雪椿の契約花嫁――愛情禁止の旦那様と、つぶれかけ商店街を立て直します

第6話 にわか雪の温室

 契約第五十四日の夜。白峰楼の裏庭へ続く石畳は、薄い雪に濡れていた。

 春を待つ町に、冬が忘れ物を取りに戻ったような夜だった。未華は羽織の前を押さえ、白い息を吐きながら走る。隣で義尚が提灯を掲げた。橙色の光が、壊れた温室の硝子にぎざぎざと反射する。

「温度が五度を切っています」

 入口の計器を見た未華の声に、義尚の表情が引き締まった。

 共同温室の中は、外とほとんど変わらない冷たさだった。停電で暖房機は黙り込み、割れた屋根の隙間から細かな雪が舞い込んでいる。棚の鉢植えは風に震え、婚礼で使う予定の苗の葉先が萎れかけていた。奥の雪待ち椿は、黒い枝を細く震わせている。

「まず、鉢を中央へ寄せます。椿は動かしすぎないでください。根が弱っています」

「わかった。俺は窓を塞ぐ」

 義尚は板をつかみ、割れた硝子枠へ押し当てた。いつもの勢いで釘を打とうとする手を、未華が止める。

「そこではありません。枠が腐っています。釘が抜けます」

「……確認します」

 義尚は言い返さず、板を少しずらした。その返事に、未華の胸が少し温かくなる。人の話を聞くのは、言葉ほど簡単ではない。けれど義尚は今、急ぐより先に確かめていた。

 未華は鉢を一つずつ運び、麻袋と古い毛布で囲った。湯たんぽ代わりに、やかんの残り湯を瓶へ移す。婚礼用の白椿、赤い実をつけた万両、小さな菫。どれも高価ではないが、誰かの門出に使うため、ここまで世話を重ねてきたものだった。

「未華さん、手が」

 義尚が叫ぶ。割れた鉢の縁で、未華の指に細い傷が入っていた。未華は布で押さえ、「後です」と答える。

「後にしない」

「契約に、手当てを急がせる条項はありません」

「愛情持ち込み可だろう」

 真顔で返され、未華は一瞬だけ言葉に詰まった。義尚は持っていた手拭いを裂き、ぎこちない手つきで指を巻く。包帯というより、太った白い蝶が止まったような仕上がりだった。

「……動かしにくいです」

「出血は止まる」

「採点するなら、実用点は四十点です」

「恋愛点より高いなら成長だ」

 寒さの中で、未華は少し笑った。

 そのとき、外から鈍い音がした。温室の入口で、向かいの米屋の隠居が膝をついていた。第三十五日の模擬婚礼で客役をしてくれた老女だった。家の裏窓から毎晩見えていた温室の保温灯が消えたため、気になって様子を見に来たらしい。

「温室の明かりが消えたから、気になってねえ」

「動かないでください」

 未華はすぐに駆け寄り、義尚は戸を大きく開けて老女を抱え入れた。足首をひねっている。未華は苗を包んでいた予備の布をほどき、足首を固定した。

「花より人を先に温めます」

 彼女が言うと、義尚は何も聞き返さず、自分の羽織を老女の肩へ掛けた。

 その直後、義尚の懐で電話が鳴った。画面には、保存組合役員会の文字。義尚が出ると、昌敬の低い声が温室の寒気より鋭く響いた。

『白峰さん、役員会は始まっていますよ。欠席なら再建予算の凍結に賛成票が集まる。花と女を置いて、今すぐ来なさい』

 未華は老女の足首を押さえたまま、義尚を見た。

「行ってください。私は残れます」

 白峰楼を守るには、資金がいる。共同温室の修繕にも、婚礼の準備にも。未華には、それが痛いほどわかっていた。

 義尚は雪の吹き込む屋根を見上げ、老女を見て、最後に未華の手元を見た。

「会場を残すために、人を置いていくなら、残す意味がない」

 彼は電話へ向き直る。

「今日は欠席します。議事録は後で確認します。凍結するなら、理由も記録してください」

『後悔しますよ』

「後悔しないために、今ここにいます」

 通話が切れた。

 未華の肩から、長く入っていた力がわずかに抜けた。義尚は借金や契約ではなく、目の前の人を選んだ。その中に自分も含まれていることが、怖いほど嬉しかった。

 統偉が駆け込んできたのは、それから十分ほど後だった。肩には板、腕には工具、引いてきた台車には毛布と小型発電機を積んでいる。

「新婚夫婦の夜逃げかと思ったら、温室で救助隊か。木札に追加だな。『愛情、雪中作業可』」

「余計な札を増やす前に、そこを押さえてください」

 未華の指示で、統偉と義尚が屋根の応急処置をする。未華は老女の体温を確かめ、苗の位置を直した。統偉が小型発電機へ暖房機をつなぐと、止まっていた送風口が低く唸りはじめる。温室の空気が、少しずつ柔らかくなっていった。

 夜明け前、老女を家へ送り届けたあと、三人は温室の中央に置いた小さな火鉢を囲んだ。統偉は眠気に負け、入口脇で丸くなっている。義尚が缶の茶を開け、未華へ差し出した。

「会議へ行かなかったことを、後悔していますか」

 一日一問。未華の声は、火鉢の上の湯気と一緒に揺れた。

「予算は取り戻せる。今日置いていった人の信頼は、取り戻せないかもしれない」

 義尚は静かに答えた。

「では、俺から。契約が終わったら、どこへ行きたいですか」

 未華は、すぐに答えられないと思っていた。けれど、口は意外なほど素直に動いた。

「自分の名前を看板にした、小さな花の仕事場を持ちたいです。誰の娘でも、誰の従妹でも、誰の妻でもなく。未華として、花を預かる場所を」

 言ってから、未華は驚いた。欲しいものは、確認中ではなかった。ずっと胸の奥で、霜に包まれていただけだった。

 義尚は何かを言いかけ、飲み込んだ。そして、ただ頷く。

「その看板は、きっと見に行きます」

「買い物客としてですか」

「迷惑でなければ、常連として」

「辛さ十の麻辣湯を持ち込まなければ、検討します」

 義尚が苦い顔をする。未華は缶茶を両手で包み、白く曇った硝子の向こうを見た。

 雪待ち椿の枝に、小さなつぼみが一つついている。無理に開かせれば落ちる花。咲くかどうかを急かせない花。

「待つのも仕事なんですね」

 義尚が呟いた。

「はい。咲かせることだけが、世話ではありません」

 夜が明ける頃、雪は雨に変わった。間もなく、白峰家側の再建予算を一時凍結するとの知らせが届く。買う予定だった屋根材も暖房部品も、いったん白紙になった。

 それでも統偉は「廃材なら山ほどある」と笑った。和菓子店からは包み布、写真館からは使わなくなった額縁、豆腐店からは湯を運ぶ大鍋が届いた。少額の寄付には、店主たちの名前が一つずつ添えられていた。

 契約第五十五日から第六十八日まで、未華と義尚は持ち寄られた品を仕分け、使える形へ直しながら修繕を進めた。毎日の運営記録も欠かさず残し、六十日分を超えた。足りないものを一つずつ持ち寄るのは、弱さではない。この町が長く続けてきた、支え合いの方法なのだと未華は知った。

 契約第六十九日の朝。玄関に投げ込まれた新聞を開いた瞬間、その温かさは冷たい文字に裂かれた。

『白峰家跡取り、偽装結婚で承継か』

 地域欄の記事には、保存組合の確認資料にしか載っていないはずの契約文言が、そのまま引用されていた。

 未華は紙面を握りしめた。第三十五日の模擬婚礼で、事務机から消えた一頁。悠耶が立っていた、あの場所。

 義尚も記事を読み、顔色を変えた。

 雪待ち椿のつぼみは、まだ開かない。
【終】