私の人生は、常に足元の世界だった。
今に至るまで、輝かしい瞬間なんて、一度たりとも無かったと思う。
例えば、スポーツ。
体育の授業なんて、運動が出来ない人間にとっては拷問みたいなものだ。
もちろん、私は拷問される側。長距離走なんかで最後の方まで残って、みんなの見世物になるのは勘弁だけど、ギリギリそうなる直前に走りきるのも、それはそれで辛い。
例えば、勉強。
ちょっと頑張って、地元の県立高校に入ったのは良いとして、模試の順位表に自分の名前が載ったことは当然ない。
英語や国語とは絶縁してしまいたいくらいだ。
例えば、人間関係。
同じ穴の狢としか思えない、片手の指で数えられるくらいの友人。
お節介で口数の多い家族。
世間話もしない、挨拶はされたら返す程度のクラスメイト。
学校から帰るときは、いつでも一人。今日も今日とて、だ。
日陰者の私は、いつだって夕日に照らされた自分の靴ばかりを眺めている。
「はぁ……」
思わずため息が漏れる。
小中高と可もなく不可もなし、どちらかといえば不可寄りの人生だ。こんな私がセーラー服を着ていて良いのだろうか。
きっと、自分は何者にもなれずにこの人生を終えていくのだろうという、達観なのか諦めなのかも区別できない予感だけが心の中を渦巻いていた。
「でさぁ、そん時に彼女がね」
「百回聞いたわその話」
県の最南端に位置する場川高校は、県境の丘陵のせいで最寄駅までのアップダウンが激しい。
勾配が体感で80%はあるだろうという急坂を、転ばないようにゆっくりと下っていた。
十数歩離れた先のサッカー部の男子たち。ノリがよく分からなくて怖い。極力、関わりたいと思うタイプの人種ではない。
そもそも、全体的に下世話な話が多すぎる。下ネタか自慢話以外に話のネタはないのか。
視線は足元だが、耳から入ってくる情報は多い。
心の内で好き勝手に怒って嘆いたところで、別に彼らが騒ぐのを止めるわけではないから、諦めて、使い古された安物の有線イヤホンを両耳に突っ込んだ。
それから、スマホを取り出して音楽アプリを起動。
どの曲にしようか。流行りの音楽ばかりのオススメ欄は無視して、いつも聞いているプレイリストを慣れた手つきで呼び出した。
音楽は良い。
弾こうと思ったことは一度もないが、現実のことを忘れて、別のことで頭をいっぱいに出来るから。我ながら不純な動機だ。誰が知っているんだと思ってしまうようなバンドの曲のサムネイルを指先でタップする。
両耳から流れ始めた歪んだギターとベースの音が凄く心地よい。
少し気が大きくなって、足早にサッカー部男子の集団を追い抜いて、駅までの帰路を急いだ。
改札を通り抜けて、さっさと家から一番近い駅を後にした。
夏は近づいているが、まだまだ日は短い方だ。東側の空は淡く紫に色づき、暗くなり始めている。
イヤホンは付けたまま、ロータリーを歩いていく。視線の先には、自分には用がない黄色の点字ブロックがあった。
「~♪」
好きな曲が流れて、いつの間にか鼻歌を口ずさんでいたらしい。
誰にも見られやしない、商店街へと抜けていく細い路地をようやっと視線を上げて歩いていく。足取りもなんだか軽くなって、上手に出来ないスキップも、テンションに任せて跳ねてしまう。
この一曲が終わるまで、私は自由だ。
意味も理由もない万能感に頭のてっぺんまで浸かりながら、私は曲の世界に浸った。
機械的に歪んだ叫ぶみたいなギターとベースが、ドラムの作った土台の上で暴れ回る曲。玉に瑕なのは、ボーカルがそんなに上手くないことだろうか。品評できるほど耳が肥えているわけではないけど。
最近の、踊れればいい流行りの曲なんかとは全く違う、一昔前に流行ったロックミュージックだ。どうして好きになったのかなんて覚えていないけど、兎にも角にも私はこの曲が好き。
ともすればうるさ過ぎるくらいのこの曲は、私じゃない私を想像させてくれる。
ただそれだけだった。
アウトロ最後の余韻が消えて、曲が終わってしまった。普段なら曲を巻き戻してしまうが、今日は違った。
イヤホンを外して、つい立ち止まった。
その建物の前で立ち止まったのは、ただの偶然だ。聞いたところによると、それは貸しスタジオのあるという雑居ビルだそうで、いつだってガラの悪そうな男の人達がその入り口でたむろしている。
そういうわけで、私はいつも、そのビルの前を早歩きで駆け抜ける。
でも、今日はそうしなかった。
入り口でたむろする男たちがいなかったから、というのは正しい理由じゃない。
ビルの前で立ち止まり、三階にある開いた窓を見上げていた。
その窓から、ギターの音が降り注いでいたからだ。
喧しい音だ。
機械的に歪み、アンプを通して大きな音で叫ぶように響いた音が、コンパクトにまとまったコンクリート製の建物全体をびりびりと揺らし、それでも飽き足らず、窓から飛び出しているように聞こえた。
その音色は元気すぎると言えば聞こえはいいが、とりあえず最初の感想はうるさい以外の何物でもない。
何処かで聞いた覚えのあるフレーズに聞こえて、しばらく思案してから、先ほどまでイヤホンで聞いていたバンドの、いちばん有名な曲のギターフレーズだと気づく。
「……知ってる人、いたんだ」
知っている人がいないわけじゃない。当然だ。
頭ではそうだと分かっていても、なんだか寂しいような気分になる。どちらかというと嫉妬とか、劣等感とか、そういうものに近いかもしれない。
得体のしれない、裏切られたような感覚。
誰も裏切ってなどいないが、どことなくそう感じてしまった。
「帰ろうかな」
誰が聞くでもない独り言を宣言のように呟いて、踵を返そうとした。
その時。
「あっ!」
遠くから誰かが叫ぶ声がした。先ほどまで響いていた意味のある音色が途切れて、スピーカーノイズだけがその場に残る。
反射的に、先ほどと同じ窓を見上げた。
なんだろうか、何かが迫ってきていることが分かる。私の顔に黒い影が落ちて、それがだんだん近づいてきているのだ。
咄嗟に目を閉じて、下を向いた。
同時に、私の頭に強い衝撃が加わる。
「いっ……!」
あまりに唐突過ぎる痛みに声も出せなかった。
頭のてっぺんほどがじんじんとするが痛みはさほど強くない。どちらかというと、あまりに唐突な出来事に対する驚きで、頭を両手で押さえてうずくまってしまった。
何が起きたのだろう。
何かが降って来て、私の頭にダイレクトヒットしたのだ。多分。
ほら、その証拠にうずくまった私の目の前に誰のか分からないスニーカーが落ちているではないか。
意識してみれば、意外とぶつかった部分は痛い気がする。こぶくらいは出来てしまうかもしれない。
いったい何処から、このスニーカーは飛んできたのだ。
私は誰かに闇討ちされるほど人からひんしゅくを買っていただろうか。
それとも、地味すぎていじめても良い奴だと思われたのか。だとしたら私が悪いかもしれない。
ぐるぐると回る頭の中に、女の子の声が入り込んできた。
「ごめーん! 大丈夫ですかー!」
ずいぶんと可愛らしい、鳥が鳴くように高い声が上の方から聞こえてきた。どこかで聞いた覚えもあるし、もしかすると本当に恨まれているのかもしれない。
そう思ったら、うずくまったまま動けなくなってしまった。
ああ、地味に生まれて地味に生きていてすみません。これでも他人に迷惑をかけないように生きているつもりなんです。
「ちょ、ちょっと待っててね!」
トドメを刺されると直感した。
お父さん、お母さん、ごめんなさい。あなた達の娘は今から殴られ蹴られ、ついには死んでしまうかもしれません。地味で出来の悪い娘でごめんなさい。その出来の悪さゆえに私は今から殺されてしまうでしょう。
悪い考えがぐるぐる渦巻いて、走馬灯まがいの物が見えてくる。
今朝がた、昇降口の簀子でこけた記憶、クラスの一軍男子に声をかけられて困った挙句にどもった記憶、古典の授業で助動詞の活用形を上手く答えられなかった記憶。
地味で最悪な思い出ばかりだ。というか、碌な思い出がない。キラキラした女子高生とは程遠い人生でした。もういっそ殺してください。恥の多すぎる生涯です。
「えと、あ、居た! ごめんねえ、大丈夫!?」
うずくまったままだった自分の肩を、誰かが叩いた。
いったいどこの誰がこんな自分に優しくしてくれると言うのだろう。どうか放っておいてください、私は今からアスファルトの染みの一つになるのです。
「アスファルトの染みに……?」
どうやら口から漏れ出ていたらしい。
恥ずかしさのあまり、パッと顔を上げてみればそこに居たのはキラキラの女子高生。
白のブラウスに自前のパーカーなどで制服がどこのものか特定できないほどに着崩されていて、化粧っ気は薄いが目鼻立ちの整った顔だ。金色のミディアムボブを靡かせたその姿に、お世辞抜きに可愛いと思った。多分、言われ慣れているタイプだ。ああ、既に住んでいる世界が違う。
「大丈夫? ごめんね、演奏しながらちょっと調子乗ってたら靴がすっぽ抜けて、たまたま開いてた窓からゴーイングマイウェイしちゃって……」
なんたるピタゴラスイッチ。
とんだ偶然である。
困ったな。先ほどまでの被害妄想が馬鹿みたいである。
「あ、その……気にしないでください。こんな陽キャの聖地みたいなビルの前で分不相応な陰キャの私が立ち止まった罰が当たっただけだと思いますので……」
「罰が……? っていうかどうしたのそんな早口で。やっぱりどこか怪我したんじゃ」
「ああああ、気にしないでください出過ぎた真似を」
ダメそうだ。何かしゃべったらすべてが裏目りそうな気配がする。
こういう時は、逃げ一択である。
「ともかく私は大丈夫ですので、これで失礼しま──」
目も合わせずに逃げおおせようとしたのに、私の身体はピクリとも動こうとしない。
「待って待って待って、流石に行かせらんないよ!」
それもそのはず。このキラキラ女子高生が、逃げようとする地味地味女子高生の私の腕を掴んで、器用にスニーカーが残っている片足だけでがっしり踏ん張っているからである。
いくら私が非力な方とはいえ、音楽の才のみならず、こんなに力も強いとは。ちくしょう、文武両道完璧女子高生め!
「お詫びくらいはさせて! ね?」
満身の力で私の腕を掴んでいるというのに、それを感じさせない様子で上目遣いにこちらの顔を覗き込んでくるのだから、もう断る術はない。
自覚しているかどうかは別として、この人は自分が可愛いことを理解している。
「今日以外でお願いします!」
「今日以外でいつ再会するの!」
関わりたくないと暗に言っているのが分からないのか!
攻防激しく、どうにか掴まれた腕を引っこ抜いたは良いものの、日陰者の体力的にはそれで限界が来た。肩で息をして、呼吸を整えるので精いっぱいだ。
首だけ動かしてどうにか凄んでみるが、呼吸一つ乱していない彼女はおろおろと先ほどまでと変わらない困り顔を向けてくる。
そう思った矢先、彼女が何かに気が付いたように私の首筋辺りを指差して言った。
「それ、『アーミー・レーション』の曲?」
まず、何を言っているのか分からなかった。
次いで、彼女が指差しているのが自分の首から胸元まで垂れ下がった有線イヤホンであることに気づいた。
そして最後に、彼女の言った『アーミー・レーション』が、私が先ほどまで聞いていた曲のバンドの名前であることを理解した。
「えと……、はい」
どう答えるべきか分からなくて、つい肯定してしまった。
スマホと繋がって、一時停止ボタンを押し忘れたまま弱々しい音で音楽を垂れ流す有線イヤホン。この音を雑踏の中で聞き分けるのはどういう能力なのだ。
そんなことを思っている間に、みるみる目の前の彼女がその瞳をキラキラと輝かせ始めるではないか。
「マジ!? 知ってる人いたんだ!」
今度は両の肩を強かに掴まれた。ちょっと痛い。
「なんで!?」
なんでって何だ!
「たまたま知っただけです! 自分みたいなのが聴いててごめんなさい!」
「そんなこと言ってないよ! 周りでアーミー・レーションを聞いてる人が居なさ過ぎて困ってたの! マジ嬉しい!」
私は今、あなたに困らされてますけど!?
「ていうか、この後暇? ちょっと語ろうよ、ロックについて!」
このギャルはコミュニケーションの順序というものを知らないのか!
こちらは、偶然とはいえ彼女に危害を加えられている立場なのだ。それを置いておいたとしても、そもそもどこの誰とも分からないギャルと二人きりで会話など出来る筈もない。下手なことを口走って、それを笑いものにされて社会的に殺されるのがオチというもの。
「遠慮します!」
なおもギャルの手は私の肩から離れない。そろそろ誰かこんなどうしようもない私を救ってほしい。
助けてください、マジで。
「おらぁ、奏! またお前か!」
ずいぶんと威勢のいい女性の声だった。反射的に肩が跳ねる。
声の方を見てみると、そこにはいかにもバンドマンといった感じの、身長が高く髪のインナーを青色に染めたサングラスの女性が貸しスタジオの入口に立っているではないか。
ああ、今度こそ私はおしまいです。今までありがとうございました。
「何度も言ったろ、窓を閉めろって言ってんだ! そろそろ出禁だぞ!」
「げ、オーナー」
どうやらその標的は私じゃなかったようだ。
恐らくこの貸しスタジオのオーナーらしき女性が、奏と呼ばれた私の肩を掴んで離さないギャルにずんずんと大股で近寄る。
「い、いつも気をつけてはいるんですけど、いつの間にかひとりでに開いてて……」
「四回目だ。ついでに言うとクレームは九件目だ」
そして、手の届く距離になるや否や、オーナーの手はギャルのポニーテールの付け根辺りを掴んで引き摺るようにして、貸しスタジオの方へと戻っていく。
「今日という今日は許さん。建てつけが悪いのは認めるが、その手間を惜しむやつに貸す防音室はない。ってかそれは防音室じゃない」
「いやあ! 許してぇ!」
ごもっともな理屈をオーナーに並べられ、傍から見れば事件性しか感じない悲鳴をあげるギャルは引き摺られて自動ドアの向こうへ消えていった。
「また会おうね」
「反省しろ!」
消える直前に私に向けて手を振る余裕があるということは、あのギャルは恐らく常習犯なのだろう。
オーナーの怒号と一緒に、二人の姿はついに見えなくなってしまった。
呆気に取られつつも、好機と見て私はその場から足早に退散する。
願わくは、二度と出会いませんように!
今に至るまで、輝かしい瞬間なんて、一度たりとも無かったと思う。
例えば、スポーツ。
体育の授業なんて、運動が出来ない人間にとっては拷問みたいなものだ。
もちろん、私は拷問される側。長距離走なんかで最後の方まで残って、みんなの見世物になるのは勘弁だけど、ギリギリそうなる直前に走りきるのも、それはそれで辛い。
例えば、勉強。
ちょっと頑張って、地元の県立高校に入ったのは良いとして、模試の順位表に自分の名前が載ったことは当然ない。
英語や国語とは絶縁してしまいたいくらいだ。
例えば、人間関係。
同じ穴の狢としか思えない、片手の指で数えられるくらいの友人。
お節介で口数の多い家族。
世間話もしない、挨拶はされたら返す程度のクラスメイト。
学校から帰るときは、いつでも一人。今日も今日とて、だ。
日陰者の私は、いつだって夕日に照らされた自分の靴ばかりを眺めている。
「はぁ……」
思わずため息が漏れる。
小中高と可もなく不可もなし、どちらかといえば不可寄りの人生だ。こんな私がセーラー服を着ていて良いのだろうか。
きっと、自分は何者にもなれずにこの人生を終えていくのだろうという、達観なのか諦めなのかも区別できない予感だけが心の中を渦巻いていた。
「でさぁ、そん時に彼女がね」
「百回聞いたわその話」
県の最南端に位置する場川高校は、県境の丘陵のせいで最寄駅までのアップダウンが激しい。
勾配が体感で80%はあるだろうという急坂を、転ばないようにゆっくりと下っていた。
十数歩離れた先のサッカー部の男子たち。ノリがよく分からなくて怖い。極力、関わりたいと思うタイプの人種ではない。
そもそも、全体的に下世話な話が多すぎる。下ネタか自慢話以外に話のネタはないのか。
視線は足元だが、耳から入ってくる情報は多い。
心の内で好き勝手に怒って嘆いたところで、別に彼らが騒ぐのを止めるわけではないから、諦めて、使い古された安物の有線イヤホンを両耳に突っ込んだ。
それから、スマホを取り出して音楽アプリを起動。
どの曲にしようか。流行りの音楽ばかりのオススメ欄は無視して、いつも聞いているプレイリストを慣れた手つきで呼び出した。
音楽は良い。
弾こうと思ったことは一度もないが、現実のことを忘れて、別のことで頭をいっぱいに出来るから。我ながら不純な動機だ。誰が知っているんだと思ってしまうようなバンドの曲のサムネイルを指先でタップする。
両耳から流れ始めた歪んだギターとベースの音が凄く心地よい。
少し気が大きくなって、足早にサッカー部男子の集団を追い抜いて、駅までの帰路を急いだ。
改札を通り抜けて、さっさと家から一番近い駅を後にした。
夏は近づいているが、まだまだ日は短い方だ。東側の空は淡く紫に色づき、暗くなり始めている。
イヤホンは付けたまま、ロータリーを歩いていく。視線の先には、自分には用がない黄色の点字ブロックがあった。
「~♪」
好きな曲が流れて、いつの間にか鼻歌を口ずさんでいたらしい。
誰にも見られやしない、商店街へと抜けていく細い路地をようやっと視線を上げて歩いていく。足取りもなんだか軽くなって、上手に出来ないスキップも、テンションに任せて跳ねてしまう。
この一曲が終わるまで、私は自由だ。
意味も理由もない万能感に頭のてっぺんまで浸かりながら、私は曲の世界に浸った。
機械的に歪んだ叫ぶみたいなギターとベースが、ドラムの作った土台の上で暴れ回る曲。玉に瑕なのは、ボーカルがそんなに上手くないことだろうか。品評できるほど耳が肥えているわけではないけど。
最近の、踊れればいい流行りの曲なんかとは全く違う、一昔前に流行ったロックミュージックだ。どうして好きになったのかなんて覚えていないけど、兎にも角にも私はこの曲が好き。
ともすればうるさ過ぎるくらいのこの曲は、私じゃない私を想像させてくれる。
ただそれだけだった。
アウトロ最後の余韻が消えて、曲が終わってしまった。普段なら曲を巻き戻してしまうが、今日は違った。
イヤホンを外して、つい立ち止まった。
その建物の前で立ち止まったのは、ただの偶然だ。聞いたところによると、それは貸しスタジオのあるという雑居ビルだそうで、いつだってガラの悪そうな男の人達がその入り口でたむろしている。
そういうわけで、私はいつも、そのビルの前を早歩きで駆け抜ける。
でも、今日はそうしなかった。
入り口でたむろする男たちがいなかったから、というのは正しい理由じゃない。
ビルの前で立ち止まり、三階にある開いた窓を見上げていた。
その窓から、ギターの音が降り注いでいたからだ。
喧しい音だ。
機械的に歪み、アンプを通して大きな音で叫ぶように響いた音が、コンパクトにまとまったコンクリート製の建物全体をびりびりと揺らし、それでも飽き足らず、窓から飛び出しているように聞こえた。
その音色は元気すぎると言えば聞こえはいいが、とりあえず最初の感想はうるさい以外の何物でもない。
何処かで聞いた覚えのあるフレーズに聞こえて、しばらく思案してから、先ほどまでイヤホンで聞いていたバンドの、いちばん有名な曲のギターフレーズだと気づく。
「……知ってる人、いたんだ」
知っている人がいないわけじゃない。当然だ。
頭ではそうだと分かっていても、なんだか寂しいような気分になる。どちらかというと嫉妬とか、劣等感とか、そういうものに近いかもしれない。
得体のしれない、裏切られたような感覚。
誰も裏切ってなどいないが、どことなくそう感じてしまった。
「帰ろうかな」
誰が聞くでもない独り言を宣言のように呟いて、踵を返そうとした。
その時。
「あっ!」
遠くから誰かが叫ぶ声がした。先ほどまで響いていた意味のある音色が途切れて、スピーカーノイズだけがその場に残る。
反射的に、先ほどと同じ窓を見上げた。
なんだろうか、何かが迫ってきていることが分かる。私の顔に黒い影が落ちて、それがだんだん近づいてきているのだ。
咄嗟に目を閉じて、下を向いた。
同時に、私の頭に強い衝撃が加わる。
「いっ……!」
あまりに唐突過ぎる痛みに声も出せなかった。
頭のてっぺんほどがじんじんとするが痛みはさほど強くない。どちらかというと、あまりに唐突な出来事に対する驚きで、頭を両手で押さえてうずくまってしまった。
何が起きたのだろう。
何かが降って来て、私の頭にダイレクトヒットしたのだ。多分。
ほら、その証拠にうずくまった私の目の前に誰のか分からないスニーカーが落ちているではないか。
意識してみれば、意外とぶつかった部分は痛い気がする。こぶくらいは出来てしまうかもしれない。
いったい何処から、このスニーカーは飛んできたのだ。
私は誰かに闇討ちされるほど人からひんしゅくを買っていただろうか。
それとも、地味すぎていじめても良い奴だと思われたのか。だとしたら私が悪いかもしれない。
ぐるぐると回る頭の中に、女の子の声が入り込んできた。
「ごめーん! 大丈夫ですかー!」
ずいぶんと可愛らしい、鳥が鳴くように高い声が上の方から聞こえてきた。どこかで聞いた覚えもあるし、もしかすると本当に恨まれているのかもしれない。
そう思ったら、うずくまったまま動けなくなってしまった。
ああ、地味に生まれて地味に生きていてすみません。これでも他人に迷惑をかけないように生きているつもりなんです。
「ちょ、ちょっと待っててね!」
トドメを刺されると直感した。
お父さん、お母さん、ごめんなさい。あなた達の娘は今から殴られ蹴られ、ついには死んでしまうかもしれません。地味で出来の悪い娘でごめんなさい。その出来の悪さゆえに私は今から殺されてしまうでしょう。
悪い考えがぐるぐる渦巻いて、走馬灯まがいの物が見えてくる。
今朝がた、昇降口の簀子でこけた記憶、クラスの一軍男子に声をかけられて困った挙句にどもった記憶、古典の授業で助動詞の活用形を上手く答えられなかった記憶。
地味で最悪な思い出ばかりだ。というか、碌な思い出がない。キラキラした女子高生とは程遠い人生でした。もういっそ殺してください。恥の多すぎる生涯です。
「えと、あ、居た! ごめんねえ、大丈夫!?」
うずくまったままだった自分の肩を、誰かが叩いた。
いったいどこの誰がこんな自分に優しくしてくれると言うのだろう。どうか放っておいてください、私は今からアスファルトの染みの一つになるのです。
「アスファルトの染みに……?」
どうやら口から漏れ出ていたらしい。
恥ずかしさのあまり、パッと顔を上げてみればそこに居たのはキラキラの女子高生。
白のブラウスに自前のパーカーなどで制服がどこのものか特定できないほどに着崩されていて、化粧っ気は薄いが目鼻立ちの整った顔だ。金色のミディアムボブを靡かせたその姿に、お世辞抜きに可愛いと思った。多分、言われ慣れているタイプだ。ああ、既に住んでいる世界が違う。
「大丈夫? ごめんね、演奏しながらちょっと調子乗ってたら靴がすっぽ抜けて、たまたま開いてた窓からゴーイングマイウェイしちゃって……」
なんたるピタゴラスイッチ。
とんだ偶然である。
困ったな。先ほどまでの被害妄想が馬鹿みたいである。
「あ、その……気にしないでください。こんな陽キャの聖地みたいなビルの前で分不相応な陰キャの私が立ち止まった罰が当たっただけだと思いますので……」
「罰が……? っていうかどうしたのそんな早口で。やっぱりどこか怪我したんじゃ」
「ああああ、気にしないでください出過ぎた真似を」
ダメそうだ。何かしゃべったらすべてが裏目りそうな気配がする。
こういう時は、逃げ一択である。
「ともかく私は大丈夫ですので、これで失礼しま──」
目も合わせずに逃げおおせようとしたのに、私の身体はピクリとも動こうとしない。
「待って待って待って、流石に行かせらんないよ!」
それもそのはず。このキラキラ女子高生が、逃げようとする地味地味女子高生の私の腕を掴んで、器用にスニーカーが残っている片足だけでがっしり踏ん張っているからである。
いくら私が非力な方とはいえ、音楽の才のみならず、こんなに力も強いとは。ちくしょう、文武両道完璧女子高生め!
「お詫びくらいはさせて! ね?」
満身の力で私の腕を掴んでいるというのに、それを感じさせない様子で上目遣いにこちらの顔を覗き込んでくるのだから、もう断る術はない。
自覚しているかどうかは別として、この人は自分が可愛いことを理解している。
「今日以外でお願いします!」
「今日以外でいつ再会するの!」
関わりたくないと暗に言っているのが分からないのか!
攻防激しく、どうにか掴まれた腕を引っこ抜いたは良いものの、日陰者の体力的にはそれで限界が来た。肩で息をして、呼吸を整えるので精いっぱいだ。
首だけ動かしてどうにか凄んでみるが、呼吸一つ乱していない彼女はおろおろと先ほどまでと変わらない困り顔を向けてくる。
そう思った矢先、彼女が何かに気が付いたように私の首筋辺りを指差して言った。
「それ、『アーミー・レーション』の曲?」
まず、何を言っているのか分からなかった。
次いで、彼女が指差しているのが自分の首から胸元まで垂れ下がった有線イヤホンであることに気づいた。
そして最後に、彼女の言った『アーミー・レーション』が、私が先ほどまで聞いていた曲のバンドの名前であることを理解した。
「えと……、はい」
どう答えるべきか分からなくて、つい肯定してしまった。
スマホと繋がって、一時停止ボタンを押し忘れたまま弱々しい音で音楽を垂れ流す有線イヤホン。この音を雑踏の中で聞き分けるのはどういう能力なのだ。
そんなことを思っている間に、みるみる目の前の彼女がその瞳をキラキラと輝かせ始めるではないか。
「マジ!? 知ってる人いたんだ!」
今度は両の肩を強かに掴まれた。ちょっと痛い。
「なんで!?」
なんでって何だ!
「たまたま知っただけです! 自分みたいなのが聴いててごめんなさい!」
「そんなこと言ってないよ! 周りでアーミー・レーションを聞いてる人が居なさ過ぎて困ってたの! マジ嬉しい!」
私は今、あなたに困らされてますけど!?
「ていうか、この後暇? ちょっと語ろうよ、ロックについて!」
このギャルはコミュニケーションの順序というものを知らないのか!
こちらは、偶然とはいえ彼女に危害を加えられている立場なのだ。それを置いておいたとしても、そもそもどこの誰とも分からないギャルと二人きりで会話など出来る筈もない。下手なことを口走って、それを笑いものにされて社会的に殺されるのがオチというもの。
「遠慮します!」
なおもギャルの手は私の肩から離れない。そろそろ誰かこんなどうしようもない私を救ってほしい。
助けてください、マジで。
「おらぁ、奏! またお前か!」
ずいぶんと威勢のいい女性の声だった。反射的に肩が跳ねる。
声の方を見てみると、そこにはいかにもバンドマンといった感じの、身長が高く髪のインナーを青色に染めたサングラスの女性が貸しスタジオの入口に立っているではないか。
ああ、今度こそ私はおしまいです。今までありがとうございました。
「何度も言ったろ、窓を閉めろって言ってんだ! そろそろ出禁だぞ!」
「げ、オーナー」
どうやらその標的は私じゃなかったようだ。
恐らくこの貸しスタジオのオーナーらしき女性が、奏と呼ばれた私の肩を掴んで離さないギャルにずんずんと大股で近寄る。
「い、いつも気をつけてはいるんですけど、いつの間にかひとりでに開いてて……」
「四回目だ。ついでに言うとクレームは九件目だ」
そして、手の届く距離になるや否や、オーナーの手はギャルのポニーテールの付け根辺りを掴んで引き摺るようにして、貸しスタジオの方へと戻っていく。
「今日という今日は許さん。建てつけが悪いのは認めるが、その手間を惜しむやつに貸す防音室はない。ってかそれは防音室じゃない」
「いやあ! 許してぇ!」
ごもっともな理屈をオーナーに並べられ、傍から見れば事件性しか感じない悲鳴をあげるギャルは引き摺られて自動ドアの向こうへ消えていった。
「また会おうね」
「反省しろ!」
消える直前に私に向けて手を振る余裕があるということは、あのギャルは恐らく常習犯なのだろう。
オーナーの怒号と一緒に、二人の姿はついに見えなくなってしまった。
呆気に取られつつも、好機と見て私はその場から足早に退散する。
願わくは、二度と出会いませんように!
