第5話 夫婦役、採点されます
契約第三十五日。
白峰楼の大広間には、模擬婚礼のため商店街の人々が集まっていた。畳には歩行経路を示す白い紐が張られ、雪見障子のそばでは、豆腐店の佐吉とお房が本番を思い描きながら動線の説明を聞いている。
未華は障子の開閉、段差、椅子の位置を順に確かめた。飾り映えより、人が転ばないこと、寒くないこと、花の香りで具合を悪くしないことが先だった。
「本日は新郎新婦の歩行確認、席順、祝い膳の出し方、写真の位置まで全部試します。気づいたことは遠慮なく言ってください」
義尚が声を張ると、統偉が後ろから木札の束を掲げた。
「ついでに、新婚支配人夫婦の仲良し度も採点します」
「統偉さん」
未華の声が低くなった。
「大事だろ。目線、呼吸、呼び方、相手の好物、寒がりか暑がりか。夫婦で会場を切り盛りするなら、生活感も商品価値だ」
「商品にしないでください」
義尚も止めたが、商店主たちはすでに採点表を受け取っていた。
最初の項目は「互いの呼び方」。義尚は咳払いをして未華を見た。
「未華さん」
「義尚さん」
広間に、しんとした空気が落ちた。
統偉が採点表へ大きく丸をつけ、すぐ隣に小さく「役所の窓口」と書く。
「失礼です」
「いや、丁寧ではある」
写真館の店主がまじめに頷き、場がどっと笑った。
次は、佐吉とお房が入場する導線の確認だった。夫婦役として義尚と未華が先に歩き、段差や視線を確かめる。腕を組んでみてください、と和菓子屋の女将に言われ、二人は同時に動いた。だが歩幅が合わず、義尚の雪駄の先が敷居に引っかかる。
「危ないです」
未華が反射的に支え、義尚は半歩遅れて踏みとどまった。夫婦らしい優雅さはなかった。けれど、倒れかけた花台へ義尚が手を伸ばし、未華がすぐ下の花器を押さえたので、飾りは少しも崩れなかった。
「恋愛点は二点。現場対応点は満点」
統偉の声に、今度は義尚が睨んだ。
好物を答える項目で、義尚は見事に失点した。
「未華さんの好物は……白いもの、でしょうか」
「花と食べ物を一緒にしないでください」
「豆腐かい?」
佐吉が嬉しそうに身を乗り出す。
未華が「豆腐は好きです」と答えると、義尚は真剣に手帳へ書き込んだ。反対に、未華も義尚の休日の過ごし方を知らない。義尚が「新しい企画を考えます」と答え、採点者全員から「それは休日ではない」と訂正された。
甘い夫婦役は、まるで形にならない。
けれど作業に入ると、二人の動きは不思議なほど合った。花嫁役のお房が大広間の段差で足を止める。未華が何も言わず椅子を差し出すと、義尚はすでに仮設の手すりを運んでいた。北側の障子から冷気が入ると、未華が湯を頼み、義尚が窓を閉める。膝掛けが足りないとわかると、統偉が廃材で作った木箱から布を出した。
目の前の人が困らないよう、それぞれが自然に動いていた。
お房が膝掛けを撫でながら言う。
「上手に見せる夫婦より、気づいてくれる夫婦の方が安心だねえ」
佐吉も頷いた。
「豆腐もそうだ。派手に混ぜりゃいいってもんじゃない。固まるまで待たにゃならん」
義尚はその言葉を聞いて、少しだけ視線を落とした。未華は、彼が何かを言おうとして、飲み込んだのに気づいた。
昼過ぎ、模擬婚礼の片づけが始まった頃、未華の指先がふらついた。花桶を持ち上げた拍子に、視界の端が白くなる。倒れるほどではなかったが、義尚は見逃さなかった。
「未華さん。少し休んでください」
「大丈夫です。退職前の帳簿も、まだ整理が残っていますから」
「昨夜も花守屋へ呼ばれたんですか」
未華は答えに詰まった。昌敬から届いた書面には、退職前の勤務記録と古い帳簿を整理しなければ精算しない、従わなければ父の債務へ遅延金を加えるとあった。筋が通らないと頭ではわかっている。それでも長年染みついた恐れが、白峰楼の仕事を終えた未華を、夜の花守屋へ向かわせていた。
義尚の顔から、いつもの勢いが消えた。
「俺が行って話をつけます」
「やめてください」
未華の声は、自分でも驚くほど鋭かった。
義尚が足を止める。
「私の代わりに怒らないでください。怒るなら、私が怒れるようになりたいです」
義尚は握った拳を、ゆっくりほどいた。
「わかりました。では、何を手伝えばいいですか」
「勤務時間の記録を、日付順に整理します。未払い分と、私名義で出した装花案も」
「確認しましょう」
義尚は代わりに解決すると言わず、未華が自分で仕事と権利を取り戻せるよう、隣で記録を支えると答えた。
そこへ悠耶が現れた。絹の羽織を肩に掛け、白峰楼の大広間を自分の店のように見回している。
「模擬婚礼、盛り上がってるね。装花の最終案、僕の方でまとめておくよ。外へ出す資料は花守屋名義の方が通りがいい」
未華は花鋏を置いた。
「最終案には、私の署名を入れます。変更履歴も残します」
悠耶の眉が跳ねた。
「家族なのに疑うのか」
「家族だから曖昧にした結果、私の名前が消えました」
言い終えるまで、義尚は何も言わなかった。前なら、彼は一歩前へ出て悠耶を追い払ったかもしれない。けれど今は、未華の斜め後ろで待っている。未華が自分の名で立てるように。
悠耶は悔しそうに唇を噛み、事務机の方へ歩いた。統偉が声をかけると、彼は「資料を見ただけ」と手を振る。
片づけの終わりに、未華は保存組合へ提出する確認資料を数え直した。複写した契約条項のうち、一頁だけ足りない。机の下まで探したが見つからず、悠耶が立っていた場所だけが妙に気にかかった。
夜、白峰楼の台所。壁には統偉が勝手に書いた木札が増えていた。
『愛情、持ち込み済み』
『休日とは仕事をしない日』
『豆腐は花ではない』
義尚は三枚目を見て、苦い顔をした。
「消していいですか」
「事実なので残しましょう」
未華が言うと、義尚は諦めたように茶を注いだ。一日一問の時間だった。
「今日、俺にしてほしかったことは何ですか」
義尚の質問に、未華はすぐ答えられた。
「何も言わず、私が話すのを待ってくれたことです。もう、してもらいました」
義尚は湯呑みを持つ手を止めた。照れたようにも、痛いところを押されたようにも見える顔だった。
未華の番になる。
「あなたが私にしてほしいことは何ですか」
義尚の喉が小さく動く。未華は、その沈黙を急かさず待った。
「明日、朝食を一緒に食べてほしいです」
本当は別の言葉を飲み込んだような答えだった。
「わかりました」
未華が頷くと、義尚は少しだけ笑った。
模擬婚礼から十九日後の夜。予報になかった冷え込みが町を包み、屋根を細かく叩く音で未華は目を覚ました。
窓の外を、白いものが流れていた。
にわか雪。
同時に、廊下の奥で警報が鳴る。共同温室の温度低下を知らせるベルだった。
未華は羽織をつかみ、戸を開けた。向かいの部屋から、義尚も飛び出してくる。
「温室です」
「行きます」
二人は、同じ方向へ走り出した。
【終】
契約第三十五日。
白峰楼の大広間には、模擬婚礼のため商店街の人々が集まっていた。畳には歩行経路を示す白い紐が張られ、雪見障子のそばでは、豆腐店の佐吉とお房が本番を思い描きながら動線の説明を聞いている。
未華は障子の開閉、段差、椅子の位置を順に確かめた。飾り映えより、人が転ばないこと、寒くないこと、花の香りで具合を悪くしないことが先だった。
「本日は新郎新婦の歩行確認、席順、祝い膳の出し方、写真の位置まで全部試します。気づいたことは遠慮なく言ってください」
義尚が声を張ると、統偉が後ろから木札の束を掲げた。
「ついでに、新婚支配人夫婦の仲良し度も採点します」
「統偉さん」
未華の声が低くなった。
「大事だろ。目線、呼吸、呼び方、相手の好物、寒がりか暑がりか。夫婦で会場を切り盛りするなら、生活感も商品価値だ」
「商品にしないでください」
義尚も止めたが、商店主たちはすでに採点表を受け取っていた。
最初の項目は「互いの呼び方」。義尚は咳払いをして未華を見た。
「未華さん」
「義尚さん」
広間に、しんとした空気が落ちた。
統偉が採点表へ大きく丸をつけ、すぐ隣に小さく「役所の窓口」と書く。
「失礼です」
「いや、丁寧ではある」
写真館の店主がまじめに頷き、場がどっと笑った。
次は、佐吉とお房が入場する導線の確認だった。夫婦役として義尚と未華が先に歩き、段差や視線を確かめる。腕を組んでみてください、と和菓子屋の女将に言われ、二人は同時に動いた。だが歩幅が合わず、義尚の雪駄の先が敷居に引っかかる。
「危ないです」
未華が反射的に支え、義尚は半歩遅れて踏みとどまった。夫婦らしい優雅さはなかった。けれど、倒れかけた花台へ義尚が手を伸ばし、未華がすぐ下の花器を押さえたので、飾りは少しも崩れなかった。
「恋愛点は二点。現場対応点は満点」
統偉の声に、今度は義尚が睨んだ。
好物を答える項目で、義尚は見事に失点した。
「未華さんの好物は……白いもの、でしょうか」
「花と食べ物を一緒にしないでください」
「豆腐かい?」
佐吉が嬉しそうに身を乗り出す。
未華が「豆腐は好きです」と答えると、義尚は真剣に手帳へ書き込んだ。反対に、未華も義尚の休日の過ごし方を知らない。義尚が「新しい企画を考えます」と答え、採点者全員から「それは休日ではない」と訂正された。
甘い夫婦役は、まるで形にならない。
けれど作業に入ると、二人の動きは不思議なほど合った。花嫁役のお房が大広間の段差で足を止める。未華が何も言わず椅子を差し出すと、義尚はすでに仮設の手すりを運んでいた。北側の障子から冷気が入ると、未華が湯を頼み、義尚が窓を閉める。膝掛けが足りないとわかると、統偉が廃材で作った木箱から布を出した。
目の前の人が困らないよう、それぞれが自然に動いていた。
お房が膝掛けを撫でながら言う。
「上手に見せる夫婦より、気づいてくれる夫婦の方が安心だねえ」
佐吉も頷いた。
「豆腐もそうだ。派手に混ぜりゃいいってもんじゃない。固まるまで待たにゃならん」
義尚はその言葉を聞いて、少しだけ視線を落とした。未華は、彼が何かを言おうとして、飲み込んだのに気づいた。
昼過ぎ、模擬婚礼の片づけが始まった頃、未華の指先がふらついた。花桶を持ち上げた拍子に、視界の端が白くなる。倒れるほどではなかったが、義尚は見逃さなかった。
「未華さん。少し休んでください」
「大丈夫です。退職前の帳簿も、まだ整理が残っていますから」
「昨夜も花守屋へ呼ばれたんですか」
未華は答えに詰まった。昌敬から届いた書面には、退職前の勤務記録と古い帳簿を整理しなければ精算しない、従わなければ父の債務へ遅延金を加えるとあった。筋が通らないと頭ではわかっている。それでも長年染みついた恐れが、白峰楼の仕事を終えた未華を、夜の花守屋へ向かわせていた。
義尚の顔から、いつもの勢いが消えた。
「俺が行って話をつけます」
「やめてください」
未華の声は、自分でも驚くほど鋭かった。
義尚が足を止める。
「私の代わりに怒らないでください。怒るなら、私が怒れるようになりたいです」
義尚は握った拳を、ゆっくりほどいた。
「わかりました。では、何を手伝えばいいですか」
「勤務時間の記録を、日付順に整理します。未払い分と、私名義で出した装花案も」
「確認しましょう」
義尚は代わりに解決すると言わず、未華が自分で仕事と権利を取り戻せるよう、隣で記録を支えると答えた。
そこへ悠耶が現れた。絹の羽織を肩に掛け、白峰楼の大広間を自分の店のように見回している。
「模擬婚礼、盛り上がってるね。装花の最終案、僕の方でまとめておくよ。外へ出す資料は花守屋名義の方が通りがいい」
未華は花鋏を置いた。
「最終案には、私の署名を入れます。変更履歴も残します」
悠耶の眉が跳ねた。
「家族なのに疑うのか」
「家族だから曖昧にした結果、私の名前が消えました」
言い終えるまで、義尚は何も言わなかった。前なら、彼は一歩前へ出て悠耶を追い払ったかもしれない。けれど今は、未華の斜め後ろで待っている。未華が自分の名で立てるように。
悠耶は悔しそうに唇を噛み、事務机の方へ歩いた。統偉が声をかけると、彼は「資料を見ただけ」と手を振る。
片づけの終わりに、未華は保存組合へ提出する確認資料を数え直した。複写した契約条項のうち、一頁だけ足りない。机の下まで探したが見つからず、悠耶が立っていた場所だけが妙に気にかかった。
夜、白峰楼の台所。壁には統偉が勝手に書いた木札が増えていた。
『愛情、持ち込み済み』
『休日とは仕事をしない日』
『豆腐は花ではない』
義尚は三枚目を見て、苦い顔をした。
「消していいですか」
「事実なので残しましょう」
未華が言うと、義尚は諦めたように茶を注いだ。一日一問の時間だった。
「今日、俺にしてほしかったことは何ですか」
義尚の質問に、未華はすぐ答えられた。
「何も言わず、私が話すのを待ってくれたことです。もう、してもらいました」
義尚は湯呑みを持つ手を止めた。照れたようにも、痛いところを押されたようにも見える顔だった。
未華の番になる。
「あなたが私にしてほしいことは何ですか」
義尚の喉が小さく動く。未華は、その沈黙を急かさず待った。
「明日、朝食を一緒に食べてほしいです」
本当は別の言葉を飲み込んだような答えだった。
「わかりました」
未華が頷くと、義尚は少しだけ笑った。
模擬婚礼から十九日後の夜。予報になかった冷え込みが町を包み、屋根を細かく叩く音で未華は目を覚ました。
窓の外を、白いものが流れていた。
にわか雪。
同時に、廊下の奥で警報が鳴る。共同温室の温度低下を知らせるベルだった。
未華は羽織をつかみ、戸を開けた。向かいの部屋から、義尚も飛び出してくる。
「温室です」
「行きます」
二人は、同じ方向へ走り出した。
【終】



