朝日奈くんは、俺に睡眠を売りたいらしい。


 ◇

 掛け声とともに、重い縄がグラウンドの土を叩く。パンッ、パンッ、と乾いた音が響くたび、容赦なく砂ぼこりが舞い上がった。
「早見くん……! あとちょい! がんばれ!」
 同じ大縄の渦にいるクラスメートに励まされる。もう体力の限界が近いことに気付かれているんだろう。こっちは頷くだけで精いっぱいだ。

 最終的なカウントは、練習時の最高記録を超して五十二回だった。
 カウントが止まった原因は、回すほうに負担がかかって縄が弛んでしまったから。とはいえ、他のクラスに比べたら跳びすぎだけど。
「すげーじゃん! 圧勝!」
「うちのクラスさいこー!」
 うっすらと白く煙る視界のなかで、俺は膝に手をついた。……もう、足が限界だ。
「早見くんも、おつかれ!」
「うん……ありがと」
 さっきも励ましてくれたクラスメートにお礼を残して、トラックの脇へ向かう。本当ならもう少し足を休ませたかったけど、一緒に盛り上がれるほどの体力は残されていなかった。
 そもそも、みんなと歓声をあげている自分なんて、想像もできないが。
「あっ! はやみーん!」
 自分の持ち場でスポーツドリンクを傾けていると、陽気な声が突き抜ける。
「いま競技おわったんすか? お疲れさまです!」
「……トオルくん、声が大きいよ」
  人懐っこい笑顔で距離を詰めてくる彼に、俺はしーっと指を立てた。
「すんません、見つけたらついテンション上がっちゃって」
 赤のクラスTシャツを腕まくりしている姿は、いつもよりも気力に溢れている。
 その元気な頭に巻きつけられたハチマキに、俺は目を凝らした。小さい文字で、何か書かれている。
「トオルくんは、もしかして次の騎馬戦に」
「ハイ! これから出るんすよ」
「へぇ……そのハチマキ、なに書いてあるの?」
「ん、これっすか?」
 シュルッと頭から解いて、目の前にその細い布が垂れる。『絶対優勝すんぞ!』とか、『透ならできる!』と書かれていて、納得した。友人同士で書き合う、寄せ書きのようなものだろう。
「すごいね。めっちゃ応援されてる」
 もうほとんど書くところがないくらい、埋め尽くされている。
「そうだ。はやみんも書いてくださいよ」
「えっ」
 なんで俺が?
「ほら、ペン持ってるんで! ここの端っこ、まだ空いてます!」
「いや、なんで持ってるの」
「備えあれば憂いなしってやつです」
 答えになってないよ、トオルくん。
 したり顔で言う彼は、断られるなんて思ってもないような顔でこちらを見据える。朝日奈くんとはまた違った圧だ。
「……わかった。ちょっと待って」
 ペンを受け取ると、トオルくんは目を輝かせて指先の動きを追う。ここにメッセージを書くことに何か意味があるのか、俺には分からない。けれど、彼にとっては重要なんだろう。
 “トオルくん、がんばってね”
 と、無難なメッセージを書き終えて、その赤いハチマキを返した。
「あざっす! うわ~、超うれしい!」
「大袈裟だよ」
「そんなことないっす!はやみんのおかげで、もっとやる気出ました」
 すでに有り余るほど元気そうだったのに、トオルくんは「うっし!」とさらに気合を入れてハチマキを巻き付ける。そんなに強く結んだら痛いんじゃない? と案じていると、彼の後ろでぶわっと砂埃が舞う。
 思わず目を伏せて、次に瞼を持ち上げたとき——俺は「うぉっ」と声を漏らした。
 さっきまでいなかったはずの朝日奈くんが、冷ややかな笑みを浮かべて立っていたからだ。
「透ー、なーに油売ってんの」
 砂ぼこりに喚いていた後ろのクラスメートの、主に女子たちが、朝日奈くんの登場で「あれって一年生の朝日奈くん?」「やばい、超かっこいい」と色めき立つ。
「はやみんに会ったから、メッセージ書いてもらってたんだよ。ほら」
「へえ、よかったじゃん」
 声は笑っているのに、朝日奈くんの鋭い視線が一瞬だけ、ペンを持った俺の手元に刺さった気がした。
「はやみんに書いてもらえるなんて超レア。他の人に書いたりしてます?」
「いや……トオルくんだけだけど」
「マジか、ますます嬉しい。……あ、律世も書いてもらう?」
「いいよ。俺は遠慮しとく」
 そう答えた朝日奈くんの、首に巻かれた真っ新なハチマキに目を留める。書きたい人なんていっぱい居そうなのに。
「てゆーか透、もう出番だから」
「え、マジ?」
「マジ。入場口までダッシュ」
 朝日奈くんは「はい、よーいどん」と若干棒読みで促した。素直なトオルくんは「うわ、やべ!」とグラウンドを駆けていく。
「じゃあまた! はやみん先輩!」
 ……大きい声はダメだって言ったのに。入場口に向かいながら叫ぶトオルくんに、俺は小さく手を振り返した。正直、いまちょっと地面に潜りたい。

「なんか、すっかり仲良しですね」
 残された朝日奈くんは、声を潜めて言った。その視線は、入場口でまた別の誰かと談笑しているトオルくんに向けられる。
「仲良し、ではないんじゃない」
「それ、透が聞いたら悲しみますよ」
「そうじゃなくて……トオルくんにとっては普通なんだろうし」
「何がです?」
 制服とも、袴姿ともまた違う。Tシャツから生える長い腕を組む仕草さえ、妙にサマになっていた。
「こうやって、知り合いにメッセージ求めたりすること」
「あんなに喜んでたのに?」
「俺じゃなくても喜ぶでしょ」
 トオルくんならきっと、誰がメッセージを書いてもああいう反応をしていたはずだ。だから人に好かれるし、空気を明るくできる。仲が良いなんて、思い上がりもいいところだ。
「思ってたより、根深そうだなぁ」
 ぼそっと呟いた朝日奈くんに、首を傾げる。だけどすぐに笑顔を向けられ、シャッターを閉じられてしまった。
『——プログラム五番、一年生男子による騎馬戦です。出場選手が入場します』
  ちょうど会話が途切れたところで、グラウンドにアナウンスが響き渡る。意気揚々と行進を進める男子たちを前にすれば、彼の独り言はすっかり存在感をなくしていた。
「がんばれよ透っ!」
「ぜんぶ掻っ攫えー!」
 あと、トオルくんへの歓声がすごい。容赦ない太陽の下で、キラキラと反射する髪がとにかく眩しかった。
「じゃ、俺もそろそろ失礼します」
 朝日奈くんは、非の打ち所がない会釈で微笑む。冷たいわけではないけれど、トオルくんとの温度差に思わず苦笑を浮かべた。
「あー、そういえば」
 涼やかなその背中を眺めていると、何か思い立ったように振り返る。後ろの女子たちがまた黄色い声で沸き立った。
「俺、午前中はスウェーデンリレーにでるんで」
「スウェ……」
 なんだっけ、それ。ろくにプログラムに目を通していない俺は、眉をひそめる。
「応援してくれると嬉しいです」
 まあ、難しいでしょうけど――。
 去り際にそう付け加えたのは、俺が赤チームではないからだろう。自分がまとっている水色のTシャツを見て、納得する。だけど、後ろの女子たちはすでに「やばい、赤応援したくなってきた」とあっさり揺らいでいた。
『赤、強いです! まさに烈火のごとく、猛烈に強いー!』
 にぎやかなアナウンスが後押しするように、騎馬戦の雄姿を称える。
 何本ものハチマキを掲げてガッツポーズを繰り出すトオルくんは、火の戦士のようだった。