雪椿の契約花嫁――愛情禁止の旦那様と、つぶれかけ商店街を立て直します

第7話 奪われた花嫁の名前

 第六十九日の朝、白峰楼の前に新聞記者が集まっていた。

 雪が雨に変わったばかりの石畳は濡れ、門の格子に貼りついた紙面だけが、妙に白く浮いて見えた。

『白峰家跡取り、偽装結婚で承継か』

 見出しの下には、未華と義尚が交わした私的契約の文言が並んでいた。恋愛感情を求めないこと。九十日間の共同支配人業務。承継審査。保存組合の確認資料にしか載っていない言葉だった。

「奥様、財産目当てという話は本当ですか」

 記者の声が雨音に混じる。義尚が一歩前へ出ようとした。だが未華は、その袖を軽く押さえた。

「隠された花嫁には戻りません」

 声は震えていない。自分でも少し驚いた。

 統偉が門の内側から飛び出してきた。手には、保存組合の確認資料の控えがある。

「引用されてるのは、抜けた一頁の文言そのままだ。第三十五日の模擬婚礼の後に消えた頁だ」

 未華の脳裏に、白峰楼の事務机へ近づいた悠耶の背中がよみがえった。

 その予感は昼までに形を持った。統偉が事務室前の防犯映像と、保存組合の共有端末に残る印刷・送信履歴を照合した。消えた一頁は、花守屋の代理出席者として登録されていた悠耶の利用者番号で複写され、同じ時刻に昌敬の連絡先へ送られている。記事の引用文も、端末に残った画像の文面と一致した。

 義尚は会見を開き、契約結婚である事実を否定しなかった。

「私的な契約で始まった婚姻です。ただし、白峰楼で行ってきた運営記録、修繕、住民の婚礼準備に虚偽はありません」

 未華も隣に立った。記者の視線は、左手の指輪より、作業着の袖口と花鋏の跡が残る指先へ集まった。

「私は白峰楼の共同支配人として、装花責任者として働きました。義尚さんの妻だからではなく、契約書に署名し、報酬と責任を明記した一人の働き手としてです」

 会見の途中、統偉が未華へ一枚の案内紙を渡した。朝、写真館の店主が持ち込んだ、別の催事の案内だった。載っている装花は、未華が老夫婦の婚礼のために描いた案とほとんど同じで、考案者の欄には「花守屋店長 悠耶」とある。

 複写記録について説明を求められた悠耶が、昌敬に伴われて会見場へ入ってきた。案内紙を見せられると、彼は目をそらしたまま言った。

「家の仕事なんだから、誰の名前でも同じだろ」

 開き直った声とは反対に、その指先は羽織の端を強くつまんでいた。

 未華は鞄から、自分の設計図を取り出した。第三十五日の日付。未華の署名。変更履歴。使う花の理由まで細かく書いた紙だ。

「同じなら、なぜあなたの名前にしたの」

 悠耶の口が半端に開き、何も出てこなかった。

 昌敬はそれを見て、舌打ちをした。

「くだらん。未華、おまえの父親が白峰家の旧運営会社から借りた金を忘れたか。借金を逃れるために跡取りへ近づいた女が、偉そうに名前など語るな」

 差し出された写しには、亡父の名前と金額があった。未華の胃が冷たくなる。だが義尚の顔は、それより先に青ざめていた。

「……未華さん」

 ためらいを含んだ呼び方で、未華は悟った。

「知っていたのですか」

 義尚は逃げなかった。

「第五十八日に、不自然な債権移転記録を見つけた。借用書の筆跡にも疑いがあった。外部で照合している。確証が出るまで、あなたを動揺させたくなかった」

 守ろうとしたのだとはわかった。だからこそ、二人で積み上げた信頼の土台が、足元から抜けていくようだった。

「私が耐えられるかどうかを、あなたが決めないでください」

 義尚の唇が強く結ばれる。雨が軒先から落ち、二人の間に細い線を引いた。

「重大な損害につながる事実を隠した場合、被害を受ける側は共同生活と共同業務の履行を停止できる。私が加えた条項です」

 未華は腰の鍵束から白峰家の鍵を外し、会見用の卓へ置いた。統偉が立会人として鍵を封筒へ収め、日付を書き入れる。

「本日付で、共同生活と共同支配人業務の履行を停止します。第六十九日までの報酬請求権は失いません。法律上の婚姻は、この停止で解消されません。離婚届は、第九十日の承継審査後に、双方が改めて意思を確認するまで出しません」

 統偉が、預かっている封筒を胸元で握った。いつもの冗談は出なかった。

 義尚は封筒へ手を伸ばさなかった。手を伸ばせば、そのまま引き止める理由を探してしまうとわかっていた。

「一日一問を、今日だけ使っていいか」

 未華は頷いた。

「俺といた六十九日間は、あなたにとって全部仕事だったか」

 胸が痛んだ。痛むほど、答えははっきりしていた。

「いいえ。だから、今は離れます」

 大切に思い始めていたからこそ、隠されたまま笑ってはいられない。愛情を積み重ねてきた相手だからこそ、誠実でない部分を花で覆うことはできなかった。

 未華は白峰楼を出た。義尚は追ってこなかった。初めて、彼は未華の決定を最後まで待った。

 花守屋へ戻ると、海七が店の奥で待っていた。麻辣湯の鍋は火を止められ、香辛料の匂いだけが静かに残っている。

「未華ちゃん、ごめん」

 海七は畳の上に、仕入れ伝票、売上記録、振込控えを並べた。几帳面に日付順へ束ねられた紙の端は、何度も開かれた跡で少し丸まっていた。

「お父さんが捨てろって言った控え、全部じゃないけど残してた。怖くて出せなかった。今さらで、ごめん」

 未華は、すぐ許すとは言えなかった。言ってしまえば、海七が抱えていた恐怖も、未華が奪われた時間も、軽くなりすぎる気がした。

 だから、別の言葉を選んだ。

「今、出してくれたことは受け取る」

 海七の目から涙が落ちた。

「泣く理由は、麻辣湯にしておきたかったんだけどな」

「辛さ十でも足りません」

 二人は少しだけ笑い、それから紙を並べ直した。

 古い注文帳も開く。母が雪待ち椿の伝説を書いた同じ帳面の後ろに、父の細い字が残っていた。白椿。赤椿。日付。数量。花の名前にしか見えない記号を、未華は伝票と照らし合わせる。

 白椿の日は入金。赤椿の日は出金。金額は、白峰楼の過去の婚礼予約金と同じだった。

 父の借金とされた額が、誰かの門出のために預けられた金とぴたり重なる。

 未華は息をのみ、海七も同じ行を見つめた。

「これ、借金じゃない」

「うん。お父さんが、別の名前に付け替えたんだと思う」

 夜の花守屋で、二人は帳場の奥に内鍵をかけ、紙の山の前に座り続けた。白峰楼に戻るかどうかは、まだ決めない。義尚を許すかどうかも、今は決めない。

 けれど、未華の名前を消した仕組みを、ここで終わらせることだけは決めた。

 注文帳の最後の頁で、父の字が震えるように残っている。

『白椿三十。赤椿三十。予約金、消える』

 未華はその文字を指でなぞり、静かに言った。

「確認します。父のためではなく、私の名前のために」
【終】