シューゲイザーズ

 頭からベッドに突っ込んだ。
 疲れた。指が痛すぎる。肩も凝っている。見た目でジャズマスターなんて選ぶべきではなかった。普通に重い。
「おーい、姉ちゃん。……って、うわ。ヘドロじゃん」
 ドアが開いて、一(はじめ)が部屋の中を覗いた。
「姉に向かってヘドロ呼ばわりしないで……」
「別に姉ちゃんがヘドロだとは言ってないでしょ。やーいやーい」
「このやろう……」
 疲労困憊なこの状態では、ベッドから頭も上げられない。
「祖母ちゃんが夕飯だから呼んで来てって」
「すぐ行く……」
 すでに三日目を終えた放課後ギター練習は、私の体力を根こそぎ奪っていった。
 連日、奏の奔放ぶりに振り回されるのは、正直に言って大変すぎる。ギターも覚えることが多いし、何より奏の説明が問題だ。
 『まずはコードの押さえ方をマスターしよう!』と言い出したまではいい。上手く音がならないときの説明が意味不明だ。手はふにゃっとして指はピン、だの、セーハは人差し指をギュッ、だの。
 もう充分すぎるほどに、教則本に挟まれていたオーナーの付箋の意味を理解させられていた。
 奏は説明が感覚的すぎるのだ。
 脳をロックに冒されると、人はああなってしまうらしい。恐ろしい話だ。私は、ああはなりたくない。
「ぅぅぅぅ……」
 掛け布団に向かってうめき声を出して、身体を無理やり持ち上げる。
 そろそろ行かないとお祖母ちゃんに怒られてしまう。
「姉ちゃん」
「わぁっ!」
 びっくりしてベッドからこけかけた。
 まだ一(はじめ)が部屋を出て行っていないではないか。
「なんでまだいるの」
「放っといたら絶対寝るなって思って」
 反論できない。
「っていうか、姉ちゃん。その本なに?」
「え? ……あっ!」
 一(はじめ)が指差した先には、面倒臭くて適当に入れたせいで、床に置いた表紙にバッグからこぼれたギターの教則本だ。
 いや、落ち着け。一(はじめ)のいる位置と鞄では目算で3メートルはある。何の本かは分からないはずだ。
「なに姉ちゃん。ギター始めたの?」
 終わった。目良すぎだろ。
 何を隠そう、この一(はじめ)という中学三年生はギターを弾くのだ。何年目かは忘れたが、私よりも歴の長い経験者たる弟にそれが知られれば、何を言われるかなんて分からない。
「あぅん」
 あまりにも曖昧な肯定なのか否定なのかも分からない相槌が喉の奥から飛び出て、一(はじめ)は心底、訳が分からないとでも言いたげな神妙な面持ちで首を傾げた。
「じゃあギターは?」
「えと……借りてるスタジオに置いてって良いよって言われてて……」
 私は、弟相手にどうしてこんな圧迫面接みたいなテンションで受け答えしているのだろう。
 呆れや悲しさを飛び越して、なんだか腹が立ってきた。
「なんか文句?」
「なんでだよ。文句なんかないよ」
 ため息交じりに一(はじめ)は答えた。
「家では弾かないの?」
 文句を言うどころか、一(はじめ)は私にさらに問いを重ねてくる。
「だって近所迷惑じゃん」
「夜遅くじゃなければそんなよ。それに、ヘッドホンアンプ使えば騒音も少ないし」
「ヘッドホンアンプ……?」
「あれ知らない?」
 一(はじめ)が少し待ってと十数秒だけその場からいなくなり、すぐさまそこに現れた。
 その手には、よく分からない手のひらサイズの機械が握られている。
「これだよ。ヘッドホンとかイヤホンを繋げて、ギターの音を聞けるの。鳴るのは生音だけだからそんなに煩くないし」
「へぇ、こんなものが。……じゃなくて」
 私は今更気が付いた。
「なんで?」
「なんでって何が」
「いやだって、なんで私にそれ見せてくれたの?」
「教則本使ってるってことは一人でやってるんでしょ? スタジオを一々借りるのもお金かかるし、家でやれた方が良くない?」
「あぁ……」
 なんという親切心。いい弟だ。いつも心の中でこき下ろしてごめんね。
 だが、致命的に認識に差がある。
 まず私はこの前の帰り道に靴をぶつけられ、それで出会った緑木奏という先輩がいて、彼女が格安で借りてるスタジオの一室で彼女の手ずからギターを、分かり辛いとはいえ教えられているのだ。という事ではあるのだが。
「えっと、事情が複雑でね……」
「はあ?」
 私は、家族に対して何の説明もしていない。
 最近、帰りが遅いのは学校で友達が出来たからだと説明してあるが、何が理由で遅くなったのかまでは面倒だから説明をしていない。いや、そもそも聞かれていない。家族からしたら、私に友達が出来たという事実の方が大事らしい。
「んーと、この前友達が出来たって言ったじゃん」
「あれ、虚言じゃなかったの?」
 絶句した。
 なんなんだ。私はそんなにぼっちだと思われてるのか。事実だけども。
「それで、その友達が先輩なんだけど、その人が持ってるギターを一本貰って、教えてもらってるの」
「ふーん。なんだ、怪しい人に捕まって強制労働でもさせられてるのかと思った」
「怪しい人ってのは間違ってないかも……」
 一(はじめ)がひどく怪訝な顔をした。
「ま、まあともかく、スタジオ代とかは考えなくていいの!」
「へえ。まあわかんないけど、大体わかったよ」
 まったくもって信用されてる気配がないが、一(はじめ)はともかく納得してくれたようで、数度頷いた。
 ふう、と肩の力を抜いてみた瞬間、私の胴体目掛けて何か重いものが飛んできた。流石にびっくりしたが、どうにかキャッチしてみれば、先ほど一(はじめ)が自室から持ってきたヘッドホンアンプだった。
「え、なんで?」
「ギター上達のコツは、四六時中ギターに触れることだよ。スタジオに置いてくるんじゃなくて、持って帰って来て練習した方がいい」
「知ったような口を……」
「姉ちゃんよりは知ってる」
 ぐぬぬ、と悔しがってみせると、一(はじめ)は勝ち誇ったように笑った。
「最近、ヘッドホンアンプを新しいのに替えたからさ、お父さんから貰った古い方だしあげるよ」
 それから、一(はじめ)はにっこりと笑った。
 昔から変わらない笑顔だ。生意気なのも変わらない。
「ほら、お祖母ちゃん怒っちゃうし、早くリビング行こ」
「分かった分かった」
 ベッドから腰を上げて、自室を出た。
 その後ろをついてくるように、一(はじめ)は部屋の扉を閉めて階段へと歩みを進める。
「ところでギターは何を使ってんの?」
「ジャズマスターだよ。なんだっけ、確かスクワイヤーって言ってた」
「え……」
 私が階段を下りきったが、一(はじめ)は階段の中腹ほどで立ち止まって、私の顔を見つめていた。
「ミニじゃなくて……?」
「ミニ? よく知らないけど、スクワイヤーのジェイなんちゃらって言ってた」
「……姉ちゃん」
 深刻そうな顔をしながら、一(はじめ)が急いで階段を下りきると、私の肩を掴んで言った。
「それ、八万するやつだよ……」
「……………………えっ」