夢と現実がごっちゃになるなんて。まさか、そんなバカなこと。
俺は、電車でよく眠る。
家から学校までは約一時間半。よく「遠い」と言われるけど、不便に感じたことはあまりない。ラッシュとは無縁の路線だから、きほん座れるし、ずっと眠っていられる。多少の早起きくらい、別にどうってことない。
一時間半、まぶたに強烈な重力を感じながら、電車に揺られていればいいだけのこと——。
「おはようございます。先輩」
耳元に滑り込んできた声に、跳ねるようにして瞼があがる。
視界がクリアになるより早く、目の前に浮かぶ何かがクツクツと喉を鳴らした。その何かがやたらと顔の整った男だと気がついて、同時にいやな予感が走る。
「気持ちよさそうでしたね」
……うさんくさいな。
まだ揺れている電車内、火照った体を正しながら、無言でぺこりと頭を下げる。
たぶん、このうさんくさい笑みを浮かべている男の肩を借りて、寝落ちしてしまったんだと思う。
それに関しては俺が悪いけど、わざわざ皮肉を言ってくるなんて。相当いい性格をしている。
「すいません」
「全然いいですよ。三回目ですけど」
「……三回?」
「はい。いつもきっかり一駅前で起きるなんて、器用な人だなーと思ってました」
寝ているところを見たのが三回目なのか。それとも、この男の肩を借りるのが三回目なのか。
たぶん、後者のほうだ。
「すいません……次、車両変えます」
絶対にこれ、めんどうなやつ。
めんどうな事態にめんどうな人。どちらにも当てはまる状況にため息を吐きたくなる。あと数分もすれば駅に着くけど、その前に席を立ったほうが良さそうだ。
「寝心地はよかったですか?」
早く立って逃げ出したいのに、男はまるで商品のレビューを求めるようなトーンで訊いてくる。首元にさがっている白のヘッドフォンが、電車の波とともに揺れた。
「まあ……はい」
「そうですか。それなら、明日も使います?」
「……は?」
いや、だから商品じゃないんだから。
なるべく目を合わさないようにしていたけれど、予想外の言葉に顔をあげる。
見慣れたブレザーに、見慣れたネクタイ。だけど、顔だけはやっぱり驚くほど整っていて、ツヤのある黒髪がそのくっきりとした顔立ちを引き立てていた。
「先輩、寝不足なんじゃないですか?」
「……まあ、ふつうに」
「俺の肩でよければ、貸しますよ」
「いや、いいです」
「もちろん、タダでとは言いませんけど」
「だからいいって…………なに?」
めんどうなことには関わりたくない。拒絶をにじませた俺の前に、男はスマホの画面を差し出してきた。液晶に表示されているのは、見慣れた電子マネーアプリの画面と『請求額100円』の文字だった。
「一回につき、この値段でどうですか?」
「は……?」
「あなたは俺の肩を借りて、快適な睡眠を得ることができる。俺はこの通学時間で不労所得を得ることができる」
「いや、待って何を……」
「お互いにとって、メリットがあると思いません?」
どうやら俺の言うことは聞き入れてもらえないらしいから、心のなかで言う——何言ってんだ、この男。
眉を寄せていると、無駄にきれいな顔がさらに深くにこりと歪んだ。どこか冷ややかな笑顔に肌が粟立つ。
「心配しなくても大丈夫ですよ。今日までの三回分は、請求しませんから」
……やっぱり、夢でも見ているのだろうか。
怪しい男に、怪しい取引。自分なりに平穏な日常を歩んできたはずなのに、こんな二段構えの奇襲はきいてない。
これが現実だなんて、思いたくもない。
◇
いつもなら頭も冴えてくる四限目、俺の脳みそはまだ茹だっていた。
朝からあんな取引を持ちかけられて、どっと疲れが落ちてきたんだと思う。夏休み明けでまだ体も鈍っているし、ぼうっとする。
——そもそも、あれは本当に現実だったのか。
夢で体験した出来事を、現実に置き換えてしまう人がいるということを聞いたことがある。現に、幼なじみがそうだった。
あるとき、約束をした時間にいつまで経っても現れなくて家を訪ねたら、『あれ、深? 風邪引いて遊べなくなったんじゃなかった?』と言われて驚いた。約束を忘れていたとしても、そんな嘘を吐くようなやつではないし、かといって夢と現が混ざることなんて……とも思っていた。
だけど、その半信半疑もいまは左に傾き始めている。
最近ちゃんと眠れていなかったし、きっと悪い夢でも見たんだろう。現実にしては男の顔もやけに整っていたし、こっちの素性を知っている風だったのもおかしい。制服で同じ学校だということはわかっても、初めて会話を交わす相手に『先輩』なんて呼ばないだろ、ふつう。
「こんにちは。早見先輩」
悪い夢のつづきは、夜を待たずに訪れた。
昼休みに購買へ行こうとした足は、二年一組の教室前で立ち止まる。呼びかけに振り返れば、そこには今朝みた夢にでてきた男と、そっくりな男が立っていた。
「聞こえてます?」
聞こえてるよ。わかってる、これが夢じゃないってことくらい。
自分より上背のある彼を見上げて、しずかに息を吐く。
「なんで俺の名前……、」
「それも含めて、いろいろ話そうと思って。一緒に昼、どうですか?」
男は、半月型に瞳を細めた。
親しみやすそうなのに、どこか執念深さが滲む笑み。それと、こちらに答えを委ねているように見えて、拒絶は許さない、と言わんばかりの圧力も感じる。
「……わかりました」
「よかった。じゃあ行きましょうか」
本当は断りたかったんだよ。君の顔、怖いんだよ。
それに、派手な容姿が目立つせいか、周りからの視線も痛い。断るために時間をかけるより、いち早くここを抜け出すほうが俺にとっては重要だった。
……もしかしてこれも、断らせないための計算だったりして。いや、まさか。
連れてこられたのは、校舎の裏手にひっそりと佇む部室棟だった。
文化系の部活がいくつか部屋を借りているだけの建物で、昼休みのこの時間は驚くほど人気がない。
彼はそのうちの一室、現在は使われていない空き教室の引き戸を迷いなくあけた。埃っぽい匂いのなかに、昼下がりの光が差し込んでいる。
「ここなら人目も気にならないでしょ」
窓際の席に誘導されて、にこやかな笑みに眉を寄せる。やっぱり、人目につくところで俺を誘ったのは、わざとだったのかもしれない。
「話って、なんですか」
「そんな焦んないでくださいよ。あと俺一年なんで、敬語はやめてください」
男は笑みを絶やさず、正面に座る。一つの机に二人分の昼食がならんだ。
「俺の名前は。なんで知ってるの?」
学年も、クラスも、名前も。見知らぬ人物に素性を知られているのは、同じ学校の生徒だとしても気味が悪い。
「調べました」
「調べた?」
「同じ路線を使ってるあなたが、何年何組の誰なのか。割り出すのは結構カンタンでしたよ」
「なんで調べたの。同じ電車を使ってるから?」
「今朝、言ったじゃないですか」
「電車で、寝てたから……?」
「取引相手のことを調べるのは当然のことでしょ」
サンドイッチを頬張る姿さえ画になるけれど、話している内容はさながらホラーだ。知らない間に取引相手にされているなんて、怖い以外の感想が浮かばない。
それに、割り出すのは“結構カンタン”ではないはずだ。うちの生徒は千人近くいるんだし。
「なんで俺? ほかの人じゃだめなの?」
わざわざ俺にこだわらなくても、君の肩を借りたい人なんて大勢いるはずだ。たとえば、さっき廊下で色めき立っていた女子たちとか。
「早見さんがいいんです」
「……なんで」
「周りに漏れる心配がないから、ですかね」
まるで、用意されていたかのような受け答えに眉をひそめる。
「それだけ?」
「……それだけで、十分じゃないですか?」
いま、ほんの一瞬だけ。朝日奈くんの笑顔が止まった気がしたけれど、すぐにまた口角があがる。
「打ち明ける相手もいないでしょ」
返す言葉もなく、代わりにパンを頬張った。埃っぽい部屋のせいか、ひずんだ笑みが前にあるせいか、いまいち美味しくない。彼の言うことが間違いではないから、余計に。
部活ではほぼ幽霊部員。
クラスメートとも、ほとんど話さない。
言われてみれば、こんな話を打ち明けられる相手なんて、そもそもいない。
つまり——この男にとって、俺はリスクゼロの優良物件というわけだ。
「ずいぶんと用意周到だね」
「一応、俺にはメンツってものがあるんで」
「そこまでしてお金が欲しいの?」
「金はあるだけ困らないでしょ」
「……まあ、たしかに」
残念なことに、それには共感できる。
しずかに頷く俺を見て、後輩の男は頬杖をついてにこりと笑った。
「どうです? ボランティアで肩を貸してもらうより、後腐れがないと思いません?」
これにも、不本意だけど納得できる。この男から『よかったら俺の肩使ってください』と迫られるより、対価があるほうが安心できた。
イケメンの威圧は怖いけど、タダより怖いものはない。
「……わかった。いいよ」
「お、早いですね」
「長い議論は好きじゃないし……睡眠も、なんとかしたいし」
「いいですね。そういうところ、俺たちすごく合うと思います」
満足げな男から向けられたのは、スマートフォン。液晶に表示されているのは、見慣れた電子マネーアプリの、QRコードだ。
「じゃあさっそく。明日からの決済用に、俺のID追加してください」
「わかった」
「あと、毎朝先輩の隣に座れる保証はないので、後払いでけっこうです」
思ったよりこちらのことも考えられている。本当に取引相手みたいだ。
「朝日奈……律世」
スマホの画面に表示された文字を読みあげる。そのアカウントを登録した瞬間、正式にこの契約が結ばれた。
そういえば、高校に入ってからこうして連絡先を登録するのは初めてだ。まあ……決済アプリだし。通学電車のなかで快適な睡眠を得るための、完全な利害関係だけど。
「そうだ。俺は千瀬川から乗るので、すこしお待たせしますけど、いいですか?」
千瀬川は、俺が乗る駅から四つだけ先の駅だ。そんなところから隣にこの朝日奈くんが座っていたなんて、これまで気づきもしなかった。
「いいよ。十分」
「じゃあ、契約成立ですね」
用件は済んだとばかりに、朝日奈くんは手際よくゴミをまとめ、椅子からひらりと立ち上がる。契約を結んでしまった相手には、もう余計な口説き文句も必要ないということだろう。
詮索されたことは嫌だったけど、無駄に干渉してこないのなら願ったりかなったりだ。
「お先に失礼します。また明日」
「うん……また」
教室を出ていく彼に、軽く手を振り返す。
空き教室にひとり取り残された俺は、画面に映しだされた目新しいアイコンを見つめていた。
俺は、電車でよく眠る。
家から学校までは約一時間半。よく「遠い」と言われるけど、不便に感じたことはあまりない。ラッシュとは無縁の路線だから、きほん座れるし、ずっと眠っていられる。多少の早起きくらい、別にどうってことない。
一時間半、まぶたに強烈な重力を感じながら、電車に揺られていればいいだけのこと——。
「おはようございます。先輩」
耳元に滑り込んできた声に、跳ねるようにして瞼があがる。
視界がクリアになるより早く、目の前に浮かぶ何かがクツクツと喉を鳴らした。その何かがやたらと顔の整った男だと気がついて、同時にいやな予感が走る。
「気持ちよさそうでしたね」
……うさんくさいな。
まだ揺れている電車内、火照った体を正しながら、無言でぺこりと頭を下げる。
たぶん、このうさんくさい笑みを浮かべている男の肩を借りて、寝落ちしてしまったんだと思う。
それに関しては俺が悪いけど、わざわざ皮肉を言ってくるなんて。相当いい性格をしている。
「すいません」
「全然いいですよ。三回目ですけど」
「……三回?」
「はい。いつもきっかり一駅前で起きるなんて、器用な人だなーと思ってました」
寝ているところを見たのが三回目なのか。それとも、この男の肩を借りるのが三回目なのか。
たぶん、後者のほうだ。
「すいません……次、車両変えます」
絶対にこれ、めんどうなやつ。
めんどうな事態にめんどうな人。どちらにも当てはまる状況にため息を吐きたくなる。あと数分もすれば駅に着くけど、その前に席を立ったほうが良さそうだ。
「寝心地はよかったですか?」
早く立って逃げ出したいのに、男はまるで商品のレビューを求めるようなトーンで訊いてくる。首元にさがっている白のヘッドフォンが、電車の波とともに揺れた。
「まあ……はい」
「そうですか。それなら、明日も使います?」
「……は?」
いや、だから商品じゃないんだから。
なるべく目を合わさないようにしていたけれど、予想外の言葉に顔をあげる。
見慣れたブレザーに、見慣れたネクタイ。だけど、顔だけはやっぱり驚くほど整っていて、ツヤのある黒髪がそのくっきりとした顔立ちを引き立てていた。
「先輩、寝不足なんじゃないですか?」
「……まあ、ふつうに」
「俺の肩でよければ、貸しますよ」
「いや、いいです」
「もちろん、タダでとは言いませんけど」
「だからいいって…………なに?」
めんどうなことには関わりたくない。拒絶をにじませた俺の前に、男はスマホの画面を差し出してきた。液晶に表示されているのは、見慣れた電子マネーアプリの画面と『請求額100円』の文字だった。
「一回につき、この値段でどうですか?」
「は……?」
「あなたは俺の肩を借りて、快適な睡眠を得ることができる。俺はこの通学時間で不労所得を得ることができる」
「いや、待って何を……」
「お互いにとって、メリットがあると思いません?」
どうやら俺の言うことは聞き入れてもらえないらしいから、心のなかで言う——何言ってんだ、この男。
眉を寄せていると、無駄にきれいな顔がさらに深くにこりと歪んだ。どこか冷ややかな笑顔に肌が粟立つ。
「心配しなくても大丈夫ですよ。今日までの三回分は、請求しませんから」
……やっぱり、夢でも見ているのだろうか。
怪しい男に、怪しい取引。自分なりに平穏な日常を歩んできたはずなのに、こんな二段構えの奇襲はきいてない。
これが現実だなんて、思いたくもない。
◇
いつもなら頭も冴えてくる四限目、俺の脳みそはまだ茹だっていた。
朝からあんな取引を持ちかけられて、どっと疲れが落ちてきたんだと思う。夏休み明けでまだ体も鈍っているし、ぼうっとする。
——そもそも、あれは本当に現実だったのか。
夢で体験した出来事を、現実に置き換えてしまう人がいるということを聞いたことがある。現に、幼なじみがそうだった。
あるとき、約束をした時間にいつまで経っても現れなくて家を訪ねたら、『あれ、深? 風邪引いて遊べなくなったんじゃなかった?』と言われて驚いた。約束を忘れていたとしても、そんな嘘を吐くようなやつではないし、かといって夢と現が混ざることなんて……とも思っていた。
だけど、その半信半疑もいまは左に傾き始めている。
最近ちゃんと眠れていなかったし、きっと悪い夢でも見たんだろう。現実にしては男の顔もやけに整っていたし、こっちの素性を知っている風だったのもおかしい。制服で同じ学校だということはわかっても、初めて会話を交わす相手に『先輩』なんて呼ばないだろ、ふつう。
「こんにちは。早見先輩」
悪い夢のつづきは、夜を待たずに訪れた。
昼休みに購買へ行こうとした足は、二年一組の教室前で立ち止まる。呼びかけに振り返れば、そこには今朝みた夢にでてきた男と、そっくりな男が立っていた。
「聞こえてます?」
聞こえてるよ。わかってる、これが夢じゃないってことくらい。
自分より上背のある彼を見上げて、しずかに息を吐く。
「なんで俺の名前……、」
「それも含めて、いろいろ話そうと思って。一緒に昼、どうですか?」
男は、半月型に瞳を細めた。
親しみやすそうなのに、どこか執念深さが滲む笑み。それと、こちらに答えを委ねているように見えて、拒絶は許さない、と言わんばかりの圧力も感じる。
「……わかりました」
「よかった。じゃあ行きましょうか」
本当は断りたかったんだよ。君の顔、怖いんだよ。
それに、派手な容姿が目立つせいか、周りからの視線も痛い。断るために時間をかけるより、いち早くここを抜け出すほうが俺にとっては重要だった。
……もしかしてこれも、断らせないための計算だったりして。いや、まさか。
連れてこられたのは、校舎の裏手にひっそりと佇む部室棟だった。
文化系の部活がいくつか部屋を借りているだけの建物で、昼休みのこの時間は驚くほど人気がない。
彼はそのうちの一室、現在は使われていない空き教室の引き戸を迷いなくあけた。埃っぽい匂いのなかに、昼下がりの光が差し込んでいる。
「ここなら人目も気にならないでしょ」
窓際の席に誘導されて、にこやかな笑みに眉を寄せる。やっぱり、人目につくところで俺を誘ったのは、わざとだったのかもしれない。
「話って、なんですか」
「そんな焦んないでくださいよ。あと俺一年なんで、敬語はやめてください」
男は笑みを絶やさず、正面に座る。一つの机に二人分の昼食がならんだ。
「俺の名前は。なんで知ってるの?」
学年も、クラスも、名前も。見知らぬ人物に素性を知られているのは、同じ学校の生徒だとしても気味が悪い。
「調べました」
「調べた?」
「同じ路線を使ってるあなたが、何年何組の誰なのか。割り出すのは結構カンタンでしたよ」
「なんで調べたの。同じ電車を使ってるから?」
「今朝、言ったじゃないですか」
「電車で、寝てたから……?」
「取引相手のことを調べるのは当然のことでしょ」
サンドイッチを頬張る姿さえ画になるけれど、話している内容はさながらホラーだ。知らない間に取引相手にされているなんて、怖い以外の感想が浮かばない。
それに、割り出すのは“結構カンタン”ではないはずだ。うちの生徒は千人近くいるんだし。
「なんで俺? ほかの人じゃだめなの?」
わざわざ俺にこだわらなくても、君の肩を借りたい人なんて大勢いるはずだ。たとえば、さっき廊下で色めき立っていた女子たちとか。
「早見さんがいいんです」
「……なんで」
「周りに漏れる心配がないから、ですかね」
まるで、用意されていたかのような受け答えに眉をひそめる。
「それだけ?」
「……それだけで、十分じゃないですか?」
いま、ほんの一瞬だけ。朝日奈くんの笑顔が止まった気がしたけれど、すぐにまた口角があがる。
「打ち明ける相手もいないでしょ」
返す言葉もなく、代わりにパンを頬張った。埃っぽい部屋のせいか、ひずんだ笑みが前にあるせいか、いまいち美味しくない。彼の言うことが間違いではないから、余計に。
部活ではほぼ幽霊部員。
クラスメートとも、ほとんど話さない。
言われてみれば、こんな話を打ち明けられる相手なんて、そもそもいない。
つまり——この男にとって、俺はリスクゼロの優良物件というわけだ。
「ずいぶんと用意周到だね」
「一応、俺にはメンツってものがあるんで」
「そこまでしてお金が欲しいの?」
「金はあるだけ困らないでしょ」
「……まあ、たしかに」
残念なことに、それには共感できる。
しずかに頷く俺を見て、後輩の男は頬杖をついてにこりと笑った。
「どうです? ボランティアで肩を貸してもらうより、後腐れがないと思いません?」
これにも、不本意だけど納得できる。この男から『よかったら俺の肩使ってください』と迫られるより、対価があるほうが安心できた。
イケメンの威圧は怖いけど、タダより怖いものはない。
「……わかった。いいよ」
「お、早いですね」
「長い議論は好きじゃないし……睡眠も、なんとかしたいし」
「いいですね。そういうところ、俺たちすごく合うと思います」
満足げな男から向けられたのは、スマートフォン。液晶に表示されているのは、見慣れた電子マネーアプリの、QRコードだ。
「じゃあさっそく。明日からの決済用に、俺のID追加してください」
「わかった」
「あと、毎朝先輩の隣に座れる保証はないので、後払いでけっこうです」
思ったよりこちらのことも考えられている。本当に取引相手みたいだ。
「朝日奈……律世」
スマホの画面に表示された文字を読みあげる。そのアカウントを登録した瞬間、正式にこの契約が結ばれた。
そういえば、高校に入ってからこうして連絡先を登録するのは初めてだ。まあ……決済アプリだし。通学電車のなかで快適な睡眠を得るための、完全な利害関係だけど。
「そうだ。俺は千瀬川から乗るので、すこしお待たせしますけど、いいですか?」
千瀬川は、俺が乗る駅から四つだけ先の駅だ。そんなところから隣にこの朝日奈くんが座っていたなんて、これまで気づきもしなかった。
「いいよ。十分」
「じゃあ、契約成立ですね」
用件は済んだとばかりに、朝日奈くんは手際よくゴミをまとめ、椅子からひらりと立ち上がる。契約を結んでしまった相手には、もう余計な口説き文句も必要ないということだろう。
詮索されたことは嫌だったけど、無駄に干渉してこないのなら願ったりかなったりだ。
「お先に失礼します。また明日」
「うん……また」
教室を出ていく彼に、軽く手を振り返す。
空き教室にひとり取り残された俺は、画面に映しだされた目新しいアイコンを見つめていた。

