なるほど。
昨日、私の頭に靴が降ってきた理由がよく分かった。
「ご、ごめんねぇ……」
狭い防音室で、さらに狭い機材の隙間に私は手を伸ばしながら、背後の奏による謝罪を聞いていた。
「うぅ、私、これが悪いところでね。バンドのメンバーにもよく、落ち着いて弾けって言われちゃうの……」
そりゃ言われるだろう、と納得しかない3分半の演奏だった。
『ホワット・イズ・ラヴ』はラスサビまで歌うと、アウトロにキメのギターソロが入る。これがまあかっこいい。テンションが上がるギターリフであることは間違いない。間違いないのだが。
「あ、あの、靴のサイズとか合って無いんですか?」
「中古で衝動買いしたやつだからちょっとぶかぶかで……。でも、なんかロックでしょ?」
涙目になりながらちょける奏。心底呆れてしまう。
このロックに狂った先輩は、ギターソロの最後のところでテンションが上がりまくって、足を振り上げたのだ。その拍子に、靴はフライングアウェイ。天井にぶつかって、計算したかのようにアンプの後ろにさよならした訳だ。野球ならホームランだ。野球はよく分かんないけど。
「その、あんまりこういうこと言うとアレかもしれないですけど」
アンプと壁の隙間に手を伸ばしながら言う。流石に言いたいことが多すぎた。
「よく出禁になりませんね……」
「私もそう思う」
じゃあ改善しろよ!
心の中で全力で叫んだ。
「オーナーの篠田さんが私のお母さんと知り合いですごく良い人でね。立地が悪くて対して儲からないからし、一番古くなってる部屋ならってことで安く貸してもらってるの。機材とかも、すぐ退かせる量なら置いて行っていいって言ってくれてね」
あのガラの悪そうなお姉さんが。その言葉は喉の奥にしまっておいた。
一番古くなっている部屋なら、心霊現象としか思えなかった勝手に開く窓も経年劣化が原因なのだろう。
「……まあ、その、叱る時はかなりしっかり叱って来るんだけどね……」
「行いを見れば当然では?」
しまった、つい口をついて出てしまった。
「いやまあ、それはそうなんだけどさ」
両手の人差し指を気まずそうに合わせながら、私から目を逸らした。どうなってんだこの人は。
アンプというのは見た目以上に重量があり、非力な私ではびくともしそうにない。私の右手がギリギリ入るくらいの狭さなので、右手の触覚だけを頼りにスニーカーを探した。
「もう一人のお母さんって感じで、すごく良い人」
「……そうですか」
なんとなく、それ以上のことを聞くのは野暮な気がした。
その時、右手に革のようなものがぶつかる感覚があった。それが目当てのスニーカーであることは容易に分かった。
「取れました」
「やった!」
靴ひもを掴んで引っ張り出したスニーカーは、昨日見た物と同じだった。
「マジありがとう。もー、迷惑かけっぱなしだね私。ごめん……」
「気にしないでくださいってば」
スニーカーを履き直して靴ひもを器用にギターを抱えたまま結ぶ奏が、なんだかすごく面白くて、ふと笑ってしまった。
久々に笑った気がする。
「なんかお礼しないとね!」
「だから気にしないでください」
不敵に笑った奏の考えが分からなくて、かなり怖い。
おもむろに彼女はギタースタンドに抱えていたギターを戻し、三つ並んだそれの前でぶつぶつと何かを呟き始めた。
なんだこの人。
「ストラトは今の主力だし、レスポール……いやでも、レスポールってあんまり初心者向きじゃないしな……」
なんか言ってる。怖い。
「あ、あの……」
「んー……いや、でもな……うちのバンドの方向性的には……」
「あの!」
「いいや、めんどっちい! こんなんロックじゃない!」
「ああああ、すみませんすみません」
「あえ、ごめん、違う違う! 君のことじゃなくて!」
くるりと振り返った奏は焦ったように私の肩を掴んだ。
距離感が変だ。これにやや慣れ始めている私もおかしくなってきている。
「お礼とお詫び、するね!」
「体で払え的なやつですか!?」
「その場合、私が身を切ることになるんですけど!? あ、いや、完全に間違っている訳ではないけど……」
反射的に、奏の両腕を無理やり退かして後退った。
なんのつもりだ、私を犯罪者にでもして社会的に殺したいのか! やっぱり私はこの先輩に嵌められたんだ!
「助けてください! 何でもしますんで!」
「だから何でもするのは私なの!」
「私を犯罪者にするつもりですか!」
「何やらせようとしてるの!?」
「違います、誤解です!」
互いに、なぜ大声を出しているのだろうか。もはや理由が分からなくなり始めた。
だからだろう、防音室の扉が開いていたことに気が付かなかった。
「……お前ら、何やってんだ?」
「「きゃああああ!」」
私と奏の悲鳴が響いた。
「えっと、つまり、普通にお礼がしたいだけだと」
スチールチェアに座っているのは、インナーカラーを青く染めた髪をガリガリと掻く女性。昨日、奏を連れ去って行ったこの貸しスタジオのオーナーだ。
今日はサングラスを外している。
「……お前ら、もうちょっとまともにコミュニケーションは取れないのか?」
対し、私と奏の二人は固いスタジオの床で正座していた。
ごもっともな指摘である。
「えー、だって」
「だってもへちまもない」
「語彙がちょっと古──」
オーナーが奏の頭を鷲掴みにした。
オーナーは笑顔だったが、何よりもその笑顔が怖かった。
「あん?」
「……ナンデモナイデス」
「よし」
解放された奏は頭を押さえていた。痛そう。
一方、オーナーの方はふん、と鼻を鳴らして、今度は私の方を見た。怖い。
「で、君は……ああ、昨日の夕方に奏に絡まれてた子か。私は篠田茉央、このトゥーフェイス・スタジオのオーナーだよ。君は奏のお友達かな?」
「あえ、あの、違くて、その、昨日、奏先輩に靴をぶつけられた縁と言いますか」
「靴を、ぶつけられた……?」
ぎぎぎ、と音がしそうなほど、ゆっくりと青筋を額に浮かべながら奏の方を睨む篠田。
奏が首をぶんぶんと横に振った。
「違う違う違う、事故事故事故」
「ほう……?」
オーナーの笑顔は剥がれない。
奏の自業自得なので、私には用語のしようがないが。
「まあ、それについては後でたっぷりと話を聞かせてもらうから良いとして」
「ぴぇ……」
奏の断末魔のような鳴き声を、気にも留めずにオーナーは話を続ける。
本当にこの人は、先ほど奏が語ったように優しい人なのか?
「で、何のお礼をするつもりだったんだ。話はそこから始まってたんだろう」
「あ、そうそう!」
嘘みたいに早い切り替えで、奏は立ち上がった。
次いで、奏は三つ並んだギタースタンドの前で私の方に向き直る。
そして、平然と言ってのけた。
「ギター、あげようと思って!」
一秒か、もっと長い時間か、この狭い部屋にいた全員が動きを止めた。
ギター。
ギター?
「え?」
「は?」
私とオーナーが、ほぼ同時に声をあげた。
「だから、ギター! あげる!」
「奏、ちょい待て。ちょっと待ってくれ。ん? この子にあげるのか?」
「うん!」
「はあ?」
オーナーは顔を右手で覆ってしまった。
「あの、え?」
かくいう私も、状況が呑み込めていない。
「そういう、私の知らないギャグが……?」
「ない!」
陽キャのノリとかではないらしい。いやまあ、陽キャのノリであることは間違いないのだが。
「ここに三種類のギターがあるじゃろ?」
「どれか選べと言われても困りますけど!?」
困ったように顔を伏せていたオーナーの肩が揺れた。
なに笑ってんだ!
「まあまあ。もちろんタダでってわけじゃないし、他のことで埋め合わせが出来るならそっちでもいいんだけど」
「叶う望みは薄いだろうな。こいつは万年金欠の宵越しの金を持たない江戸っ子時代錯誤ロックンローラーだからな」
根拠不明の自信をたっぷりに語る奏を見ながらオーナーが言った。
恐らく合っているんだろうが、流石に言い過ぎではないか?
「合ってるけど流石に言い過ぎ!」
それ見たことか。
「で、どれにするの!」
勘弁してくれないか。誰かこの人を止めてくれ。
そう思った矢先に、私の頭の上に重みが加わった。
「まあ、奏の片棒を担ぐわけではないがね」
何事かと驚いてみれば、オーナーが私の頭を撫でているではないか。
その手のひらは女性にしては比較的大きくて、指先は固くなっていた。ギターを弾く人の指だ。
「このロックンローラーに騙されてみるのも良いかもしれないぞ」
騙されてみる。
なるほど。なんとなく合点がいった。
私は騙されていたのか。この突飛にころころと表情やら感情を変える緑木奏という人に、私は騙されていたんだ。だから、私は彼女の靴を探す羽目になってしまったんだ。好きな曲の演奏を聞くことになり、こんな場所にのこのこやって来てしまい、その場しのぎの約束を結ばされてしまい。
だから、靴をぶつけられてしまったんだ。
そうか。
私は騙されていたんだ。
「……」
他人のせいにしてみると、随分と気が楽になった気がした。
多分、気のせいだ。
「……その、オススメってありますか」
だから、奏のせいにしてみよう。そっちの方が正しい道だと思ったから。
奏の顔が、パッと明るくなった。オーナーの私を撫でる手が、ちょっと力強くなった。
「いいな。青春だな」
オーナーがぼそっと呟いた。
「えっとね、オススメはね! やっぱストラトかな! 軽くて扱いやすくて音作りの幅も広いよ!」
「すと……? どれですか?」
「これ!」
三つ並んだスタンドの真ん中にあった、空色のギターを指差した。
ひょいと奏が持ち上げると、そのままケーブルをギターに挿す。それから、私に近寄ってそれを軽々渡してくるのだ。
「持ってみて! ついでに鳴らしてみよー!」
なんと無茶な。
オーナーに目配せして助け舟を乞うてみる。
「あ、椅子の方が良いな。私は退くよ」
ご丁寧に試奏の準備をさせてしまった。なんということだ。
あれよあれよと椅子に座らされ、ギターを握らされ、エフェクターつけた方が実際に弾くときっぽいだの、アンプ直挿しの方がギターの音は分かるだの、やいのやいのとオーナーと奏が口論、というかこだわりを押し付け合って、ケーブルをがちゃがちゃと弄るのを鑑賞させられる。
「さ、やってみて!」
挙句の果てには、弾けと言われた。もう観念して、右手にいつの間にか握らされていたピックで金属製の弦を弾いた。
……鳴らなかった。
「おい、奏。アンプの電源入ってないんじゃないか」
「えー、入ってるよ」
弱々しい金属音だけを残して、ストラトと呼ばれた、不運にも私に持たれているこのギターはピクリとも動かなかった。
「アンプのつまみは? ボリュームがゼロになってるんじゃ」
「フルテン!」
「バカのセッティングだろ……」
「何をー!」
勘弁してほしい。
私を挟んで知らない言語で喧嘩しないで。
「チューナー……は繋がってないか。エフェクターボード挟んでないしな」
オーナーがぶつぶつ言っている。
その間に奏はアンプに繋がったケーブルを抜き差しし、それから私の持っているギターのケーブルをまた抜き差しした。
「ちょ、もう一回やってみて!」
奏の言葉で、もう一度ピックで金属製の弦を弾いた。
無駄であった。
「なんでだー!」
「ちょっと失礼」
オーナーが私のギターを触って、しばらく触り続けて、それからため息をついた。
私は何かしでかしてしまったのだろうか。舌を噛み切った方が良いですか?
「おい、奏。ボリュームノブ捻ってないだろ」
「……あ」
アンプを凄い形相で睨みながら唸っていた奏が硬直した。
「初心者じゃねえんだから」
「オーナーだって気付かなかった癖にぃ」
「あ?」
「なんでもないです」
気づいてはいたが、ここでのヒエラルキーはオーナーが最強らしい。困ったら頼ろう。
「ほれ、これで弾けるはずだ。やってみ」
オーナーが、ギターについた何かのつまみを回してくれた。
意を決してもう一度、金属製の弦を、ギターを弾いた。
「わあお!」
結論から言おう。音は鳴った。
音は鳴ったが、問題はそこではなかった。むしろ、音が鳴ったことこそが問題だった。
「フルテン直してないのかよ!」
私が鳴らした音は、この雑居ビルが丸ごと揺れてしまうんじゃないかと思うほど、大きな音を鳴らした。鼓膜は無事だろうか。
私とオーナーは咄嗟に両耳を覆っていた。アンプの前にいた奏は満面の笑みでひっくり返っていた。
「ふふ、これぞロック……」
「近所迷惑の間違いだバカ!」
耳鳴りがする。心臓が止まるほどの爆音だった。
耳が痛いし、びっくりしたし、拍子抜けだけど、なんだか。
「……ふふ」
自分が起こしたこの出来事が、なんだかすごく面白かった。
「どう、気に入った?」
奏がひっくり返ったまま、私に聞いてきた。
「……あんまりです」
「そっかあ」
正直に言ってみたら、奏は笑顔で頷いてくれた。
「じゃ、レスポール使ってみるか!」
もはや見慣れた切り替えの速さで奏は立ち上がって、一番左側のスタンドから赤いギターをひょいと持ち上げた。
昨日、私の頭に靴が降ってきた理由がよく分かった。
「ご、ごめんねぇ……」
狭い防音室で、さらに狭い機材の隙間に私は手を伸ばしながら、背後の奏による謝罪を聞いていた。
「うぅ、私、これが悪いところでね。バンドのメンバーにもよく、落ち着いて弾けって言われちゃうの……」
そりゃ言われるだろう、と納得しかない3分半の演奏だった。
『ホワット・イズ・ラヴ』はラスサビまで歌うと、アウトロにキメのギターソロが入る。これがまあかっこいい。テンションが上がるギターリフであることは間違いない。間違いないのだが。
「あ、あの、靴のサイズとか合って無いんですか?」
「中古で衝動買いしたやつだからちょっとぶかぶかで……。でも、なんかロックでしょ?」
涙目になりながらちょける奏。心底呆れてしまう。
このロックに狂った先輩は、ギターソロの最後のところでテンションが上がりまくって、足を振り上げたのだ。その拍子に、靴はフライングアウェイ。天井にぶつかって、計算したかのようにアンプの後ろにさよならした訳だ。野球ならホームランだ。野球はよく分かんないけど。
「その、あんまりこういうこと言うとアレかもしれないですけど」
アンプと壁の隙間に手を伸ばしながら言う。流石に言いたいことが多すぎた。
「よく出禁になりませんね……」
「私もそう思う」
じゃあ改善しろよ!
心の中で全力で叫んだ。
「オーナーの篠田さんが私のお母さんと知り合いですごく良い人でね。立地が悪くて対して儲からないからし、一番古くなってる部屋ならってことで安く貸してもらってるの。機材とかも、すぐ退かせる量なら置いて行っていいって言ってくれてね」
あのガラの悪そうなお姉さんが。その言葉は喉の奥にしまっておいた。
一番古くなっている部屋なら、心霊現象としか思えなかった勝手に開く窓も経年劣化が原因なのだろう。
「……まあ、その、叱る時はかなりしっかり叱って来るんだけどね……」
「行いを見れば当然では?」
しまった、つい口をついて出てしまった。
「いやまあ、それはそうなんだけどさ」
両手の人差し指を気まずそうに合わせながら、私から目を逸らした。どうなってんだこの人は。
アンプというのは見た目以上に重量があり、非力な私ではびくともしそうにない。私の右手がギリギリ入るくらいの狭さなので、右手の触覚だけを頼りにスニーカーを探した。
「もう一人のお母さんって感じで、すごく良い人」
「……そうですか」
なんとなく、それ以上のことを聞くのは野暮な気がした。
その時、右手に革のようなものがぶつかる感覚があった。それが目当てのスニーカーであることは容易に分かった。
「取れました」
「やった!」
靴ひもを掴んで引っ張り出したスニーカーは、昨日見た物と同じだった。
「マジありがとう。もー、迷惑かけっぱなしだね私。ごめん……」
「気にしないでくださいってば」
スニーカーを履き直して靴ひもを器用にギターを抱えたまま結ぶ奏が、なんだかすごく面白くて、ふと笑ってしまった。
久々に笑った気がする。
「なんかお礼しないとね!」
「だから気にしないでください」
不敵に笑った奏の考えが分からなくて、かなり怖い。
おもむろに彼女はギタースタンドに抱えていたギターを戻し、三つ並んだそれの前でぶつぶつと何かを呟き始めた。
なんだこの人。
「ストラトは今の主力だし、レスポール……いやでも、レスポールってあんまり初心者向きじゃないしな……」
なんか言ってる。怖い。
「あ、あの……」
「んー……いや、でもな……うちのバンドの方向性的には……」
「あの!」
「いいや、めんどっちい! こんなんロックじゃない!」
「ああああ、すみませんすみません」
「あえ、ごめん、違う違う! 君のことじゃなくて!」
くるりと振り返った奏は焦ったように私の肩を掴んだ。
距離感が変だ。これにやや慣れ始めている私もおかしくなってきている。
「お礼とお詫び、するね!」
「体で払え的なやつですか!?」
「その場合、私が身を切ることになるんですけど!? あ、いや、完全に間違っている訳ではないけど……」
反射的に、奏の両腕を無理やり退かして後退った。
なんのつもりだ、私を犯罪者にでもして社会的に殺したいのか! やっぱり私はこの先輩に嵌められたんだ!
「助けてください! 何でもしますんで!」
「だから何でもするのは私なの!」
「私を犯罪者にするつもりですか!」
「何やらせようとしてるの!?」
「違います、誤解です!」
互いに、なぜ大声を出しているのだろうか。もはや理由が分からなくなり始めた。
だからだろう、防音室の扉が開いていたことに気が付かなかった。
「……お前ら、何やってんだ?」
「「きゃああああ!」」
私と奏の悲鳴が響いた。
「えっと、つまり、普通にお礼がしたいだけだと」
スチールチェアに座っているのは、インナーカラーを青く染めた髪をガリガリと掻く女性。昨日、奏を連れ去って行ったこの貸しスタジオのオーナーだ。
今日はサングラスを外している。
「……お前ら、もうちょっとまともにコミュニケーションは取れないのか?」
対し、私と奏の二人は固いスタジオの床で正座していた。
ごもっともな指摘である。
「えー、だって」
「だってもへちまもない」
「語彙がちょっと古──」
オーナーが奏の頭を鷲掴みにした。
オーナーは笑顔だったが、何よりもその笑顔が怖かった。
「あん?」
「……ナンデモナイデス」
「よし」
解放された奏は頭を押さえていた。痛そう。
一方、オーナーの方はふん、と鼻を鳴らして、今度は私の方を見た。怖い。
「で、君は……ああ、昨日の夕方に奏に絡まれてた子か。私は篠田茉央、このトゥーフェイス・スタジオのオーナーだよ。君は奏のお友達かな?」
「あえ、あの、違くて、その、昨日、奏先輩に靴をぶつけられた縁と言いますか」
「靴を、ぶつけられた……?」
ぎぎぎ、と音がしそうなほど、ゆっくりと青筋を額に浮かべながら奏の方を睨む篠田。
奏が首をぶんぶんと横に振った。
「違う違う違う、事故事故事故」
「ほう……?」
オーナーの笑顔は剥がれない。
奏の自業自得なので、私には用語のしようがないが。
「まあ、それについては後でたっぷりと話を聞かせてもらうから良いとして」
「ぴぇ……」
奏の断末魔のような鳴き声を、気にも留めずにオーナーは話を続ける。
本当にこの人は、先ほど奏が語ったように優しい人なのか?
「で、何のお礼をするつもりだったんだ。話はそこから始まってたんだろう」
「あ、そうそう!」
嘘みたいに早い切り替えで、奏は立ち上がった。
次いで、奏は三つ並んだギタースタンドの前で私の方に向き直る。
そして、平然と言ってのけた。
「ギター、あげようと思って!」
一秒か、もっと長い時間か、この狭い部屋にいた全員が動きを止めた。
ギター。
ギター?
「え?」
「は?」
私とオーナーが、ほぼ同時に声をあげた。
「だから、ギター! あげる!」
「奏、ちょい待て。ちょっと待ってくれ。ん? この子にあげるのか?」
「うん!」
「はあ?」
オーナーは顔を右手で覆ってしまった。
「あの、え?」
かくいう私も、状況が呑み込めていない。
「そういう、私の知らないギャグが……?」
「ない!」
陽キャのノリとかではないらしい。いやまあ、陽キャのノリであることは間違いないのだが。
「ここに三種類のギターがあるじゃろ?」
「どれか選べと言われても困りますけど!?」
困ったように顔を伏せていたオーナーの肩が揺れた。
なに笑ってんだ!
「まあまあ。もちろんタダでってわけじゃないし、他のことで埋め合わせが出来るならそっちでもいいんだけど」
「叶う望みは薄いだろうな。こいつは万年金欠の宵越しの金を持たない江戸っ子時代錯誤ロックンローラーだからな」
根拠不明の自信をたっぷりに語る奏を見ながらオーナーが言った。
恐らく合っているんだろうが、流石に言い過ぎではないか?
「合ってるけど流石に言い過ぎ!」
それ見たことか。
「で、どれにするの!」
勘弁してくれないか。誰かこの人を止めてくれ。
そう思った矢先に、私の頭の上に重みが加わった。
「まあ、奏の片棒を担ぐわけではないがね」
何事かと驚いてみれば、オーナーが私の頭を撫でているではないか。
その手のひらは女性にしては比較的大きくて、指先は固くなっていた。ギターを弾く人の指だ。
「このロックンローラーに騙されてみるのも良いかもしれないぞ」
騙されてみる。
なるほど。なんとなく合点がいった。
私は騙されていたのか。この突飛にころころと表情やら感情を変える緑木奏という人に、私は騙されていたんだ。だから、私は彼女の靴を探す羽目になってしまったんだ。好きな曲の演奏を聞くことになり、こんな場所にのこのこやって来てしまい、その場しのぎの約束を結ばされてしまい。
だから、靴をぶつけられてしまったんだ。
そうか。
私は騙されていたんだ。
「……」
他人のせいにしてみると、随分と気が楽になった気がした。
多分、気のせいだ。
「……その、オススメってありますか」
だから、奏のせいにしてみよう。そっちの方が正しい道だと思ったから。
奏の顔が、パッと明るくなった。オーナーの私を撫でる手が、ちょっと力強くなった。
「いいな。青春だな」
オーナーがぼそっと呟いた。
「えっとね、オススメはね! やっぱストラトかな! 軽くて扱いやすくて音作りの幅も広いよ!」
「すと……? どれですか?」
「これ!」
三つ並んだスタンドの真ん中にあった、空色のギターを指差した。
ひょいと奏が持ち上げると、そのままケーブルをギターに挿す。それから、私に近寄ってそれを軽々渡してくるのだ。
「持ってみて! ついでに鳴らしてみよー!」
なんと無茶な。
オーナーに目配せして助け舟を乞うてみる。
「あ、椅子の方が良いな。私は退くよ」
ご丁寧に試奏の準備をさせてしまった。なんということだ。
あれよあれよと椅子に座らされ、ギターを握らされ、エフェクターつけた方が実際に弾くときっぽいだの、アンプ直挿しの方がギターの音は分かるだの、やいのやいのとオーナーと奏が口論、というかこだわりを押し付け合って、ケーブルをがちゃがちゃと弄るのを鑑賞させられる。
「さ、やってみて!」
挙句の果てには、弾けと言われた。もう観念して、右手にいつの間にか握らされていたピックで金属製の弦を弾いた。
……鳴らなかった。
「おい、奏。アンプの電源入ってないんじゃないか」
「えー、入ってるよ」
弱々しい金属音だけを残して、ストラトと呼ばれた、不運にも私に持たれているこのギターはピクリとも動かなかった。
「アンプのつまみは? ボリュームがゼロになってるんじゃ」
「フルテン!」
「バカのセッティングだろ……」
「何をー!」
勘弁してほしい。
私を挟んで知らない言語で喧嘩しないで。
「チューナー……は繋がってないか。エフェクターボード挟んでないしな」
オーナーがぶつぶつ言っている。
その間に奏はアンプに繋がったケーブルを抜き差しし、それから私の持っているギターのケーブルをまた抜き差しした。
「ちょ、もう一回やってみて!」
奏の言葉で、もう一度ピックで金属製の弦を弾いた。
無駄であった。
「なんでだー!」
「ちょっと失礼」
オーナーが私のギターを触って、しばらく触り続けて、それからため息をついた。
私は何かしでかしてしまったのだろうか。舌を噛み切った方が良いですか?
「おい、奏。ボリュームノブ捻ってないだろ」
「……あ」
アンプを凄い形相で睨みながら唸っていた奏が硬直した。
「初心者じゃねえんだから」
「オーナーだって気付かなかった癖にぃ」
「あ?」
「なんでもないです」
気づいてはいたが、ここでのヒエラルキーはオーナーが最強らしい。困ったら頼ろう。
「ほれ、これで弾けるはずだ。やってみ」
オーナーが、ギターについた何かのつまみを回してくれた。
意を決してもう一度、金属製の弦を、ギターを弾いた。
「わあお!」
結論から言おう。音は鳴った。
音は鳴ったが、問題はそこではなかった。むしろ、音が鳴ったことこそが問題だった。
「フルテン直してないのかよ!」
私が鳴らした音は、この雑居ビルが丸ごと揺れてしまうんじゃないかと思うほど、大きな音を鳴らした。鼓膜は無事だろうか。
私とオーナーは咄嗟に両耳を覆っていた。アンプの前にいた奏は満面の笑みでひっくり返っていた。
「ふふ、これぞロック……」
「近所迷惑の間違いだバカ!」
耳鳴りがする。心臓が止まるほどの爆音だった。
耳が痛いし、びっくりしたし、拍子抜けだけど、なんだか。
「……ふふ」
自分が起こしたこの出来事が、なんだかすごく面白かった。
「どう、気に入った?」
奏がひっくり返ったまま、私に聞いてきた。
「……あんまりです」
「そっかあ」
正直に言ってみたら、奏は笑顔で頷いてくれた。
「じゃ、レスポール使ってみるか!」
もはや見慣れた切り替えの速さで奏は立ち上がって、一番左側のスタンドから赤いギターをひょいと持ち上げた。
