金木犀の香りが鼻腔をくすぐった。
秋の夕方の空気と一緒に、甘い香りを肺いっぱいに吸い込んで、また吐き出す。
背負った重荷が軽くなったような気もするが、案外そんなことないかもしれない。少なくとも、背負ったギターケースの中身は軽くならない。ジャズマスター重い。
「で、姉ちゃん。チケット代の元を取れるくらいの演奏はしてくれるんだよね」
隣で歩く一が言った。
「そりゃもちろん。というか、ライブハウスのお披露目の日だから下手な演奏は出来ないよ」
「じゃあ残念会の準備はしておくよ」
「なんで失敗する前提なの?」
私が文句を言うのを、一は華麗にスルーする。
もはやこれ以上の抗議は意味を為さない。長い付き合いで、最近ようやく理解したことだ。
諦めて、茜色に染まった空を見た。
オレンジ色の陽光が照らして、ギターケースを背負う私の影を長く伸ばしていく。不思議な気分だった。
「しかし、姉ちゃんがシューゲイザーにここまでハマるとは」
「悪かったね」
奏とのゴタゴタがあって、今日でようやく二週間。九月も終わろうとしている。
定期テストが終わって、心なしかテンションの高い一の足取りがほぼスキップだ。
「今度、チケットが当たったらさ、juninzakaのライブ一緒に行こうよ。姉ちゃんはどうせ暇でしょ?」
「どうせってなんだ、どうせって。っていうか一の方が暇じゃないでしょ受験生」
「俺は姉ちゃんと違って成績優秀で品行方正な生徒会長なので」
「未だに信じられない。嘘じゃないの?」
「姉ちゃんは実の弟の話を信じられない人ってバンドのメンバーの人に触れ回っておくね」
「絶対にやめて」
いつからこんなに口達者になったのやら。
「ほら、急いで行くよ。ライブハウスの中、見学したいし」
一が急かしてくる。
込み上げてくるため息を飲み込んで、私はトゥーフェイスへと急いだ。
「賑わってるねぇ」
トゥーフェイス一階、受付前の待合室のテーブルに備え付けられた椅子に座って、奏は言った。
お披露目ライブの開始まではあと1時間強もあるというのに、ライブハウスに繋がる階段の横、入場用に新たに設けられた受付の前は人でいっぱいだ。一は私の連れということで篠田に優先的に入れてもらったらしいが、この行列を見るに相当な優遇だ。
篠田には後で一礼を入れておこうと思った。
「バイト募集するかってオーナーがぼやいてたわよ」
「マジ? あとで掛け合おうかな」
「書類選考で落とされるわよ」
「そこまでオーナーは薄情者じゃないよぉ」
「使えない人材を雇うほど、オーナーも余裕はないでしょ」
「なにをー!」
奏と向かいに座った望がくだらない話を続けていた。
しかし、バイトの話については、本当に奏は落とされるかもしれない。数日前、奏以外のペンディングのメンバーが篠田によって呼び集められて、そのライブハウスのバイトについて話してくれたからだ。
奏を呼ばない理由については、はっきりとは教えてくれなかったが、まあ概ね望の言う通りなのだろう。
「対バンの人たち、みんな元気だったっすねぇ」
真白がぐったりした様子で椅子に寄りかかって言う。
「そうね。皆、オーナーに呼ばれたって話だったし、結構、恩を返しに来たって感じの人も多かったわね」
望や真白の言う通り、私たちは楽屋代わりになっている貸しスタジオの防音室を回って、先ほどまで挨拶回りをしていたのだ。
ペンディングを入れて全部で6つ。早めの時間から始まっていること、持ち時間が少し短めなことで成り立つスケジュールだが、それでも数日前の篠田はスケージュール表を見ては頭を抱えていた。
篠田の苦労が心配だ。
「っていうか、お客さんとして呼ばれた人もオーナーの知り合いの人がいっぱいだよ。私も見たことある人多いし」
奏が言う。
私は、篠田の顔の広さに驚嘆するしかない。
「なんか、すごい人なんですね。オーナーさんって」
私がそうぼやく。
すると、奏も望も真白も、みんなが私の方を見る。信じられないとでも言いたげに。
「え、知らないんすか?」
「オーナーに聞いてないの?」
「ガチのマジで凄い人だよ、オーナーって」
口々に、私にわっと言葉をかけてくる。
私は聖徳太子ではないのでやめてほしい。
「その、何も聞いてないんですけど……」
私がそう言うと、また三人が信じられないと言いたげな顔で驚く。
なんなんだ。
「あのね?」
奏が代表で口を開く。
「インディーズだけど下北沢で活動してた知る人ぞ知る『ダマシエ』ってガールズバンドがあってね。そこでギターやってたんだよ、オーナーは」
「へ、へえ……」
「CDの売り上げ総数は1万枚は行ってたらしいよ」
「はい!?」
思わず叫んだ。
私はそんな人に音楽を教えられて、ギターを教えられて、その上で頭も撫でてもらっているのか!?
「ギタボの人が引退しちゃったから、合わせてダマシエは解散になって、それからスタジオを運営し始めたのがオーナーなんだよ」
「すっご……」
「どんだけ昔の話してんだ」
どこからともなく現れた篠田が奏の頭に手刀を入れる。
マズい、篠田を見る目が変わってしまいそうだ。
「オーナー、忙しくないんですか」
「今は昔の仲間に受付を押し付けてるから平気だ。というか、お前らこそ大丈夫なのか。一番最初を飾るのはペンディングだろ。随分と呑気なもんだな」
望の言葉に篠田は、胃の痛い言葉を返してくる。
「セッティングはしてあるし、時間ぴったりには始められるようにしとけよ。今日はめちゃめちゃに忙しいんだから」
「はーい」
口を尖らせながら奏が答えた。
それはそうと、私は篠田の方を見ながら問う。
「あ、その、一は何か失礼なことはしてませんか……?」
どうやら凄い人らしい篠田。流石に畏まってしまう。
「大丈夫。中学生であそこまで礼儀がなってるのは凄いな。どっかの誰かも見習ってほしいもんだ」
そう言って、篠田は奏の右頬を少しつねった。奏が声にならない声で抗議する。
というか、一は私以外だとそんなに礼儀正しいのか。私にもその礼儀正しさの3割くらいを向けてほしい。
「というか、さっき弟くんも同じ事を聞いてたぞ。姉さんが失礼なことしてませんかって」
何言ってんだあいつ。
「幸ちゃんの弟って感じだねぇ」
「流石は幸の弟ね」
「幸さんとの血のつながりを感じるっすね」
「褒めてるんですよね……?」
奏も望も真白も、うんうんと頷きながらそんなことを言うものだから、私は三人を睨んだ。
「ほれ。ここはそろそろ来場客で埋まるからスタジオに戻った戻った。ライブハウスとしてのトゥーフェイスお披露目のステージでポカやらかしたら許さんぞ」
「はーい」
「分かりました」
「任してくださいっすよ」
「が、頑張ります」
篠田の言葉に、それぞれがそれぞれの言葉で返事をして、私たちは楽屋となったいつもの防音室へと戻った。
18時55分。
私たちはトゥーフェイスの地下、ライブハウスに改装されたその場所の、ステージの上に立っていた。
暗転した照明、薄暗いステージの上で私たちはセッティングを始める。
もはや手慣れたものだ。ハードケースを開けて、小ぶりなエフェクターボードを取り出してステージに置く。アンプの電源がオフになっているのを確認してから、二本のシールドをエフェクターボードのチューナーと最近、新たに買い揃えたファズにそれぞれ挿し、ACケーブルをパワーサプライに挿す。
それから、チューナーから伸びるシールドをギターに、ファズから伸びたシールドをアンプに挿す。そして、ようやくアンプの電源を入れる。
ギターのストラップを調整して、チューナーのペダルを踏んだ。弦を一つずつ鳴らしていって、6弦まで全てのチューニングがズレていないことを確認してからチューナーのペダルをもう一度踏んだ。
背後からスネアドラムの音がする。真白がスネアドラムの音を調整しているのが分かる。振り返ってみれば、満足したらしい真白が椅子の位置をズラし、シンバルとタムの位置を好みに合わせた。それから、ドラムセットの隙間を縫うように伸びたマイクスタンドの位置を自分の口元に来るように調整する。
「あー、んん。あー」
ステージの真ん中に立った望が、ベース用のエフェクターボードのセッティングを終えたらしく、マイクに向かって声を出している。
その向こう、奏も文化祭の時に見たよりも大きくなったエフェクターボードのセッティングとギターのチューニングを終えたらしく、ストラトキャスターを持ったままMC用マイクの高さを器用に調整している。
そして、満足したらしい奏はこちらを見遣って、一つ頷いた。
望と真白、そして私も頷き返した。
ステージの照明が、私たちを照らした。
「こんにちは! じゃなかった、こんばんは!」
会場から笑い声が響いた。
「私たちはオルタナティブロックバンド、pendingです!」
ステージの向かって左側に立った奏が、マイクに向かって叫ぶ。
観客側からは、知りもしないであろうバンド名に歓声を上げてくれる。優しい。
「今日は、いつもお世話になっているオーナーの篠田さんとのコネで、ここに立たせてもらってます!」
また笑い声が響く。
コネ、と言うほどではないと思うが、まあ大体間違っていないので、私としては笑い辛い。
エフェクターボードを見た。チューナーを見て、オフになっていることを確認する。
「篠田さんからは、初のライブハウスお披露目ライブで初手からやらかしたら許さん、と言われてます! ので、やらかしても笑って許してくれるとすごく嬉しいです!」
思えば、随分と遠くまで来たものだ。
とんだ災難で靴を頭にぶつけられたあの日から、靴を眺め続けた私の人生は、変わらなかったし、変えられなかった。
アーミー・レーションが好きとか、ロックが好きとか、くだらなくてどこにでもありそうな共通点に寄って集って、孤独なまま生きていくつもりだった私の人生が広がって。
私は、随分と利己的になったものだ。いや、元からだったのかもしれない。
白色の塗装が褪せ始めたジャズマスターを見ながら、そんなことを思った。
「じゃあ早速ですが、一曲目やります!」
奏が叫ぶ。
私の視線は、足元の方に向いている。いつだって。
もしかすると、どれだけの時間が過ぎたって、私は変われないのかもしれない。
「今日、この日の為に私が書いたシューゲイザーです!」
私の人生は、常に足元の世界だった。
だけど、それでもいいと思うのだ。
勉強も、運動も、何もかもが中途半端で秀でたところの無い私だけど、それでもいいと思うのだ。
どう足掻いたって、どれだけ否定したって、どれだけ出来損ないでも、どれだけ未完成でも、私は私だから。
「聞いてください!」
変わらない私の足元を、靴ばかりいつまでも眺めていよう。
俯きながらでも、生きていけるのだから。
俯きながらでも、ギターは弾けるのだから。
「pendingで、『シューゲイザーズ』!」
私は、足元のエフェクターペダルを思い切り踏み込んだ。
秋の夕方の空気と一緒に、甘い香りを肺いっぱいに吸い込んで、また吐き出す。
背負った重荷が軽くなったような気もするが、案外そんなことないかもしれない。少なくとも、背負ったギターケースの中身は軽くならない。ジャズマスター重い。
「で、姉ちゃん。チケット代の元を取れるくらいの演奏はしてくれるんだよね」
隣で歩く一が言った。
「そりゃもちろん。というか、ライブハウスのお披露目の日だから下手な演奏は出来ないよ」
「じゃあ残念会の準備はしておくよ」
「なんで失敗する前提なの?」
私が文句を言うのを、一は華麗にスルーする。
もはやこれ以上の抗議は意味を為さない。長い付き合いで、最近ようやく理解したことだ。
諦めて、茜色に染まった空を見た。
オレンジ色の陽光が照らして、ギターケースを背負う私の影を長く伸ばしていく。不思議な気分だった。
「しかし、姉ちゃんがシューゲイザーにここまでハマるとは」
「悪かったね」
奏とのゴタゴタがあって、今日でようやく二週間。九月も終わろうとしている。
定期テストが終わって、心なしかテンションの高い一の足取りがほぼスキップだ。
「今度、チケットが当たったらさ、juninzakaのライブ一緒に行こうよ。姉ちゃんはどうせ暇でしょ?」
「どうせってなんだ、どうせって。っていうか一の方が暇じゃないでしょ受験生」
「俺は姉ちゃんと違って成績優秀で品行方正な生徒会長なので」
「未だに信じられない。嘘じゃないの?」
「姉ちゃんは実の弟の話を信じられない人ってバンドのメンバーの人に触れ回っておくね」
「絶対にやめて」
いつからこんなに口達者になったのやら。
「ほら、急いで行くよ。ライブハウスの中、見学したいし」
一が急かしてくる。
込み上げてくるため息を飲み込んで、私はトゥーフェイスへと急いだ。
「賑わってるねぇ」
トゥーフェイス一階、受付前の待合室のテーブルに備え付けられた椅子に座って、奏は言った。
お披露目ライブの開始まではあと1時間強もあるというのに、ライブハウスに繋がる階段の横、入場用に新たに設けられた受付の前は人でいっぱいだ。一は私の連れということで篠田に優先的に入れてもらったらしいが、この行列を見るに相当な優遇だ。
篠田には後で一礼を入れておこうと思った。
「バイト募集するかってオーナーがぼやいてたわよ」
「マジ? あとで掛け合おうかな」
「書類選考で落とされるわよ」
「そこまでオーナーは薄情者じゃないよぉ」
「使えない人材を雇うほど、オーナーも余裕はないでしょ」
「なにをー!」
奏と向かいに座った望がくだらない話を続けていた。
しかし、バイトの話については、本当に奏は落とされるかもしれない。数日前、奏以外のペンディングのメンバーが篠田によって呼び集められて、そのライブハウスのバイトについて話してくれたからだ。
奏を呼ばない理由については、はっきりとは教えてくれなかったが、まあ概ね望の言う通りなのだろう。
「対バンの人たち、みんな元気だったっすねぇ」
真白がぐったりした様子で椅子に寄りかかって言う。
「そうね。皆、オーナーに呼ばれたって話だったし、結構、恩を返しに来たって感じの人も多かったわね」
望や真白の言う通り、私たちは楽屋代わりになっている貸しスタジオの防音室を回って、先ほどまで挨拶回りをしていたのだ。
ペンディングを入れて全部で6つ。早めの時間から始まっていること、持ち時間が少し短めなことで成り立つスケジュールだが、それでも数日前の篠田はスケージュール表を見ては頭を抱えていた。
篠田の苦労が心配だ。
「っていうか、お客さんとして呼ばれた人もオーナーの知り合いの人がいっぱいだよ。私も見たことある人多いし」
奏が言う。
私は、篠田の顔の広さに驚嘆するしかない。
「なんか、すごい人なんですね。オーナーさんって」
私がそうぼやく。
すると、奏も望も真白も、みんなが私の方を見る。信じられないとでも言いたげに。
「え、知らないんすか?」
「オーナーに聞いてないの?」
「ガチのマジで凄い人だよ、オーナーって」
口々に、私にわっと言葉をかけてくる。
私は聖徳太子ではないのでやめてほしい。
「その、何も聞いてないんですけど……」
私がそう言うと、また三人が信じられないと言いたげな顔で驚く。
なんなんだ。
「あのね?」
奏が代表で口を開く。
「インディーズだけど下北沢で活動してた知る人ぞ知る『ダマシエ』ってガールズバンドがあってね。そこでギターやってたんだよ、オーナーは」
「へ、へえ……」
「CDの売り上げ総数は1万枚は行ってたらしいよ」
「はい!?」
思わず叫んだ。
私はそんな人に音楽を教えられて、ギターを教えられて、その上で頭も撫でてもらっているのか!?
「ギタボの人が引退しちゃったから、合わせてダマシエは解散になって、それからスタジオを運営し始めたのがオーナーなんだよ」
「すっご……」
「どんだけ昔の話してんだ」
どこからともなく現れた篠田が奏の頭に手刀を入れる。
マズい、篠田を見る目が変わってしまいそうだ。
「オーナー、忙しくないんですか」
「今は昔の仲間に受付を押し付けてるから平気だ。というか、お前らこそ大丈夫なのか。一番最初を飾るのはペンディングだろ。随分と呑気なもんだな」
望の言葉に篠田は、胃の痛い言葉を返してくる。
「セッティングはしてあるし、時間ぴったりには始められるようにしとけよ。今日はめちゃめちゃに忙しいんだから」
「はーい」
口を尖らせながら奏が答えた。
それはそうと、私は篠田の方を見ながら問う。
「あ、その、一は何か失礼なことはしてませんか……?」
どうやら凄い人らしい篠田。流石に畏まってしまう。
「大丈夫。中学生であそこまで礼儀がなってるのは凄いな。どっかの誰かも見習ってほしいもんだ」
そう言って、篠田は奏の右頬を少しつねった。奏が声にならない声で抗議する。
というか、一は私以外だとそんなに礼儀正しいのか。私にもその礼儀正しさの3割くらいを向けてほしい。
「というか、さっき弟くんも同じ事を聞いてたぞ。姉さんが失礼なことしてませんかって」
何言ってんだあいつ。
「幸ちゃんの弟って感じだねぇ」
「流石は幸の弟ね」
「幸さんとの血のつながりを感じるっすね」
「褒めてるんですよね……?」
奏も望も真白も、うんうんと頷きながらそんなことを言うものだから、私は三人を睨んだ。
「ほれ。ここはそろそろ来場客で埋まるからスタジオに戻った戻った。ライブハウスとしてのトゥーフェイスお披露目のステージでポカやらかしたら許さんぞ」
「はーい」
「分かりました」
「任してくださいっすよ」
「が、頑張ります」
篠田の言葉に、それぞれがそれぞれの言葉で返事をして、私たちは楽屋となったいつもの防音室へと戻った。
18時55分。
私たちはトゥーフェイスの地下、ライブハウスに改装されたその場所の、ステージの上に立っていた。
暗転した照明、薄暗いステージの上で私たちはセッティングを始める。
もはや手慣れたものだ。ハードケースを開けて、小ぶりなエフェクターボードを取り出してステージに置く。アンプの電源がオフになっているのを確認してから、二本のシールドをエフェクターボードのチューナーと最近、新たに買い揃えたファズにそれぞれ挿し、ACケーブルをパワーサプライに挿す。
それから、チューナーから伸びるシールドをギターに、ファズから伸びたシールドをアンプに挿す。そして、ようやくアンプの電源を入れる。
ギターのストラップを調整して、チューナーのペダルを踏んだ。弦を一つずつ鳴らしていって、6弦まで全てのチューニングがズレていないことを確認してからチューナーのペダルをもう一度踏んだ。
背後からスネアドラムの音がする。真白がスネアドラムの音を調整しているのが分かる。振り返ってみれば、満足したらしい真白が椅子の位置をズラし、シンバルとタムの位置を好みに合わせた。それから、ドラムセットの隙間を縫うように伸びたマイクスタンドの位置を自分の口元に来るように調整する。
「あー、んん。あー」
ステージの真ん中に立った望が、ベース用のエフェクターボードのセッティングを終えたらしく、マイクに向かって声を出している。
その向こう、奏も文化祭の時に見たよりも大きくなったエフェクターボードのセッティングとギターのチューニングを終えたらしく、ストラトキャスターを持ったままMC用マイクの高さを器用に調整している。
そして、満足したらしい奏はこちらを見遣って、一つ頷いた。
望と真白、そして私も頷き返した。
ステージの照明が、私たちを照らした。
「こんにちは! じゃなかった、こんばんは!」
会場から笑い声が響いた。
「私たちはオルタナティブロックバンド、pendingです!」
ステージの向かって左側に立った奏が、マイクに向かって叫ぶ。
観客側からは、知りもしないであろうバンド名に歓声を上げてくれる。優しい。
「今日は、いつもお世話になっているオーナーの篠田さんとのコネで、ここに立たせてもらってます!」
また笑い声が響く。
コネ、と言うほどではないと思うが、まあ大体間違っていないので、私としては笑い辛い。
エフェクターボードを見た。チューナーを見て、オフになっていることを確認する。
「篠田さんからは、初のライブハウスお披露目ライブで初手からやらかしたら許さん、と言われてます! ので、やらかしても笑って許してくれるとすごく嬉しいです!」
思えば、随分と遠くまで来たものだ。
とんだ災難で靴を頭にぶつけられたあの日から、靴を眺め続けた私の人生は、変わらなかったし、変えられなかった。
アーミー・レーションが好きとか、ロックが好きとか、くだらなくてどこにでもありそうな共通点に寄って集って、孤独なまま生きていくつもりだった私の人生が広がって。
私は、随分と利己的になったものだ。いや、元からだったのかもしれない。
白色の塗装が褪せ始めたジャズマスターを見ながら、そんなことを思った。
「じゃあ早速ですが、一曲目やります!」
奏が叫ぶ。
私の視線は、足元の方に向いている。いつだって。
もしかすると、どれだけの時間が過ぎたって、私は変われないのかもしれない。
「今日、この日の為に私が書いたシューゲイザーです!」
私の人生は、常に足元の世界だった。
だけど、それでもいいと思うのだ。
勉強も、運動も、何もかもが中途半端で秀でたところの無い私だけど、それでもいいと思うのだ。
どう足掻いたって、どれだけ否定したって、どれだけ出来損ないでも、どれだけ未完成でも、私は私だから。
「聞いてください!」
変わらない私の足元を、靴ばかりいつまでも眺めていよう。
俯きながらでも、生きていけるのだから。
俯きながらでも、ギターは弾けるのだから。
「pendingで、『シューゲイザーズ』!」
私は、足元のエフェクターペダルを思い切り踏み込んだ。
