衝撃的なサウンドだった。
大きな音だったが、決して喧しいわけではない。
リバーブでフィードバックされた音に音が重なる。また重なる。まだ重なる。
ファズで歪んだ音の粒が戻って来ては重なる。重なる。重なる。
歪んで輪郭の潰れた音の一粒一粒が幾重にも重なって、巨大な音の塊になっていく。
粗削りの音の塊はまた歪んで潰れて、ダマスカス鋼のようなうねり模様を描く制御不能な水流にも似た奔流になっていた。その激流に流され、その渦に呑まれ、私はその真ん中で。
もはや暴力的としか形容できない。
凄まじい音圧のギターとベースのサウンド。喰らいつくドラムスの力強い重低音。
そして、消え入るようにか細いボーカル。
巨大な一つとなった音の中でも、そのボーカルは囁くようでありながらどこか高潔で、正しいのだと逆説的に叫んでいるようにも聞こえる。
私は渦のその真ん中で、濁流となったサウンドの中、たった一本の絹糸にしがみつく。
流されながら、吞まれながら、私はもがきもしない。
頭の中で小さな火花が、星が瞬く。脳がそのまま揺さぶられているかのようだ。
ヘッドフォンのスピーカー、その中にある永久磁石が、この私を惹きつけて離さない。私自身が磁石になってしまったかのように。
私はその真ん中で、呼吸した。
音の濁流の真ん中で、大きな大きな塊となった音の真ん中で私は、呼吸をした。
鼻を抜ける嗅ぎ慣れたはずの自分の家の匂いは、この曲に触れたら灼けてしまうと私は信じて疑わない。
いつの間にかいた汗も、血管を伝う血潮も、なにもかも。
音だ。
音が重さを持った。
音が重力を得た。
音が質量を持った。
それこそが音なのだ。
私は呼吸した。音を呼吸した。音に触れた。音を見た。音はなだらかで、決して冷ややかではない。
これこそが、音なのだ。
そうだ。これが音なんだ。
ぱちぱちと弾けた火花が、音なんだ。
白飛びする視界に映った、いつものベッドも、物が散乱した勉強机も、ギターケースから出されてスタンドに置かれたジャズマスターも、部屋の壁にもたれかかったエフェクターボード入りのハードケースも、無機質な蛍光灯も、窓の外の夕焼けも、何もかもが網膜に音で焼きつく。
不定形のそれは掴むことは叶わない。だが、触れれば燃えていることは分かる。
音が燃えている。熱そのものになって、体の中で暴れている。
音は、巨大な渦そのものなんだ。潰れたはずの音は、一つ一つが脳の内側で形を取り戻して私を攫っていく。
渦の一つになって、巨大な音に希釈されて、有象無象のうねりの一つになって、波そのものになって、なだらかにざらついたそれになって。
私も。
音も。
私は、音になったんだ。
音が、私になったんだ。
音が、音になった。
「どうだった、姉ちゃん」
耳鳴りでしばらく放心していた私からヘッドフォンを外した一の肩を、思い切り掴んだ。
「なに、これ!」
「え、だからシューゲイザーだよ。juninzakaってバンド」
困惑しきっている一を気にせずに、私は弟の肩を揺らし続けて問う。
「なに、シューゲイザーって!」
「あえ、姉ちゃ、離して、ぐらぐら揺れてきもちわる」
「私、知らない! こんな音! なにこれ!」
「やめ、吐きそ……」
肩から手を離した途端、一はぜーはーと呼吸を努めて必死に整えた。
悪いことをしてしまったと思うが、とんでもないことをしでかしたのは私ではなく一だ。
「一。この曲、どうなってんの? なんか、ぶわーって広がってるのにでっかい音がするし」
「言語化レベル低すぎでしょ……」
口元をジャージの袖で拭った一は、先ほどまでヘッドフォンに繋がっていたスマホを数度タップ操作をして、画面をこちらに見せてくれる。
「シューゲイザー。ディレイとリバーブ、それからファズとかオーバードライブとか、要は空間系と歪み系のエフェクターを使って音を歪ませまくって重ねるっていうオルタナの一種だよ。発祥はイギリスだったかな?」
「シューゲイザーって、どういう意味?」
シューゲイザーについての説明が載ったサイトがスマホには映っていた。
参考画像には、ギターを構えながら俯いている人。この音楽の正体が気になってしょうがなかった。
「えっとね、シューゲイザーってめっちゃいっぱいエフェクター使うんだよ。だから、演奏中も常にエフェクターボードを眺めてる姿が靴を見つめているようだってことから、『靴を見つめる人』って名前が付いたらしい」
靴を見つめる人。
だから俯いていたのか。
「……シュー、ゲイザー。シューゲイザー。うん。そっか。なるほど」
ほとんど無意識に、出会ったばかりの音楽の名を呼び続けていた。口から漏れ出た言葉に一がちょっと引いている。
「……姉ちゃん。マジでどうしたの?」
「あのね、一」
いまだ散らばったままの試行や言葉の断片を寄せ集めて、愛しの弟に渡す言葉を考えた。
年頃の男の子に何と言えばいいか、私は知らない。なら。
「ありがと。この曲と出会わせてくれて」
素直に、礼を言うべきかもしれない。そう思った。
私は、生まれて初めて、こんな経験をした。そのきっかけをくれた弟には真っ直ぐにお礼をしようと思ったのだ。
一は酷く驚いたようで、しばらくは口を開いては閉じて、開いては閉じてを繰り返し、ぱくぱくと水面で餌を求める鯉のようにも見えた。
「誰が鯉だよ」
まずい。口から思考が零れている。
あたふたしてしまう私の様子を見て一は、もしかすると随分と久々に、柔らかく微笑んだ。
「もう、姉ちゃんてば」
そういえば、こういう風に笑う子だった、なんて思ってしまった。
「あのねえ、姉ちゃんは忘れてるかもしれないけど、お礼を言わなきゃいけないのは俺の方なんだよ」
「……へぁ?」
びっくりした。
いつもは悪態しかつかないこの一という憎たらしくて愛らしくて憎たらしいこの男が、私の眼をその切れ長な目で実に優しそうに笑いかけてくれるからだ。
「俺がギター始めたの、姉ちゃんがきっかけなんだよ?」
「噓つかないで。おだてたってチョコアイスくらいしか出ないよ」
「嘘じゃないし、チョコアイスは貰う」
お風呂上がりに食べようと取っておいたチョコアイスは私のものじゃなくなってしまった。
「小六の時、姉ちゃんがさ、俺にアーミー・レーションの『ウィル・ユー・ゲット・アラウンド・トゥ』を聞かせてくれたっしょ。あれでびっくりしちゃって、ギターやりてぇってなったんだよ」
古い記憶を必死に掘り起こす。
確かに、そんなことをした覚えがある。覚えはある、のだが……。
「……あの時の一、だいぶ興味なさげだったけど」
「そりゃあんなに詳しい感想を寝起きの小学生に求めたって無駄っしょ」
ああ、思い出した。
古いウォークマンとカセットテープを父親に譲ってもらって、それでアーミー・レーションを聞くのにハマっていた頃だ。僻み半分、羨ましさ半分の眼差しで曲を聞かせろと暴れた一を黙らせるために一度、一晩だけウォークマンと一番のお気に入りだったカセットを貸して聴かせたことがある。
翌日、起きてからすぐに一の部屋を訪ねて、一言の感想とウォークマンをひったくった記憶がある。
「……あ、あの時のカセット、もしかして一が持ってるの? 失くしたと思ってた」
「うん。ちょっと待ってね」
そう言って立ち上がった一が、私の部屋の戸を開けて外に出て、十秒もしないうちに帰ってきた。
「ほら」
「速っ」
その手には、アーミー・レーションの『ウィル・ユー・ゲット・アラウンド・トゥ』が収められたカセットが、記憶よりもかなり色褪せているが確かに握られていた。
反対の手には、見たことの無い手のひらサイズの機械。形状自体は見たことがあるが、この家の中で見た覚えは殆どない。
「これ、ウォークマン。小遣い貯めて買ったんだ。中古だけどね」
「えっ!?」
なんと。
私は父から譲ってもらったウォークマンはカオスな部屋の中のどこかに埋もれて消えてしまったものと思い、そのまま無かったものとして扱っていたというのに。
「カセットって凄くてさ。CDすら廃れ始めた今、サブスクでも動画サイトだと分かんないとこがカセットだと分かるんだ。綺麗すぎないというか」
「そんなこと考えたことなかったな。本当に分かってんの?」
「ディストーションのつまみを2ミリ動かすか否かに迷ってた姉ちゃんに言われたくない」
痛いところを突かれた。
「……まあ、本当のところは分かんない。素人の耳で分かるほどの違いは正直ないと思う」
いやに素直だ。
私からチョコアイスを奪えたことがそんなに嬉しいのだろうか。
「でも音楽って何を聞くか、何を弾くかも大事だけど、どう聞くか、どう弾くかも馬鹿に出来ないんだと思う。ほら、ご飯だって何を食べるかより誰と食べるかが大事って言うじゃん。俺にとって最高の聴き方はカセットだったってことだよ」
「一のくせに頭良さそうなこと言ってる」
「俺が姉ちゃんを殴るほどの根っからのロックンローラーじゃなくて良かったね」
何を弾くか。何を聞くか。
どう弾くか。どう聞くか。
「私より立派に音楽と向き合えてるね、一は」
二つしか変わらない。されど、二つも違うのだ。
まして、一が音楽を始めたきっかけは私だったらしい。
姉としての威厳、なんてものをひけらかそうと思ったことはさほど多いわけではなかったし、そこにプライドを持っていたわけでもない。だが、なんだかその辺を踏み躙られた気分だ。
他でもない、私自身に。
「姉ちゃんってさ、前から思ってたけど考え事のスタート地点が変なんだよ」
一が呆れたように語り始めた。
「それは、あれだよ。姉ちゃんとは状況が違うから。俺は一人でギターを弾いてるだけで良いタイプだけど、姉ちゃんにはバンドがある。だから、同じ尺度じゃ測れない。俺は一人だから自分のやりたい音楽がそのままできる。でも、バンドはそうじゃない」
中身の入っていないウォークマンのスイッチをカチャカチャと手持ち無沙汰に弄る一が、なんとはなしに語り続ける。
「だからまあ、姉ちゃんは別に音楽と向き合えてないわけじゃないと思う。本当にやりたい曲とか、やりたい方法とか、やりたいこと、そういうのに出会えてないだけだと思うよ」
「やりたい、こと……」
中学生の弟に説かれることではないな、とは思った。ただ、一は一なりに考えていたんだとも思った。
そういう意味ではやはり、一は立派だ。
「一は偉いね。頭を撫でてやろう」
「マジで勘弁して」
必要なものだけ持って、一はさっさと部屋から出て行ってしまった。
せっかく撫でてあげようと思ったのに。
また、一人になった部屋の中で、今度こそジャズマスターを見た。それから、エフェクターボードの入ったハードケースを見た。
俯きながら鳴らす音楽。
俯きながらでも、出来ること。
靴を眺め続けた私の人生で、初めてやれること。
いや、やりたいこと。
「えっと、ファズとリバーブと、ディレイ、オーバードライブ、だっけ」
ハードケースから引っ張り出したエフェクターボード、チューナーに繋がったケーブルを引き抜いた。
大きな音だったが、決して喧しいわけではない。
リバーブでフィードバックされた音に音が重なる。また重なる。まだ重なる。
ファズで歪んだ音の粒が戻って来ては重なる。重なる。重なる。
歪んで輪郭の潰れた音の一粒一粒が幾重にも重なって、巨大な音の塊になっていく。
粗削りの音の塊はまた歪んで潰れて、ダマスカス鋼のようなうねり模様を描く制御不能な水流にも似た奔流になっていた。その激流に流され、その渦に呑まれ、私はその真ん中で。
もはや暴力的としか形容できない。
凄まじい音圧のギターとベースのサウンド。喰らいつくドラムスの力強い重低音。
そして、消え入るようにか細いボーカル。
巨大な一つとなった音の中でも、そのボーカルは囁くようでありながらどこか高潔で、正しいのだと逆説的に叫んでいるようにも聞こえる。
私は渦のその真ん中で、濁流となったサウンドの中、たった一本の絹糸にしがみつく。
流されながら、吞まれながら、私はもがきもしない。
頭の中で小さな火花が、星が瞬く。脳がそのまま揺さぶられているかのようだ。
ヘッドフォンのスピーカー、その中にある永久磁石が、この私を惹きつけて離さない。私自身が磁石になってしまったかのように。
私はその真ん中で、呼吸した。
音の濁流の真ん中で、大きな大きな塊となった音の真ん中で私は、呼吸をした。
鼻を抜ける嗅ぎ慣れたはずの自分の家の匂いは、この曲に触れたら灼けてしまうと私は信じて疑わない。
いつの間にかいた汗も、血管を伝う血潮も、なにもかも。
音だ。
音が重さを持った。
音が重力を得た。
音が質量を持った。
それこそが音なのだ。
私は呼吸した。音を呼吸した。音に触れた。音を見た。音はなだらかで、決して冷ややかではない。
これこそが、音なのだ。
そうだ。これが音なんだ。
ぱちぱちと弾けた火花が、音なんだ。
白飛びする視界に映った、いつものベッドも、物が散乱した勉強机も、ギターケースから出されてスタンドに置かれたジャズマスターも、部屋の壁にもたれかかったエフェクターボード入りのハードケースも、無機質な蛍光灯も、窓の外の夕焼けも、何もかもが網膜に音で焼きつく。
不定形のそれは掴むことは叶わない。だが、触れれば燃えていることは分かる。
音が燃えている。熱そのものになって、体の中で暴れている。
音は、巨大な渦そのものなんだ。潰れたはずの音は、一つ一つが脳の内側で形を取り戻して私を攫っていく。
渦の一つになって、巨大な音に希釈されて、有象無象のうねりの一つになって、波そのものになって、なだらかにざらついたそれになって。
私も。
音も。
私は、音になったんだ。
音が、私になったんだ。
音が、音になった。
「どうだった、姉ちゃん」
耳鳴りでしばらく放心していた私からヘッドフォンを外した一の肩を、思い切り掴んだ。
「なに、これ!」
「え、だからシューゲイザーだよ。juninzakaってバンド」
困惑しきっている一を気にせずに、私は弟の肩を揺らし続けて問う。
「なに、シューゲイザーって!」
「あえ、姉ちゃ、離して、ぐらぐら揺れてきもちわる」
「私、知らない! こんな音! なにこれ!」
「やめ、吐きそ……」
肩から手を離した途端、一はぜーはーと呼吸を努めて必死に整えた。
悪いことをしてしまったと思うが、とんでもないことをしでかしたのは私ではなく一だ。
「一。この曲、どうなってんの? なんか、ぶわーって広がってるのにでっかい音がするし」
「言語化レベル低すぎでしょ……」
口元をジャージの袖で拭った一は、先ほどまでヘッドフォンに繋がっていたスマホを数度タップ操作をして、画面をこちらに見せてくれる。
「シューゲイザー。ディレイとリバーブ、それからファズとかオーバードライブとか、要は空間系と歪み系のエフェクターを使って音を歪ませまくって重ねるっていうオルタナの一種だよ。発祥はイギリスだったかな?」
「シューゲイザーって、どういう意味?」
シューゲイザーについての説明が載ったサイトがスマホには映っていた。
参考画像には、ギターを構えながら俯いている人。この音楽の正体が気になってしょうがなかった。
「えっとね、シューゲイザーってめっちゃいっぱいエフェクター使うんだよ。だから、演奏中も常にエフェクターボードを眺めてる姿が靴を見つめているようだってことから、『靴を見つめる人』って名前が付いたらしい」
靴を見つめる人。
だから俯いていたのか。
「……シュー、ゲイザー。シューゲイザー。うん。そっか。なるほど」
ほとんど無意識に、出会ったばかりの音楽の名を呼び続けていた。口から漏れ出た言葉に一がちょっと引いている。
「……姉ちゃん。マジでどうしたの?」
「あのね、一」
いまだ散らばったままの試行や言葉の断片を寄せ集めて、愛しの弟に渡す言葉を考えた。
年頃の男の子に何と言えばいいか、私は知らない。なら。
「ありがと。この曲と出会わせてくれて」
素直に、礼を言うべきかもしれない。そう思った。
私は、生まれて初めて、こんな経験をした。そのきっかけをくれた弟には真っ直ぐにお礼をしようと思ったのだ。
一は酷く驚いたようで、しばらくは口を開いては閉じて、開いては閉じてを繰り返し、ぱくぱくと水面で餌を求める鯉のようにも見えた。
「誰が鯉だよ」
まずい。口から思考が零れている。
あたふたしてしまう私の様子を見て一は、もしかすると随分と久々に、柔らかく微笑んだ。
「もう、姉ちゃんてば」
そういえば、こういう風に笑う子だった、なんて思ってしまった。
「あのねえ、姉ちゃんは忘れてるかもしれないけど、お礼を言わなきゃいけないのは俺の方なんだよ」
「……へぁ?」
びっくりした。
いつもは悪態しかつかないこの一という憎たらしくて愛らしくて憎たらしいこの男が、私の眼をその切れ長な目で実に優しそうに笑いかけてくれるからだ。
「俺がギター始めたの、姉ちゃんがきっかけなんだよ?」
「噓つかないで。おだてたってチョコアイスくらいしか出ないよ」
「嘘じゃないし、チョコアイスは貰う」
お風呂上がりに食べようと取っておいたチョコアイスは私のものじゃなくなってしまった。
「小六の時、姉ちゃんがさ、俺にアーミー・レーションの『ウィル・ユー・ゲット・アラウンド・トゥ』を聞かせてくれたっしょ。あれでびっくりしちゃって、ギターやりてぇってなったんだよ」
古い記憶を必死に掘り起こす。
確かに、そんなことをした覚えがある。覚えはある、のだが……。
「……あの時の一、だいぶ興味なさげだったけど」
「そりゃあんなに詳しい感想を寝起きの小学生に求めたって無駄っしょ」
ああ、思い出した。
古いウォークマンとカセットテープを父親に譲ってもらって、それでアーミー・レーションを聞くのにハマっていた頃だ。僻み半分、羨ましさ半分の眼差しで曲を聞かせろと暴れた一を黙らせるために一度、一晩だけウォークマンと一番のお気に入りだったカセットを貸して聴かせたことがある。
翌日、起きてからすぐに一の部屋を訪ねて、一言の感想とウォークマンをひったくった記憶がある。
「……あ、あの時のカセット、もしかして一が持ってるの? 失くしたと思ってた」
「うん。ちょっと待ってね」
そう言って立ち上がった一が、私の部屋の戸を開けて外に出て、十秒もしないうちに帰ってきた。
「ほら」
「速っ」
その手には、アーミー・レーションの『ウィル・ユー・ゲット・アラウンド・トゥ』が収められたカセットが、記憶よりもかなり色褪せているが確かに握られていた。
反対の手には、見たことの無い手のひらサイズの機械。形状自体は見たことがあるが、この家の中で見た覚えは殆どない。
「これ、ウォークマン。小遣い貯めて買ったんだ。中古だけどね」
「えっ!?」
なんと。
私は父から譲ってもらったウォークマンはカオスな部屋の中のどこかに埋もれて消えてしまったものと思い、そのまま無かったものとして扱っていたというのに。
「カセットって凄くてさ。CDすら廃れ始めた今、サブスクでも動画サイトだと分かんないとこがカセットだと分かるんだ。綺麗すぎないというか」
「そんなこと考えたことなかったな。本当に分かってんの?」
「ディストーションのつまみを2ミリ動かすか否かに迷ってた姉ちゃんに言われたくない」
痛いところを突かれた。
「……まあ、本当のところは分かんない。素人の耳で分かるほどの違いは正直ないと思う」
いやに素直だ。
私からチョコアイスを奪えたことがそんなに嬉しいのだろうか。
「でも音楽って何を聞くか、何を弾くかも大事だけど、どう聞くか、どう弾くかも馬鹿に出来ないんだと思う。ほら、ご飯だって何を食べるかより誰と食べるかが大事って言うじゃん。俺にとって最高の聴き方はカセットだったってことだよ」
「一のくせに頭良さそうなこと言ってる」
「俺が姉ちゃんを殴るほどの根っからのロックンローラーじゃなくて良かったね」
何を弾くか。何を聞くか。
どう弾くか。どう聞くか。
「私より立派に音楽と向き合えてるね、一は」
二つしか変わらない。されど、二つも違うのだ。
まして、一が音楽を始めたきっかけは私だったらしい。
姉としての威厳、なんてものをひけらかそうと思ったことはさほど多いわけではなかったし、そこにプライドを持っていたわけでもない。だが、なんだかその辺を踏み躙られた気分だ。
他でもない、私自身に。
「姉ちゃんってさ、前から思ってたけど考え事のスタート地点が変なんだよ」
一が呆れたように語り始めた。
「それは、あれだよ。姉ちゃんとは状況が違うから。俺は一人でギターを弾いてるだけで良いタイプだけど、姉ちゃんにはバンドがある。だから、同じ尺度じゃ測れない。俺は一人だから自分のやりたい音楽がそのままできる。でも、バンドはそうじゃない」
中身の入っていないウォークマンのスイッチをカチャカチャと手持ち無沙汰に弄る一が、なんとはなしに語り続ける。
「だからまあ、姉ちゃんは別に音楽と向き合えてないわけじゃないと思う。本当にやりたい曲とか、やりたい方法とか、やりたいこと、そういうのに出会えてないだけだと思うよ」
「やりたい、こと……」
中学生の弟に説かれることではないな、とは思った。ただ、一は一なりに考えていたんだとも思った。
そういう意味ではやはり、一は立派だ。
「一は偉いね。頭を撫でてやろう」
「マジで勘弁して」
必要なものだけ持って、一はさっさと部屋から出て行ってしまった。
せっかく撫でてあげようと思ったのに。
また、一人になった部屋の中で、今度こそジャズマスターを見た。それから、エフェクターボードの入ったハードケースを見た。
俯きながら鳴らす音楽。
俯きながらでも、出来ること。
靴を眺め続けた私の人生で、初めてやれること。
いや、やりたいこと。
「えっと、ファズとリバーブと、ディレイ、オーバードライブ、だっけ」
ハードケースから引っ張り出したエフェクターボード、チューナーに繋がったケーブルを引き抜いた。
