雪椿の契約花嫁――愛情禁止の旦那様と、つぶれかけ商店街を立て直します

第9話 花嫁は正面から会場へ入る

 第九十日の白峰楼は、門前から冷えていた。

 格子門には、墨の濃い張り紙がある。未華入館禁止。昌敬の名と、監査役印。父の店の名義を奪った時と同じ、押せば事実になると信じた印だった。

 門の内側で義尚が動いた。すぐにも錠を外しそうな気配に、未華は首を振る。

「開けないでください。白峰家の奥様として通してもらったら、今日の私はまた誰かの名札になります」

 義尚の手が止まった。

 統偉が息を切らして駆け寄る。手には保存組合の規約と、老夫婦の業務契約書の写しがあった。

「臨時総会は加盟店と利害関係者へ公開。午後の婚礼の装花責任者は作業入場できる。張り紙よりこっちが強い」

 未華は正面の番人に契約書を差し出した。花守屋でも白峰家でもない。署名欄には、未華の名がある。

「確認をお願いします。私は本日午後の婚礼装花責任者として入ります」

 受付の組合職員は昌敬を見たが、周囲の商店主たちが黙って一歩前へ出た。豆腐店の老夫婦も、手をつないで立っている。

「うちの式の花は、その人に頼みました」

 門が開いた。未華は母の半纏の襟を正し、敷石を一歩ずつ踏んだ。走らない。隠れない。正面から入るために、ここまで来たのだ。

 倉庫は空だった。白椿の箱も、山帰来も、竹籠もない。義尚が悔しげに拳を握る前に、海七が大きな籠を掲げた。

「辛さ十の実ならあるよ。飾りには向かないけど、色はいい」

 統偉が吹き出す前に、和菓子店の女将が笹を差し出した。八百屋は大根葉を、食堂は柚子を、古本屋は押し花を、写真館は古い台紙の金の縁を持ってきた。商店街の人々が、それぞれ一輪ずつ、または一枝ずつ持ち寄る。

 高価な花は少ない。どれも、その朝に誰かが選んだものだった。

 未華は床に布を広げ、花と葉を種類ではなく、贈り主ごとに並べた。

「柚子は入口。香りが強いので奥へ入れすぎません。笹は水盤の縁、大根葉は根元を隠します。和菓子店の白い包み紙と古本屋の押し花で、雪の斜面を作りましょう。海七ちゃんの実は……統偉さんの椀の横以外で使います」

「俺の昼がもう決まってるのか」

「確認済みです」

 笑いが白峰楼の格天井へ上がった。未華が指示を出し、義尚は指示された場所へ花を運んだ。余計な口は挟まない。ただ、重い水盤を持つときだけ、彼は未華の視線を待つ。視線を待ってもらえるだけで、未華の肩から力が抜けた。

 午前の点検が始まったとき、天井の可動レールから鈍い音がした。未華はすぐ手を上げる。

「作業を止めてください。通路を空けます」

 そこへ悠耶が駆け込んだ。顔は白く、声は震えていた。

「その奥だ。俺が替えた金具、ひとつだけ確認してない。父さんに言われて、耐荷重の低いものに……老朽化して見えればいいって」

 場が凍った。昌敬が怒鳴る。

「黙れ、悠耶!」

 未華は悠耶を見た。怒りはある。けれど、先にすべきことがある。

「統偉さん、脚立。義尚さん、総会出席者を大広間の外へ。海七ちゃん、高齢の方を雪見障子の側へ誘導して」

 人が動いた。統偉は金具を外し、低い声で言う。

「契約前日の事故報告と合う。これ、吊り飾り用じゃない」

 悠耶は膝をつきそうになりながらも、逃げなかった。

「装花案も、俺の名じゃない。未華の図面を、俺が出した。催事会社にも開発会社にも、訂正を入れる」

 未華はうなずいた。

「今の告白で、今日の事故は防げました。でも、盗んだ名前が戻ったわけではありません。訂正は、あなたが最後まで確認してください」

「……わかった」

 午前の臨時総会は、ざわめきの中で始まった。昌敬はなおも笑う。

「小さな店が寄せ集まって何になる。白峰楼など、売れるうちに売るのが正しい」

 海七が立った。手には、油の染みた仕入れ伝票と売上記録がある。

「父さん。私は怖くて、ずっと黙ってた。でも、捨てなかった」

 未華は注文帳を開く。白椿、赤椿、黄椿。花の名に隠された日付と金額が、白峰家側の入出金記録、海七の伝票、筆跡照合書と重なっていく。

「父の借金とされた金額は、白峰楼の婚礼予約金と一致します。予約金を抜き、同額を父への貸付金に見せた。父はそれに気づき、この注文帳に記録していました」

 義尚は白峰家の帳簿を差し出したが、結論を急がなかった。未華の隣に立ち、住民の顔を見る。

 昌敬は声を荒らげた。

「残してどうする。どうせ消える店だ」

 未華は帳簿を閉じた。

「消えるかどうかを決めるために、私たちは今日ここへ来たのではありません。残す方法を、自分たちで選ぶために来ました」

 採決の札が上がる。売却案は否決された。虚偽の説明で集められた委任状は効力を認められず、昌敬は監査役を解任された。

 保存組合が依頼した外部顧問は、借用書の真正が否定され、担保の前提となる債務も確認できない以上、昌敬が花守屋の店舗と営業を管理し続ける根拠はないと説明した。総会は花守屋名義の委任状を無効とし、花守屋の組合員資格と当面の営業管理を未華へ戻すこと、店舗の鍵と営業書類を即日返すことを決議した。昌敬は組合職員の立会いのもと、鍵束を机へ置いた。店舗の権利関係、未払い賃金、予約金流用については、別途、専門家を交えた手続きへ移されることになった。

 白峰楼を残すと決めたのは、義尚でも未華でもない。雪代で店を続ける人たちだった。

 午後、老夫婦の婚礼が始まった。

 一輪持ち寄りの装花は、豪華さとは別の華やぎを大広間へ運んだ。柚子の香りが入口で客を迎え、笹と大根葉の青が古い柱を引き立てる。白い包み紙に押し花を重ねた雪の斜面には、持ち寄った人の暮らしがそのまま残っていた。海七の祝い椀は辛さを抑えてあり、統偉の椀だけ真っ赤だった。

「これは涙の理由になる辛さだぞ」

「感動と混同しないでください」

 未華が言うと、老夫婦が声を立てて笑った。式の挨拶で老婦人は、夫が毎晩戸を閉めてくれたこと、薬を忘れないよう皿の横に置いてくれたことを話した。大きな言葉は少ない。けれど、その小さな行動が何十年も積もったのだと、白峰楼にいる誰もがわかった。

 婚礼は滞りなく終わった。第六十九日までの運営記録は六十日分以上あり、地域住民の婚礼一組も成立した。夫婦共同承継条項は満たされた。

 夕方、保存組合の立会人が三部の契約書に満了を記録した。義尚は自分の封印を解き、九十日間の契約が終わったことを未華と確かめた。

「一日一問を、最後に使わせてほしい」

「確認しました。どうぞ」

「今のあなたが、一番欲しいものは何ですか」

 未華は、片づけ途中の花、老夫婦と商店街の人たちを見た。

「自分の名前で花を咲かせる店。それから、その願いを小さく扱わない人と暮らすことです」

 義尚は仕事の条件も承継の話も持ち出さなかった。背筋を伸ばし、未華だけを見る。

「契約がなくても、あなたの隣にいたい」

 指先に、遅れて熱が戻ってきた。それでも未華は、すぐには答えなかった。

「仕事の返事と、結婚を続ける返事を一緒にしたくありません。二十四時間ください」

「待ちます」

 義尚は、迷わずそう言った。

 夜、白峰楼の裏庭に、静かなにわか雪が降った。共同温室では、雪待ち椿のつぼみが、誰にも急かされず、ゆっくりとほどけ始めていた。
【終】