雪椿の契約花嫁――愛情禁止の旦那様と、つぶれかけ商店街を立て直します

第4話 商店街の花屋で聞いた「奇妙な花の伝説」

 契約第十八日の朝、海七から「父と兄が組合へ出ている間なら」と連絡が入り、未華と義尚は花守屋の古い保冷庫へ入った。扉を開けると、冬を吐くような冷気がこぼれた。

 今は使われていない棚には、古い花器、欠けた水盤、父が使っていた鋏の空き箱が積まれている。未華は母の字が残る注文帳を胸に抱き、義尚と一緒に埃を払った。

「花嫁にだけ話すこと、か」

 義尚が頁をのぞきこむ。

「法律上は妻になりました。でも、母が書いた『花嫁』に自分を重ねていいのかは、まだ確認中です」

「確認中が多いですね」

「曖昧に受け取ると、あとで花も人も傷みます」

 未華が棚の奥を探ると、椿の押し花を挟んだ紙片が出てきた。そこへ、店先から小さなくしゃみが聞こえた。

「そこ、寒いだろう。椿の話なら、わたしも聞いたことがあるよ」

 現れたのは、向かいの古本屋の老婦人、千代だった。父の代から花守屋へ通ってくれている常連で、いつも買うのは一輪だけ。それでも父は、花束と同じように丁寧に包んでいた。

 千代は保冷庫の入口に腰掛け、ゆっくり話し始めた。

「昔、ここらの花屋の娘が、好きでもない相手と夫婦になることになってね。怖くて、店先の椿に聞いたそうだよ。愛のない夫婦は、どう暮らせばいいのかって」

 義尚が少し眉を上げた。

「椿が答えたんですか」

「昔話だからね。そういうことにして聞きなさい」

 千代は笑い、未華の注文帳を指でなぞった。

「椿は雪の晩に一輪だけ咲いて、こう言った。愛は心が向かうこと。愛情は、相手が寒くないよう戸を閉めること。愛がなくても愛情は渡せる。けれど、渡し続けた愛情が何になるかは、契約書にも花にも決められない」

 保冷庫の冷気の中で、未華は昨日の台所を思い出した。義尚が黙って差し出した温かい茶。辛さ十で涙を流した彼に渡した水。名前のない小さな行いは、契約書のどこにも入っていない。

「迷信ですね」

 義尚はそう言ったが、声には笑いきれない硬さがあった。

 未華は注文帳へ紙片を挟み直した。

「本当かどうかより、誰かが残したかった言葉なのだと思います」

 昼過ぎ、白峰楼の大広間には、聞き取りの紙が畳いっぱいに広げられた。和菓子店、写真館、豆腐店、古本屋、海七の麻辣湯。どの店も一つずつ得意なものを持ち寄れば、白峰楼だけでは作れない祝言になる。

「再開婚礼の主題を、雪待ち椿にしませんか」

 未華は墨で簡単な配置図を描いた。

「招待客と商店街の人が、一輪ずつ花や葉を持ち寄ります。会場で一つの装花に仕立てるんです。高い花を大量に買うより費用を抑えられますし、祝う人たちの手が見える会場になります」

「いい。すぐ告知を出そう」

 義尚が立ち上がりかけたので、未華は筆の先で畳をとん、と押した。

「まだです。花粉の強い花は避ける。香りが強すぎるものも食事の近くには置かない。高齢の方の通路をふさがない。持ち寄りの花を捨てる方法まで決めてからです」

 義尚は膝を戻した。

「……待ちます」

「ありがとうございます。待つのも、会場の仕事です」

 廊下で聞いていた統偉が、木札へ『即決禁止・花粉確認』と書き足した。

「新婚の家の壁が、どんどん役所みたいになっていくな」

「統偉さんの字が読めないので、まだ役所以下です」

 未華が言うと、義尚が噴き出した。統偉は大げさに胸を押さえた。

 案がまとまりかけたころ、白峰楼に一組の夫婦が訪ねてきた。

 豆腐店の佐吉と、妻のお房。二人とも七十を過ぎている。若い頃、店の借金と親の介護で式を挙げられず、気づけば半世紀近く一緒に豆腐を作ってきたという。

「派手なのはいらないんです。ただ、あの大広間で、ありがとうと言いたくて」

 お房が照れくさそうに笑う。

 佐吉は義尚と未華を見比べ、白い眉を下げた。

「夫婦ってのは、毎朝同じ鍋の湯気を見ることだよ。愛だのなんだのは、あとから名前がつく」

 二人は、再開後最初の婚礼を白峰楼へ正式に申し込んだ。

 夕方、統偉に案内されて白峰楼の裏庭へ回ると、小さな温室が雪囲いの骨のように立っていた。割れた硝子から冷たい風が入り、棚には枯れた鉢が並ぶ。その奥で、黒ずんだ幹の椿が一本、細い葉を残していた。

「これが雪待ち椿だ。保存組合の共同温室で育ててたんだけど、暖房が壊れてから誰も手を入れられなくてな」

 義尚は近づき、幹を見た。

「咲けば、宣伝になる」

 未華は反射的に顔を上げた。

「咲くことを仕事にしないでください」

 義尚は言葉をのみ、すぐに頭を下げた。

「すみません。白峰楼を残す理由に、また利用しようとした」

「利用ではなく、世話をしてください。咲くかどうかは、そのあとです」

 未華は枯れ枝を切りすぎず、根元の土だけを確かめた。水は足りないが、腐ってはいない。まだ、残っている。

 二人で割れた硝子を片づけるうち、未華の指先に細い赤が走った。

「手を」

 義尚の声が、一瞬で硬くなる。まるで大事故でも起きたように布を探し、薬箱を落としかけ、統偉に「落ち着け、指だ」と笑われた。

「契約に看病は禁止と書いていません」

 未華が言うと、義尚は真剣な顔で消毒をした。

「痛みますか」

「少しだけです」

「寒くないですか」

 聞く前に羽織を脱ごうとして、義尚は手を止めた。未華が答えるのを待っている。

 それがわかって、未華の胸が小さく温まった。

「寒いです。貸してください」

 義尚は静かに羽織を渡した。肩にかけた布には、外の空気と木の匂いが残っていた。愛は心が向かうこと。愛情は、相手が寒くないよう戸を閉めること。未華は伝説の言葉を、初めて昔話ではなく、今日の温度として受け取った。

 夜、一日一問の時間。台所の木札の下で、未華は湯呑みを両手で包んだ。

「ご両親は、愛し合って結婚したのですか」

 義尚の目が、少し遠くなった。

「そう聞いています。けれど別れる時は、互いの一番柔らかいところを選んで傷つけ合っていた。好きだったからこそ、相手の弱い場所を知っていたんでしょう」

「だから、愛より契約の方が信用できるのですか」

「契約は、少なくとも破った時に破ったとわかる」

 未華は反論しなかった。その考えに至るまで、義尚にも長い時間があったのだろう。簡単な言葉で否定したくなかった。

 義尚の番になる。

「あなたは、愛のある結婚をしたかったのですか」

 未華は湯呑みの水面を見た。そこに映る自分は、契約書に判を押した女で、父の借金を信じて働いてきた娘で、まだ欲しいものを確認中の花屋だった。

「考えたことがありません。選べると思っていなかったので」

 義尚は息を止めたように黙った。慰めの言葉は来なかった。ただ、台所の障子が少し開いていることに気づき、彼は立って閉めた。

 障子の向こうの事務机には、午後に佐吉とお房から預かった婚礼希望書が置かれていた。若い頃には選べなかった祝言を、半世紀を経て二人が自分で選び直すための紙だった。

 夫婦共同承継条項に必要な、地域住民の婚礼一組。けれど未華にはもう、数字の条件ではなく、長い暮らしの先に咲かせる一輪に見えていた。

【終】