シューゲイザーズ

 あの文化祭のライブから、実に18時間ほどしか経っていなかった。
 今日は文化祭片付けのための自由登校日。授業は一時間もないので、私の通学用バッグにはほとんど物が入っていなかった。
 そういう物理的な意味でも、少し軽い足取りで私は学校への道を歩んでいられた。だから、その日の登校には音楽は必要なく、イヤホンはつけずにいた。音楽に頼る必要なんてどこにもなかったからだ。
 昨日のライブは大成功を収めた、と言って過言ではなかったと思う。
 終わった後には、メンバーに褒められ、篠田に褒められ、家に帰っても一(はじめ)に褒められたのだから、少なくとも私の手の届く範囲では成功したと言えるだろう。
「……あれ、足立さんじゃない?」
「誰だっけ?」
「ほら、昨日、例の先輩と一緒に体育館ステージでバンドやってた人!」
 急勾配の坂を登り終え、学校の正門が見えてきたところだ。
 私の耳に噂話がちらほらと入ってきた。そうではなくとも、すれ違う場川(じょうせん)高校の制服を着た生徒にちらちらと見られていたのは分かる。
 ようやく、私にもキラキラな女子高校生としての生活を送る機会が巡ってきたのだと、そう思った。
 思ったのだが。
「昨日のバンドのギターじゃね」
「あのめっちゃ盛り上がってたやつ?」
 男子なのか女子なのか、その声はイヤホンをしていない私の耳にはそのまま届く。
 なんとなく居心地の悪さを感じている自分がいた。
 多分、全体から見ればすごく小さな話題なのだと思う。千人近い場川高校の生徒の中でも、昨日のライブを見ていたのは2割にも届かないはずで、その中でも私やペンディングのことを話題にする生徒の数というのは、ものすごく小さな割合だと思う。
 そもそも、私の話をしているのかどうかすら定かではないのだが。
 それでも、どこからともなく私の事のような話が聞こえてくるのが、どうにも落ち着かなくて。
 私は、歩調を早めて小走りで学校へと向かった。

「ねえねえ、足立さん!」
 教室に着くなり、私は呼び止められた。振り向けば、数人のキラキラお目目の女子高生。
 フォトスポットとして使われたため、教室自体はかなり殺風景だ。机や椅子、教卓なんかは近くの空き教室にその殆どが運ばれていたし、デコレーションなんかも、白い模造紙が壁に貼り付けられているだけの撮影場所の周囲だけだ。
 それだけ広いというのに、私と彼女らの距離は僅か30センチにも満たない近さであった。
「足立さんってギター弾けたんだね!」
「昨日の演奏めっちゃ良かったよ!」
「かっこよかった~!」
 クラスメイトであるこの子たちは、私を廊下側の壁の方へ追い詰めるように迫ってきた。狩りのやり方としては正しいかもしれない。
 目の前にいるのはあなた達とは釣り合わないただの根暗な地味地味女子高生なのですが?
 通学用のバッグを身体の前に持ってきて、距離を取った。
「ねえねえ、次のライブはいつやるの!?」
「やっぱ卒業記念祭は出るの? 楽しみ~!」
「あ、その、まだ決まってなくて……」
 それから、ちょっとずつ後ろに引いて逃げようとしているが、その倍の速度でこのクラスメイト達は迫ってくる。
「いつ決まるの?」
「やっぱライブハウスとかでもやってるの?」
「ギターはいつからやってるの?」
 質問攻めも良い所だ。
 ついには私は壁際に追いやられてしまう。困った、逃げられない。
 誰か助けてほしい。
「足立さんって、すごい人なのね!」
 何の話だ。
 呼吸が浅くなっているのを感じる。視界がぐるぐる回っている。知っている、酸欠の症状だ。
 まだ、距離が詰まる。
 来ないで。
「ちょっと、片付け手伝って!」
 誰かの声が聞こえて、私の周りにいた数人のキラキラ女子たちは不満げにどこかに散っていった。
「今日は朝も帰りもホームルームは無いらしいから、片付けが終わり次第帰っていいってさ。男子は机と椅子運んでもらって、女子は飾り付け剥がす仕事、よろしくね」
「はーい」
 どうやら声の主は、このクラスの実行委員である五十嵐だったようだ。彼女は教卓を運んでいたようで、いつもの定位置にそれを戻してから、手際よく教室にいる生徒たちに指示を出して片づけを始める。
 かくいう私は、先ほどまで追いつめられていた壁に背を預けて、バッグを抱えたまま座り込んでしまっていた。
 先程までの出来事で、呼吸が落ち着かない。
 私は何か大事を為しただろうか。私にはその自覚がない。
 数度の深呼吸。でもやっぱり、なんだか落ち着かなくて、バッグのファスナーを右手が入るだけ開いてイヤホンを探す。
 手探りでは見つからず、今度は大きくファスナーを開いて中身を見た。殺風景なバッグの中に入っていたのは、昨日から入れっぱなしだったピックケースに、薄手のカーディガン、財布に薄型のモバイルバッテリー、家から持ってきた水筒、筆箱とスマホだけ。
「……あれ」
 イヤホンはどこにもない。
 数年前に父から譲ってもらって以来、一度たりとも手放す日はなかった、あの有線イヤホンが無かった。
 恐らく、家に忘れてきただけだ。
 特別、大切というわけではない。父はいつだって、年に数度会ったときに私がこのイヤホンを使っているのを見る度、安物なのだから買い替えればいいと言うし、私も壊れていないから使っているだけだから。
 だけど、私と私以外を隔ててくれたのは、いつだってあのイヤホンだったから。
「足立さん?」
 唐突に降り注いだ声は、心配そうに私を見つめた五十嵐のものだ。
「どうかしたの?」
「あ……あの……いや、何も」
 イヤホンを探すのを諦めて、バッグのファスナーを閉めて答えた。
「あ、す、すみません。片付け……」
 私が急いで立ち上がろうとするのを、五十嵐はたしなめる。
「ああ、いいの。別に急いでるわけじゃないし」
「で、でも……」
「足立さんは昨日のステージ、すっごく頑張ってたから。私も見てたよ」
 五十嵐が柔らかく微笑んだ。
 厭らしさのない、完璧な笑み。
「感動しちゃった。私もケーブル・タイ、好きなんだよね」
 私は床に視線を落とした。
 視界がぐるぐる回る。座っている筈なのに、頭がくらくらする。
「すごいね、足立さ……」
「あ、あの!」
 五十嵐の話を途中で切って、私は立ち上がる。
 立ち眩みがする。鼻の奥がツンとして、喉のすぐそこまで酸っぱい何かが込み上げていた。
「ごめんなさい、体調が悪いので帰らせてください」
 五十嵐に深く頭を下げて、それだけ言った。
 顔を上げた時、五十嵐の顔にはほんの少し驚いたような色と、それ以上にすごく心配したような色が残っていた。
「……足立さん。顔色が凄く悪いから先に保健室とか……」
 五十嵐が言い終わる前に私は踵を返して、昇降口の方へ滑るように歩き始めていた。
 その完璧さが、その厭らしさの無さこそが、私にとっては毒なのだ。

 逃げ帰った家のドアは開いていた。
 時間は午前10時前。家を出たのは7時半を少し過ぎた頃だったから、家を空けていたのはたったの2時間半くらいだ。
「え、姉ちゃん!?」
 なぜかいる一(はじめ)がひどく動揺していた。そういえば、今日は中学が開校記念日だとか言っていたような。
 リビングのテレビを、ソファで寝転びながら見ていた一。お祖父ちゃんとお祖母ちゃんはどこかへ出かけると朝に言っていたから、家にはいなかった。
「めっちゃ早くない? っていうか、すげえ顔色悪いけど大丈夫?」
「……うん」
 私は、酷く心配そうな一(はじめ)の言葉に生返事を返してしまう。
 ただ事じゃないと察したらしい一が、テレビの電源を落としてソファを立ち上がって、私の方へ小走りに近づいてくる。
「ちょっ、体温計とか……!」
 一が追い縋るが、私は気にも留めずに自室のノブを掴んだ。
「待って、姉ちゃん!」
 私の空いた左手を掴んで、一は言った。
「どうかしたの? 体調悪いならすぐに祖母ちゃんに電話した方が……」
「大丈夫。体調が悪いわけじゃないから」
「流石に嘘だよ」
「大丈夫だってば。ちょっと疲れただけ」
 やんわり一(はじめ)の手を振りほどいて、そのまま部屋に入った。逃げるように。
 視界の先は、曇り空のせいでちょっと薄暗い部屋だ。
 いつもの私の部屋だ。
 ピックやシールド、なぜかあるカセットテープなどの雑多な物置にされてしまった勉強机、ギターを弾くとき以外はリュック掛けや上着掛けと化しているデスクチェア、畳んだまま仕舞われることを諦めた洗濯物の山。
 そして、スタンドに立ったままのギターとハードケースにしまわれたままのエフェクターボード。
 バッグを床に放って、制服の上着を脱いで、椅子に座る。勉強机の上に放り出されていた、コードの絡んだ有線イヤホンを見て、ようやく肺に溜まっていた空気が抜けていった。
 イヤホンを掴んで、複雑に絡んだコードを力任せにほどいて、それからベッドに倒れ込んだ。
 私は、何がしたかったのだろうか。
 ギターと出会う前の私は、何を望んでいたのだろうか。
 幾度となくこの部屋で迎えた朝。その度に、この見慣れた天井を見て何を思ったんだっけ。
 端から諦めていた青春が、今は私の手の中にある。
 他人に握らされたわけではない。私が掴んだ青春だ。
 本当に?
「わかんないな……」
 天井に言った。
 私は、そんな大それた人間じゃない。一人で何かを出来る人間じゃない。
 この、青春と名のついた何か(・・)は、私が自力で掴んだんじゃない。
 寝転がったまま、スタンドに立った白いジャズマスターを眺めた。ライブに備えて張り替えたエリクサーも、一度もまだ使っていないトレモロアームも、磨いたばかりの指板も、塗装が少し剥がれたボディも。
 何もかも、もはや見慣れた姿だ。
 私は、ギターと出会ってから変わっただろうか。
 変わっていないよ。
 変わっていないから辛いんじゃないか。
 音楽は、楽しいけど。
 音楽は、好きだけど。
 私は、私が嫌いなままだ。
 そのまま、私は目を閉じた。長い長い、ただの夢だったらいいな、なんて思いながら。

 それから、私は死人みたいな数日を過ごした。
 ご飯は何か食べただろうか。お祖母ちゃんが心配してくれて、ご飯の時間を教えてくれた覚えがあるから、多分何か食べたんだと思う。
 お風呂には入っただろうか。一(はじめ)が風呂が空いたと言ってくれた覚えがあるから、多分入ったんだと思う。
 歯は磨いただろうか。
 顔は洗っただろうか。
 服は着替えただろうか。
 私の身に染みたルーティンは、私にその気がなくとも私の身体を動かしてくれた。
 ギターの練習さえも。
 お祖父ちゃんが心配して、学校に数日の休みを連絡してくれたから、空っぽな私は空っぽのままでいられた。
 私は、多分、すごく幸福なんだと思う。
 家族は誰も、何も聞かなかった。お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも、一(はじめ)でさえも。私が頑張ったことだけは認めてくれて、現状については何も言わなかった。
 お祖母ちゃんなんて、幸は凄く頑張っていたからその反動が来てるだけ、と言ってくれた。
 そうなのかもしれない。
 違うのかもしれない。
 でも、少なくとも、そういう優しさに甘えて胡坐をかいているだけの自分が心底嫌いだ。
 学校を休んでから迎えた三度目の夕暮れを、自分の部屋の窓から見ながらそう思った。
「姉ちゃん?」
 私の部屋の扉がノックされた。
 それから、一(はじめ)がひょこりと顔を出した。
「今、大丈夫?」
「うん。ごめんね、心配かけて」
「そうだね。めっちゃ心配」
 わざとらしい声でそう言って、ジャージ姿の一(はじめ)は肩をすくめた。
 部屋に入ってきた一(はじめ)の態度はいつもと変わらなくて、部屋の隅に置かれた姿見に映った私の姿はいつもと変わらず猫背でギリギリ不健康そうな肌の白さをしている。
「ギターが分かるようになった姉ちゃんに、たまには俺のオススメの曲を聴いてもらおうと思って」
 そう言った一(はじめ)の手にはスマホと、それと繋がった有線のヘッドホンが握られていた。
 そういえば、一は練習になる曲というのはオススメしてくれたが、彼個人のオススメ曲というのを勧められた覚えはない。
「一がオススメする曲……デスメタルとか?」
「姉ちゃんの中の俺って何なの?」
 目を細めて懐疑の目を向けてくる一の視線が痛い。
「今から聴かせるのはシューゲイザーだよ」
 一が言って、ヘッドホンを差し出してくれる。
「シューゲイザー……?」
 初めて聴くジャンルだった。
「そ。ロックの一種だよ」
「へえ……」
 椅子や床に置かれたシールドなんかを足で退けながら、胡坐をかいて座る一(はじめ)。なんで椅子を退けるんだと思う私に、座れと目線だけで圧をかけてくる。
「最近、話題のインディーズバンドの曲。CD買ってスマホに落としてあるからさ、まあ遠慮せずに聞きなって」
「別に遠慮はしてないけど……」
 私も床に座りながら、一(はじめ)の説明を聴いていた。
「ほら、習うより慣れろって言うし」
「曲聞かされるだけだよね?」
 一(はじめ)が、にこりと無言で笑顔になった。
「……まあ聞いてみなって」
「怖い怖い」
「皆やってるから」
「怪しいよ!」
「良いから良いから」
 後退る私に、一(はじめ)は問答無用でヘッドホンを被せられる。
 先程までの怪しい笑顔のまま、一がヘッドホンと繋がったスマホを操作する。一に恨まれるようなことを私はしていないだろうか。思い返さずとも心当たりしかない。
 私は、一抹の不安を抱えながらそれを見守っていた。
 数瞬の後、私の鼓膜を強く歪んだギターの音が揺らした。