◇
同じ電車に乗り込むと、俺たちはいつもと同じ並びで座る。あのあと、朝日奈くんは言い溜めた挙句、「電車のなかで話します」と言って口を噤んでしまったのだ。
傘の襞をたたむ指先を眺めながら、その続きを待った。
「さっきの話ですけど、」
いつもより少しだけ掠れた声。
「苛立ってたのは、早見さんに対して、とかじゃないんです」
左隣から響く声は、この体によく馴染む。朝日奈くんは吐き出すようにして言った。
「誰に対してでもないというか、そもそも行き場がないというか」
「うん?」
「幼なじみさんとの通話とか、電車で透と会ったときとか。親しそうにしてるのを見たら、むしゃくしゃして」
交友関係がない、と俺を評したのは朝日奈くんなのに。桜介はともかく、トオルくんとも親しいと言われて少し驚いた。
「これから、たぶんかなり勝手なこと言いますけど、怒らないでくださいね」
そんな風に前置きするなんて、よほどのことなんだろうか。わずかに緊張が走ったせいか、
「それは、話による」
と、淡白に答えてしまった。朝日奈くんは「ははっ、ですね。ごもっとも」と、なぜか逆に力を抜いて笑っていたけど。
ガタン、ゴトン。規則正しいその音が何度か巡ったあと、彼はゆっくり唇を割った。
「交友関係の薄いあなたが、俺にだけ心を開いてくれたらいいと思ったんです。……それも、あなたに好かれたいとか、崇高な理由じゃなくて。ただ、自分の価値を高めるために」
“勝手なこと”が静かにこぼれ落ちていく。俺にはまだ、その真意は掴めない。
「人付き合いが苦手なのは、俺のほうなんですよ」
だけど、自嘲的に笑うその横顔から、なぜか目が離せなかった。
人付き合いが苦手……? 朝日奈くんが?
「友だちに囲まれてるとこ、見たけど」
「みんな、ハリボテに騙されてるだけですよ。好かれるような振る舞いはできても、自分を晒したらきっと離れていく。本来はこういう、打算的な人間なんで」
「朝日奈くんは……最初から打算的だったけど」
「言ったでしょ。あなたには繕っても意味がないって」
「交友関係が薄いから」
「はい。……でも、計算が狂いました。早見さんみたいな人が心を許してくれたら、さぞ気分がいいだろうなーと思ったんです」
「どうして俺……?」
「希少価値、ってやつです」
わざわざ突き放すような言葉を選ぶ彼に、違和感を覚える。それはまるで、自分で自分を痛めつけるためのものに聴こえた。
「覚えてます? 渡り廊下で、俺の後ろに隠れたこと」
「え……あ、うん」
「あれが原因ですね。普段人に懐かない猫が、俺にだけ懐いてくれた感じがして」
「猫って」
「すみません。気に障りました?」
「いや……たとえとしては、わかりやすい」
思ったままそう言うと、朝日奈くんはケラケラと笑い出した。
「ほんと、そういうところが良いですよね。自分に無頓着というか、なんというか」
「……なんか、変なこと言った?」
「猫とか、懐くとか。怒ってもいいところですよ」
「猫は、嫌いじゃないし」
「そういうことじゃなくて」
と、またケラケラ笑っている。朝日奈くんのツボが一向に分からない。
首を傾げていると、ようやく息を整えた彼はしずかに唇を割った。
「でも、ほんとに勝手なんですよ。あなたのことを物差しにして、自分の価値を測ってた。……だから、通話を聞いたときも、透との話を聞いたときも、苛ついてたんだと思います」
「……自分にしか懐いていないと思ってた猫が、他人にも懐いてたから?」
「自分で言うんですか」
ふはっ、と笑う横顔に、力が抜けていく。
打ち明けられたことに驚きはしたけれど、不思議と腑に落ちた。
それは朝日奈くんが、本心から言葉を尽くしてくれたからかもしれない。
「どうです? 失望しました?」
その横顔は、すべてをさらけ出した晴れやかさと恐怖が混ざり合っているように見えた。
「びっくりはした。でも、失望とかは、とくに」
「そうですか。甘いですね」
「……どうかな。俺じゃなくても、失望なんてしないと思うけど」
朝日奈くんのことは、よく知っているわけじゃないけど、少しだけ知っている。
守銭奴なところ。打算的で、外面を気にしているところ。怒っているのに笑うところ。空気を読めてしまうところ――長所かと言われると微妙なところばかりなのに、不思議と嫌な気はしなかった。
「特別、人に好かれたいっていう気持ちは、いまは正直わかんないけど……朝日奈くんの何が悪いのかも、俺にはわからない」
誰かに認められることで価値が生まれる。そんなのきっと、この世のなかで大勢の人が思っていることだ。
朝日奈くんは器用だけど、自分を俯瞰して見すぎてしまっているのかもしれない。
「……意外ですね。早見さんが励ましてくれるなんて」
不意を突かれたように、朝日奈くんの目がパシパシと瞬く。
「励ましたわけじゃないし……それに、どうかと思うところもあるけど」
「なんです?」
「睡眠売買するところとか。初対面の人間にそれを持ちかけるところとか」
「我ながらいいアイデアだと思ってますよ。未だに」
「普通の人なら思いつかない」
こんな取引を受け入れてしまった俺も、普通じゃないのかもしれないけど。
「あー、確かに」
と、朝日奈くんは楽しそうに肩を揺らしている。その横顔からは、不安げな緊張感はきれいに消えていた。
しばらくして落ち着くと、朝日奈くんはなにかを決したように声を落とす。
「今度は俺から。ひとつ、訊いてもいいですか?」
毒気を抜かれたような穏やかな顔。
「なに?」
「どうして、俺には話せなかったんですか?」
あのときの、電車で遮った話のことだとすぐに分かった。
静かに重ねられた視線。久しぶりに目が合って、呼吸がかすかに、深く響く。
彼の心のうちを晒されたせいか、本心を打ち明けないとフェアじゃない気がした。つくづく、俺たちは等価交換ばかりしている。
「……昔のことが原因で。ごめん」
謝罪を吐くと、朝日奈くんはわざとらしく口を尖らせた。
「いえ……まあ、いい気はしませんでしたけど。透にはゲームのこと、話してたみたいだし」
「それは、また別っていうか。ゲーセンでのことだし」
「なにか違うんですか?」
「大したことじゃない。ただ、昔ちょっと……引かれただけ」
「引かれた?」
覗き込んでくる瞳が、対価にしては勿体ないほど優しい。俺は喉を鳴らして、ちいさく頷いた。
「友だちとゲームで盛り上がって、嬉しくて。熱を入れて話しすぎたんだと思う」
「ああ……それでさっきも――」
ついさっきのことだ。朝日奈くんの頭のなかには、きっと弓道のことを褒めたときの反応が、しっかり過っているのだろう。
「『思ってたのと違う』って、陰で言われてた」
無理に笑ったのは、よくなかったかもしれない。口角が歪んで、余計に声が震える。この出来事を桜介以外に打ち明けたのは、初めてだった。
「だから、話せなかったんですか」
「……うん」
「なるほど。へえ……そうですか」
隣で噛みしめるように頷く朝日奈くん。なんか、口元がちょっと緩んできてないか。
「……なんで嬉しそうなの」
苦い過去話をしたから、それなりに労わられるのかと思っていた。まあ、同情されるよりはずっといい。
「ん? いや、なんでも」
「笑ってるし」
「そうですか?」
「なに……気になるんだけど」
「ふーん。ちゃんと俺に、興味持ってくれるんですね」
こうなったらもう、ダメだ。
調子を取り戻した朝日奈くんが手強いことを、俺はよく知っている。彼のペースに呑まれていると気づいたときには、顔に熱が昇っていた。
「別に……普通に、気になるだけ」
「そうですか。ふつうに」
「だから、なんで嬉しそうなの」
「早見さんは引かれたくない、って思ってくれたんですね。俺に」
にこにこと機嫌の良さそうな笑みに、また顔が熱くなる。
ああ、そうか。さっきの話、よく考えたらそういうことになる。朝日奈くんのことだから、すぐ紐解いてしまったんだろうけど。
「早見さんは、俺にどう思われてもどうでもいいのかと思ってました」
「……どうでもよくは、ない」
「はい?」
「俺にだって、どうでもよくない人くらいいる」
反撃のように放ったおかげで、声が硬く響いてしまう。朝日奈くんは豆鉄砲を食らったように、目を丸くした。
本当に、豆鉄砲くらいの小さな反撃だ。
「朝日奈くんは……友だちじゃないけど、話しやすいし。だから、気まずくなりたくなかっただけ」
これじゃあ本当に、彼に手懐けられた猫みたいじゃないか。
不本意だけど、俺自身、言葉にするまで気づかなかった。毎朝のルーティンになりつつある、眠りにつく前のあの会話が、心地のいいものとして染み付いていたなんて。
逃げるように顔を逸らすと、横から名前を呼ばれる。だけど、いま振り向くわけにはいかない。
「早見さん」
「……なに?」
「こっち向いてくれないんですか?」
「向かない」
「えー、ショックだなぁ」
「白々しいな」
「これでもいま、結構うれしいんですよ。俺」
「……そう」
「そんな塩対応やめてくださいよ。はやみん先輩」
「っ、」
それは、反則がすぎる。
反射的に顔を向けてしまうと、もう逃げるな、と言わんばかりの瞳で捉えられた。
「早見さん、顔赤いですよ」
「ちょっと、暑いから……」
「今日は肌寒くなるって、ニュースで言ってました」
「そんなの、人による」
「そうですね。人によって、違うのは当然です」
わざと見せつけてるのかと思うくらい、彼は上機嫌だ。
俺のことを『わかりやすい』って言ったけど、朝日奈くんのだって人のことを言えない。貼り付けられたような、あのうさんくさい表情よりはずっとマシだけど。
彼は楽しげに笑みを溢しながら、「俺も」と紡いだ。
「早見さんだから、嬉しいのかも」
「うれしい……?」
「ほかの誰より、早見さんに言われるのが嬉しい」
「それは……希少価値、だからじゃないの」
「さあ。どうでしょう」
悪戯っぽく微笑む顔は、やっぱりどこか食えない。だけど今までと違うのは、本音が透けて見えるからだ。
答えを曖昧にぼかされたまま、肩から伝わるわずかな熱に意識が移る。毎朝、隣にあったはずのその体温が、今日はやけに熱かった。

