人って感じで、俺も一緒にいて楽ですし」
 何、その畳み掛け。好きだとか、楽だとか。そんな風に褒められることなんてなかったから、調子が狂う。
 俺はスポドリで喉を鳴らした。焼きそばパンとの食べ合わせは、ものすごく微妙だ。
「朝日奈くん……やっぱり、ちょっと変わったよね」
 今朝の百円も、この場所を教えた三百円も。俺たちの関係は利害で成り立っていることに変わりはないけど、その隙間でときどきふっと柔らかな風が吹いてくる。
「それは、良い方向に? それともダメな方向?」
 ぐいっと距離を詰められて、思わず仰け反る。女子が騒ぐだけあって、その顔立ちは至近距離でもよく整っているし、色の深い瞳は黒真珠のように滑らかな光を湛えていた。
「……どっちでもない。ただの感想」
「俺、褒められて伸びるタイプです」
 だから褒めてください。と言わんばかりに、俺を見つめてくる。いつもは後輩らしくないのに、こんなときばっかりずるい。
 たまらず目を落とすと、テーブルの上にはパンの抜け殻がくしゃっと転がっていた。そういうところは意外と大雑把なんだ。と、場違いなところで安心する。
「早見さん」
「……ん?」
「なんかちょっと、焼けましたね。鼻とか真っ赤」
 そりゃ焼けるよ。あんだけ外にいたんだから。
「……っ、」
 返事をしようと、顔を上げたのがいけなかった。
 頬骨にするりと体温が触れて、体がぴくりと反応する。ふっと笑みを落とした、朝日奈くんの仕業だ。きっとまた、俺の反応を見て楽しんでる。
「ちょっと……何して、」
「ほら、ここも赤くなってる」
「は?」
「肌白いから、すぐ赤くなっちゃうんですね——かわい……」
 表面を撫でるような触れ方に、目を瞑る。すぐ振り払ってしまえばいいのに、そんな余裕もなく固まっていた。
 ……だって、いま。もし俺の聞き間違いじゃなければ、朝日奈くんはこう言っていた。
 —— “かわいい”
 そんなの、男に対して言うことか。いや、ふつう言わないだろ。
 冗談なら、からかうためなら、もっとわかりやすいボリュームで言ってくれればいいものを。あんな風に、こぼれ落ちてしまったかのように言われたら、本心かと疑ってしまう。
 絶対、絶対に。そんなはずはないけれど。
「も、やめ……」
 耐えられなくて、ふるふると首を振ったそのときだった。
 グラウンドのほうから、聞き覚えのあるイントロが流れてくる。まるで、現実へと引き戻すような大音量だ。
「あ、この曲……」
 朝日奈くんは後ろの窓を振り向いて、俺の頬を解放する。ずっと座りの悪かった心臓が、ようやく落ち着いた。
「映画の主題歌だ。俺、最近観たんですよね」
 背中を向けた朝日奈くんは、波のない声で言う。
 動揺していたのは、やっぱり俺だけか。と、小さく息を吐きながら、そのメロディに耳を傾けた。
「映画の……あ、俺も知ってるかも」
 曲はサビに近づくにつれて、馴染みのある曲調になっていく。有名ではあるけど、高校生のトレンドかといえばそうではない、ちょっと渋い曲だ。
 朝日奈くんは、すこし驚いたように俺を振り向いた。
「え、知ってます?」
「うん。俺もちょっと前に、映画観た」
「や……でも、上映期間ってかなり前ですよね?」
「あー……映画館じゃなくて、家だけど。バイト先で借りて」
「そうなんですか。じつは俺も、家で」
 さっきまでの緊張感はすっかり解けて、俺も朝日奈くんもグラウンドへと意識を注ぐ。まさか、体育祭の昼休みに流れるなんて。
 朝日奈くんも予想外だったのか、珍しく声を弾ませていた。
「誰が流してるんですかね。良いセンスしてる」
「うん、たしかに」
「この時間に流すってことは、生徒じゃなさそうですよね。実行委員だったら競技中に流すだろうし」
「選曲もやけに渋い」
「そうなんですよ。あの映画の主題を考えたら、ちょっとアンマッチだし」
「うん。ゾンビ映画だからね」
「名作ですけど」
 ふっ、と笑う無邪気な横顔に、どうしてか心臓が跳ねる。油断していると、さっきまで心を支配していた熱がまたぶり返しそうで、俺はとっさに頭を振った。
「早見さんも映画とか、観るんですね」
「……これは、たまたまだけど。ゲームが原作だから」
「なるほど、それで」
 ​腑に落ちたという顔で笑う彼を見て、胸をなでおろす。
「そういえば、バイト先って言ってましたけど。バイトしてるんですか?」
「うん、一応」
「今度、遊びに行ってもいいですか?」
「え、なんで」
「バイトしてる早見さんに、興味があるんで」
 また、そういうことをサラリと言う。たしかに好奇の色を孕んだ瞳が、緩やかに細められた。
「遊びには、来ないでほしいけど」
「えー、いじわる」
「遊びじゃないなら、別に」
 客として来る分には、文句を言う筋合いはない。そう思って口にしただけだったのに、朝日奈くんはやけに意外そうな顔をする。
「……じゃあ、真面目なお客として、いつか」
 そして、嬉しそうな含み笑いを残して、そう言った。