雪椿の契約花嫁――愛情禁止の旦那様と、つぶれかけ商店街を立て直します

第8話 契約停止、夫婦未満

 契約第七十日。共同生活と共同業務を止めた翌朝。花守屋の表には、海七が掛けた「午前休」の札が揺れていた。昌敬が来るより早く奥座敷へ帳簿を運び込み、内鍵をかける。仕入れ伝票、売上控え、振込明細、そして契約で認められた閲覧権に基づき複写していた白峰楼の旧予約台帳。未華は畳の上に日付順の道を作り、海七はその横で付箋を貼った。麻辣湯の鍋は昼だけ火を入れ、二人は朝から夜まで数字を追った。

「白椿は入金、赤椿は出金。じゃあ、黄椿は?」

「保留金、だと思う。父は、花の名にして残したんだわ」

 母が雪待ち椿の伝説を書いた注文帳。その後ろの頁に、父は細かな記号を残していた。白椿三十、赤椿三十。数字は本数ではなく万円を示している。白峰楼の婚礼予約金が入った日に白椿、同額が別口座へ移った日に赤椿。さらに同じ額が、未華の父への貸付金として花守屋の帳簿に現れていた。

「お父さんは、気づいてたんだね」

 海七の声が震える。

「気づいたから、花の名前で残した。昌敬さんに見られても、注文の覚えにしか見えないように」

 未華は淡々と答えた。怒りを大声にすると、見落とす数字が出る。今は泣くより先に、父の筆跡を最後まで追う。

 やがて表の鍵が回り、昌敬が店へ入ってきた。奥座敷の戸を何度も叩く。

「未華、戻ったなら商いをしろ。白峰楼の男に捨てられたんだろうが」

 海七が立ち上がりかけ、未華は首を横へ振った。

「今、相手にする言葉じゃない。記録を守って」

 海七は唇を噛み、伝票の束を風呂敷で包み直した。怖さは消えない。それでも、紙を隠す手はもう震えていなかった。

 同じ頃、白峰楼では義尚が空席の向かいに茶を置き、すぐに苦笑して下げた。未華はいない。朝食を一緒に食べてほしいと願った相手に、自分は重大な疑いを十日以上黙っていた。

「追いかけないのか」

 統偉が台所の木札を外しながら言った。そこには、一日一問、帳簿開示、愛情持ち込み可、と墨が並んでいる。

「追えば、戻ってくれと言ってしまう」

「言えばいいじゃないか」

「俺の妻としてでも、共同支配人としてでもない。あの人が自分の名で戻れる道を作る。それが先だ」

 義尚は保存組合の規約を広げた。承継条件の確認は密室ではなく、加盟店へ公開できる。売却を決める臨時総会も、利害関係者の発言を認める手続きがある。以前の彼なら、昌敬を押さえつける方法ばかり探しただろう。今は違う。証拠を待ち、住民の前で判断してもらう。

 彼は未華へ一通だけ手紙を送った。

『老夫婦から、装花責任者として正式な依頼が来ています。公開審査と臨時総会で発言できる席も用意しました。受けるかどうかは、あなたが決めてください』

 妻と書かなかった。帰ってきてほしいとも書かなかった。封をしたあと、義尚は初めて、待つことがこんなにも体力を使うのだと知った。

 手紙を受け取った未華は、同じ短い文面を三度読んだ。戻ってほしいという懇願も、白峰楼を救ってほしいという圧力もない。選択を委ねられることは、突き放されることとは違う。そう理解できるまで、便箋をたたまず膝の上に置いていた。

 第八十五日、帳簿の線が一本につながった。保存組合の立会人を通じて届いた筆跡照合書には、借用書の署名は未華の父の筆跡と一致せず、押印にも別書類から写した痕跡があると記されていた。義尚からの手紙は添えられていない。判断を迫らないためだと、未華にはわかった。

 昌敬は白峰楼の予約金を抜き、同額を未華の父への貸付金として記載していた。父の死後、その架空債権を自分へ移したことにし、花守屋の店舗と営業権を担保に取った。未華を縛っていた借金は、最初から作られたものだった。

 未華は帳簿、伝票、筆跡照合書の写しを三部作った。一部は自分、一部は海七、一部は商店街の古い写真館の金庫へ預ける。写真館の店主は、黙って鍵をかけたあと、「お父さんの花、好きだったよ」とだけ言った。

 その夜、悠耶が裏口に来た。顔色は悪く、いつもの軽い笑みはない。

「未華。謝りに来た」

 海七がすぐ間へ入る。

「謝るだけなら帰って。今の未華ちゃんに、言葉だけ積まないで」

 悠耶は拳を握った。

「白峰楼の吊り金具、父さんに言われて安いものに替えた。老朽化して見えれば売却に傾くって。事故を起こすつもりはなかった。でも、未確認の固定箇所が一つ残ってる。第九十日に人を入れる前に見てほしい」

 未華の背筋を冷たいものが走った。契約前日の内覧会で傾いた花飾り。あれは偶然だけではなかった。

「その話を、総会で言えますか」

 悠耶の肩が揺れる。けれど、逃げるとは言わなかった。

「言う。盗んだ装花案も、俺の名じゃないって訂正する」

「それで、私の名前が戻るわけではありません」

「わかってる。戻す最初の手間だけ、やらせてほしい」

 未華は許すとは言わなかった。ただ、固定箇所の位置を紙に書かせた。責任は感情ではなく、事実から始めるしかない。

 第八十九日、豆腐店の老夫婦が花守屋へ来た。二人は白い封筒を未華の前に置く。

「騒がしい日にしてしまって、すまないね」

「それでも、白峰楼で式を挙げたいんですか」

 老婦人は笑った。

「立派な夫婦が作る会場じゃなくていいの。間違えたあと、話し合う人たちがいる会場なら、私たちは安心できる」

 封筒の中には、未華個人へ宛てた装花の業務契約書が入っていた。花守屋でも白峰家でもなく、未華の名前。

 未華は何度も読み、解除条件と報酬欄まで確認してから署名した。白峰楼へ戻るのは、義尚の妻としてではない。老夫婦の門出を飾る装花責任者として戻る。

 その夜、一日一問の時間になると、未華は空の湯呑みを見つめた。質問は浮かぶ。答えてくれる声はない。

 白峰楼でも、義尚は同じ時刻に黙っていた。契約は止まっているのに、問いを考える習慣だけが二人の生活に残っていた。夫婦と呼ぶには遠く、他人へ戻るには近すぎる距離で、二人は同じ朝を待った。

 第九十日の朝、雪代市の空は薄く曇っていた。午前に承継審査と臨時総会、午後に老夫婦の婚礼がある。未華は母の古い半纏を畳み、証拠の束と装花契約書を鞄に入れた。

 白峰楼へ向かう前、統偉から電話が入った。

「未華さん、落ち着いて聞いてくれ。倉庫の装花資材が消えてる。それと正面門に、あんたを入館禁止にする昌敬名義の張り紙がある」

 海七が息をのむ。

 未華は鞄の中の契約書を確かめ、ゆっくり立ち上がった。

「確認しました。では、正面から行きます」
【終】