困ったことに、「起こり得ることは起こる」というどこかの誰かが言った言葉は、私、足立幸の17年ぽっちの短い人生で痛感していることだ。鏡に映った歯磨きをする冴えない自分の姿を見ながら思った。
先生が黒板に書いた問題に自信がない時ばかり当てられたり、先日に気まずい思いをした人物にばかり、朝一番にばったり出会ってしまったり。
昨日の帰り道に出会った、よく分からんギャルのことを思い出す。
誰だったんだろうあれ。
アーミー・レーションを知っていて、ギターが恐らく弾けて、貸しスタジオのオーナーらしき人物に「奏」と呼ばれていたことは覚えているが、着崩され過ぎた制服にどことなく見覚えがあっても、残念ながら思い当たる近隣の高校はなかった。
「まひゃ会おうね、と言われまひても」
口の中に溜まったミント味の歯磨き粉と一緒に、頭の中に残ったモヤモヤを吐き出した。
「何ぶつぶつ言ってんの」
不機嫌そうな声にびっくりして肩が跳ねた。
振り返れば弟がいた。
「なんだ、一か。脅かさないでよ」
「普通に声掛けただけなんだけど? 姉ちゃん邪魔だから退いて」
男子中学生の馬鹿力になんでもないように押し退けられながら、私は歯磨きを終えた。
まったく、可愛くないやつだ。思春期というやつか、昔はあんなにお姉ちゃんお姉ちゃんって懐っこくて可愛かったのに。
「……視線が気持ち悪いんだけど」
「一が大きくなったなって。頭撫でてやろうか」
「気持ち悪いのは視線だけにしてよ。勘弁して」
女子高校生としては平均より少し高いくらいの私と、それより頭一つ分は大きい私の弟。
ああ、昔はあんなにころころ小さくて可愛かったのに。二つしか変わらないとはいえ、あの頃が恋しくてたまらない。短く刈り上げられた頭を見ながらそう思った。
今や、実の姉を適当に扱うようになって……。
「歯磨き終わったんなら朝ごはん食べてくれば? なんで洗面所にずっといるのさ」
苦言を呈されて洗面所からつまみ出された。ひどい。
その日の昼休みも、私は教室の隅の机で一人黙々と登校時に寄ったコンビニで買ったサンドイッチを口に運んでいた。
いつもと同じたまごサンドは、別に好きで買っているわけじゃない。新しい味を試そうと思わないだけだ。口の中がたまごサンドのマヨで脂っこくなったのをこれまた理由なく選んだリンゴジュースで洗い流す。
進歩のない人生というやつだ。
「でさ〜」
「えぇ、マジやばくね?」
セーラー服を着て、教室の前の方できゃいきゃいはしゃぎながら、自分が作ったわけでもないお弁当がどうのこうのと文句を言ったり褒めあったりしている模範的JKたちが、少し羨ましい。
別にそれになりたいわけではないが、私にも、あそこに混じっても不思議じゃないようなキラキラした感じというか、コミュニケーション能力が欲しい。
隣の芝生はなんとやら、だ。
もしかすると、あのキラキラJKたちは私のように地味で誰にも関わらずに済むようになりたくてしょうがないのかもしれない。そんなわけ無いか。
私のはただの、ないものねだり。それ以上でもそれ以下でも無い。
つい、ため息が漏れてしまった。すまんなサンドイッチ、君が悪いわけじゃないんだ。
目下のサンドイッチと綺麗な机に謝罪した。
「おい、あの人来るぞ」
「あの人って誰だよ」
「ほら、例の先輩。緑木先輩だよ」
廊下の男子たちが何やら騒いでいる。
昼休みくらい静かに過ごさせて欲しいのだけど。いや、冷静に考えれば昼休みくらい騒ぎたいか。なんかごめん。
「ああ、例の軽音部の人だろ?」
「ちげえよ、軽音部に誘われてロックじゃないとか言って断った人だよ」
「あのロック狂いの人?」
ロック狂い? まあ、確かに誘いをわざわざ断るようなロックな人なのは間違いないだろう。
教室の前の方から甲高い声、廊下からは矢鱈滅多でかい声。いい加減にしてくれないかな。諦めて、自分の机の横っちょにかけたスクールバックの中を探って、現代アート並みに絡まった有線イヤホンを取り出す。
「なんか、二年の教室を片っ端から開けては閉めてをしてるらしくて」
「……何が目的なん、それ」
イヤホンを手元に持ってくる。
まずい。下手な知恵の輪より難しいだろこれ。いや、知恵の輪を解いたことは無いけど。
「あ、ほら。あそこ。もうこっち来るぞ」
「おお、結構な美人じゃん。中身知らなかったら告ってたかも」
「見る目ないな、お前」
「……やばこっち来た」
「やばいやばいどうすんの」
ここをほどくと、そこが絡まる。でもそこをほどくとこっちが絡まる。なんだこれ。
諦めてイヤホンジャックにこのまま挿しちゃおうかな。音さえ聞ければぶっちゃけなんでも良い気が──
「たーのもー!」
とんでもない勢いで教室の前の方の扉が開かれた。
その顔を見て私は固まってしまった。これが良くなかった。一目散に隠れるか逃げてしまうべきだったのだ。
「人を探しています!」
そこに居たのは、昨日のよく分からないギャルだ。
何故、ここに居るんだ? 不法侵入?
そんなわけがない。昨日は全く気付かなかったが、よくよく考えれば彼女の着崩した制服はこの学校のセーラー服の片鱗が見え隠れしていたではないか!
「あっ!」
最悪なことに最悪なことは重なるものである。放心していた私の視線と、例のギャルの視線が重なってしまったのだ。
いや、まだ分からない。私以外の誰かを探している可能性も否定はできない。否定できない、よね?
「ようやく見つけたよ! アーミー・レーションの子!」
「ちが……っ!」
冷静じゃない頭でも分かる。そんなわけがない。反射で否定してみるがダメそうだ。
獲物を見つけた獣よろしく、大股で近寄って来るギャルがコンマ一秒たりとも目を離してくれない。
ああ、もう逃げられない。観念して舌を噛み切った方が幸せかもしれない。
このギャルは私の目の前に来るや否や、テーブルを両の手で強く叩いて言うのだ。
「さあ、語ろう!」
「ひっ!」
殺される!
いささか、いやかなり文脈が飛んでいる。このギャルには話の順序とか、時間感覚とかはないらしい。
「アーミー・レーションについて! さあ!」
目が怖い! テンションが上がっているのか、隈のある目を見開いてこちらを見つめている。完全にキマっている。数人は殺している目だ!
「あ、あの、アーミー・レーションについては後で……」
「何の曲が好き!? 私はね、『ユー・キルド・イット』が好きだよ!」
誰か助けて欲しい。話が通じないよこの人。
「ええ、あの……誰だっけ、足立だっけ? あんな地味な子に用があるとかなんなんだろ」
教室の前の方の一軍女子の誰かがぼそっと言った。私もそう思う。
周りの目が怖い。懐疑なのか好奇なのか、少なくとも私はこの天真爛漫という言葉が似合いすぎるギャルには不釣り合いだと思われているに違いない。私もそう思う。
「やっぱり、『僕にしたいことなんてないけど、出来ることならあるんだ』って歌詞──」
「あの!」
高校入学以来、一番大きな声が出た。
が、周りの喧騒に簡単にかき消されてしまう程にはあまり大きくなかったようで、ギャルの大きな目がさらに僅かに見開かれる程度であった。
とはいえ、私の声は無意味であったわけではないらしい。ギャルの機関銃のような一方的な会話は確かに止まった。
「……あの、誰、ですか?」
我ながら酷い問いかけだったと思う。昨日、出会った人間に誰なんて問いかけるのは普通に考えて失礼だ。
ほれ見ろ、目の前のギャルは口を半開きにして固まってしまったではないか。
「あ、その、別に変な意味じゃなくてですね! な、名前をまだ聞いてなかったって思って!」
「……ああ!」
コミュニケーションというのはすごく難しい。
言葉を一個間違えただけで私はこのギャルに静かなる高校生活の全てを滅茶苦茶にされかねないのだ。いや、もう滅茶苦茶にされかけているな。
「私は緑木奏! 大のロック好きだよ!」
「……ロック狂いの間違いじゃね?」
廊下の方から小声で、男子がぼそっと呟いた。
先生が黒板に書いた問題に自信がない時ばかり当てられたり、先日に気まずい思いをした人物にばかり、朝一番にばったり出会ってしまったり。
昨日の帰り道に出会った、よく分からんギャルのことを思い出す。
誰だったんだろうあれ。
アーミー・レーションを知っていて、ギターが恐らく弾けて、貸しスタジオのオーナーらしき人物に「奏」と呼ばれていたことは覚えているが、着崩され過ぎた制服にどことなく見覚えがあっても、残念ながら思い当たる近隣の高校はなかった。
「まひゃ会おうね、と言われまひても」
口の中に溜まったミント味の歯磨き粉と一緒に、頭の中に残ったモヤモヤを吐き出した。
「何ぶつぶつ言ってんの」
不機嫌そうな声にびっくりして肩が跳ねた。
振り返れば弟がいた。
「なんだ、一か。脅かさないでよ」
「普通に声掛けただけなんだけど? 姉ちゃん邪魔だから退いて」
男子中学生の馬鹿力になんでもないように押し退けられながら、私は歯磨きを終えた。
まったく、可愛くないやつだ。思春期というやつか、昔はあんなにお姉ちゃんお姉ちゃんって懐っこくて可愛かったのに。
「……視線が気持ち悪いんだけど」
「一が大きくなったなって。頭撫でてやろうか」
「気持ち悪いのは視線だけにしてよ。勘弁して」
女子高校生としては平均より少し高いくらいの私と、それより頭一つ分は大きい私の弟。
ああ、昔はあんなにころころ小さくて可愛かったのに。二つしか変わらないとはいえ、あの頃が恋しくてたまらない。短く刈り上げられた頭を見ながらそう思った。
今や、実の姉を適当に扱うようになって……。
「歯磨き終わったんなら朝ごはん食べてくれば? なんで洗面所にずっといるのさ」
苦言を呈されて洗面所からつまみ出された。ひどい。
その日の昼休みも、私は教室の隅の机で一人黙々と登校時に寄ったコンビニで買ったサンドイッチを口に運んでいた。
いつもと同じたまごサンドは、別に好きで買っているわけじゃない。新しい味を試そうと思わないだけだ。口の中がたまごサンドのマヨで脂っこくなったのをこれまた理由なく選んだリンゴジュースで洗い流す。
進歩のない人生というやつだ。
「でさ〜」
「えぇ、マジやばくね?」
セーラー服を着て、教室の前の方できゃいきゃいはしゃぎながら、自分が作ったわけでもないお弁当がどうのこうのと文句を言ったり褒めあったりしている模範的JKたちが、少し羨ましい。
別にそれになりたいわけではないが、私にも、あそこに混じっても不思議じゃないようなキラキラした感じというか、コミュニケーション能力が欲しい。
隣の芝生はなんとやら、だ。
もしかすると、あのキラキラJKたちは私のように地味で誰にも関わらずに済むようになりたくてしょうがないのかもしれない。そんなわけ無いか。
私のはただの、ないものねだり。それ以上でもそれ以下でも無い。
つい、ため息が漏れてしまった。すまんなサンドイッチ、君が悪いわけじゃないんだ。
目下のサンドイッチと綺麗な机に謝罪した。
「おい、あの人来るぞ」
「あの人って誰だよ」
「ほら、例の先輩。緑木先輩だよ」
廊下の男子たちが何やら騒いでいる。
昼休みくらい静かに過ごさせて欲しいのだけど。いや、冷静に考えれば昼休みくらい騒ぎたいか。なんかごめん。
「ああ、例の軽音部の人だろ?」
「ちげえよ、軽音部に誘われてロックじゃないとか言って断った人だよ」
「あのロック狂いの人?」
ロック狂い? まあ、確かに誘いをわざわざ断るようなロックな人なのは間違いないだろう。
教室の前の方から甲高い声、廊下からは矢鱈滅多でかい声。いい加減にしてくれないかな。諦めて、自分の机の横っちょにかけたスクールバックの中を探って、現代アート並みに絡まった有線イヤホンを取り出す。
「なんか、二年の教室を片っ端から開けては閉めてをしてるらしくて」
「……何が目的なん、それ」
イヤホンを手元に持ってくる。
まずい。下手な知恵の輪より難しいだろこれ。いや、知恵の輪を解いたことは無いけど。
「あ、ほら。あそこ。もうこっち来るぞ」
「おお、結構な美人じゃん。中身知らなかったら告ってたかも」
「見る目ないな、お前」
「……やばこっち来た」
「やばいやばいどうすんの」
ここをほどくと、そこが絡まる。でもそこをほどくとこっちが絡まる。なんだこれ。
諦めてイヤホンジャックにこのまま挿しちゃおうかな。音さえ聞ければぶっちゃけなんでも良い気が──
「たーのもー!」
とんでもない勢いで教室の前の方の扉が開かれた。
その顔を見て私は固まってしまった。これが良くなかった。一目散に隠れるか逃げてしまうべきだったのだ。
「人を探しています!」
そこに居たのは、昨日のよく分からないギャルだ。
何故、ここに居るんだ? 不法侵入?
そんなわけがない。昨日は全く気付かなかったが、よくよく考えれば彼女の着崩した制服はこの学校のセーラー服の片鱗が見え隠れしていたではないか!
「あっ!」
最悪なことに最悪なことは重なるものである。放心していた私の視線と、例のギャルの視線が重なってしまったのだ。
いや、まだ分からない。私以外の誰かを探している可能性も否定はできない。否定できない、よね?
「ようやく見つけたよ! アーミー・レーションの子!」
「ちが……っ!」
冷静じゃない頭でも分かる。そんなわけがない。反射で否定してみるがダメそうだ。
獲物を見つけた獣よろしく、大股で近寄って来るギャルがコンマ一秒たりとも目を離してくれない。
ああ、もう逃げられない。観念して舌を噛み切った方が幸せかもしれない。
このギャルは私の目の前に来るや否や、テーブルを両の手で強く叩いて言うのだ。
「さあ、語ろう!」
「ひっ!」
殺される!
いささか、いやかなり文脈が飛んでいる。このギャルには話の順序とか、時間感覚とかはないらしい。
「アーミー・レーションについて! さあ!」
目が怖い! テンションが上がっているのか、隈のある目を見開いてこちらを見つめている。完全にキマっている。数人は殺している目だ!
「あ、あの、アーミー・レーションについては後で……」
「何の曲が好き!? 私はね、『ユー・キルド・イット』が好きだよ!」
誰か助けて欲しい。話が通じないよこの人。
「ええ、あの……誰だっけ、足立だっけ? あんな地味な子に用があるとかなんなんだろ」
教室の前の方の一軍女子の誰かがぼそっと言った。私もそう思う。
周りの目が怖い。懐疑なのか好奇なのか、少なくとも私はこの天真爛漫という言葉が似合いすぎるギャルには不釣り合いだと思われているに違いない。私もそう思う。
「やっぱり、『僕にしたいことなんてないけど、出来ることならあるんだ』って歌詞──」
「あの!」
高校入学以来、一番大きな声が出た。
が、周りの喧騒に簡単にかき消されてしまう程にはあまり大きくなかったようで、ギャルの大きな目がさらに僅かに見開かれる程度であった。
とはいえ、私の声は無意味であったわけではないらしい。ギャルの機関銃のような一方的な会話は確かに止まった。
「……あの、誰、ですか?」
我ながら酷い問いかけだったと思う。昨日、出会った人間に誰なんて問いかけるのは普通に考えて失礼だ。
ほれ見ろ、目の前のギャルは口を半開きにして固まってしまったではないか。
「あ、その、別に変な意味じゃなくてですね! な、名前をまだ聞いてなかったって思って!」
「……ああ!」
コミュニケーションというのはすごく難しい。
言葉を一個間違えただけで私はこのギャルに静かなる高校生活の全てを滅茶苦茶にされかねないのだ。いや、もう滅茶苦茶にされかけているな。
「私は緑木奏! 大のロック好きだよ!」
「……ロック狂いの間違いじゃね?」
廊下の方から小声で、男子がぼそっと呟いた。
