雪椿の契約花嫁――愛情禁止の旦那様と、つぶれかけ商店街を立て直します

第3話 麻辣湯は涙の理由にならない

 契約第七日の朝、白峰楼の事務机に商店街の地図が広げられた。

 未華は赤鉛筆で、豆腐店、和菓子店、写真館、古本屋、呉服店へ印をつけていく。水路の段差、冬に凍る石畳、足腰の悪い店主の家まで、余白はすぐ文字で埋まった。

「説明会を一度開けば、全員に話せます」

 義尚が言うと、未華は首を振った。

「一度では足りません。店ごとに営業時間も困り事も違います。会場だけ直しても、そこへ来る道が不便なら、お客様は戻りません」

 統偉が脚立を担いで通りかかった。

「新婚初散歩が営業回りか。白峰楼らしいな」

「営業ではなく、確認です」

 未華が返すと、義尚も地図を畳んだ。

「では、確認回りへ行きましょう」

 花霞商店街は、午前の光で格子戸の影が石畳に縞を落としていた。豆腐店では、白い湯気の向こうから老夫婦が顔を出す。

「あらまあ、本当に奥さんになったの」

「契約――」

 義尚が口を開いた瞬間、未華の肘が彼の脇腹へ入った。

「白峰楼の再開について、お話を伺いに来ました」

 豆腐店の夫婦は、冬場の坂道が怖いこと、若い頃に式を挙げられなかったことをぽつぽつ話した。義尚は何度か資料を出そうとしたが、未華が相槌を打つ間は黙って待った。店を出るころには、記録用紙が文字でいっぱいになっていた。

 和菓子店では祝い菓子を任せてと言われ、写真館では古い婚礼写真を見せられた。呉服店の女将には「腕くらい組んで歩きなさい」と笑われる。二人は言われるまま腕を組んだが、三歩目で歩幅が合わず、未華の雪駄が脱げかけた。

「すみません」
「こちらこそ」

 同時に謝る二人を見て、女将が腹を抱える。

「仲が悪いんじゃなくて、慣れてないだけね」

 その帰り、凍った石畳に未華が足を取られた。義尚の手が、考えるより先に前へ出る。触れる寸前で止まった手のひらを、未華は一瞬見てから、袖口だけをつかんだ。

「ありがとうございます」

「干渉ではありません。安全確保です」

「はい。安全確保として記録します」

 真面目な会話なのに、少しだけ笑えてしまった。

 昼は、海七の麻辣湯の屋台だった。花守屋の軒先で、春雨、豆腐、きのこ、青菜が赤い湯気を立てている。

「白峰さん、辛さは一から十まで。おすすめは十です」

「では十で」

「待ってください」

 未華の制止は半拍遅い。海七は涼しい顔で赤い油を足し、統偉はどこからか現れて端末を構えた。

「白峰楼再開広報、第一弾だな」

 一口目で、義尚の背筋が伸びた。二口目で額に汗が浮かび、三口目で目から涙が落ちる。

「……深い味です」

「それは感動ではなく香辛料です」

 未華は水を差し出し、酢を少し足した小皿も置いた。

「無理に完食しないでください。食べ物にも体にも失礼です」

「契約に、食事の中断は敗北とありますか」

「ありません」

「では、中断します」

 義尚が素直に箸を置くと、統偉が撮った写真に周囲の店主たちがどっと笑った。投稿には、涙目の義尚、冷静に水を渡す未華、背後で笑う海七が写っている。

『新婚支配人夫婦、昼食ではそろって涙。白峰楼、再開準備中』

「統偉さん」

 未華が低く呼ぶと、統偉は手を合わせた。

「大丈夫だ。愛情の水差し付きって書いといた」

 写真は思いがけず広がり、午後には白峰楼の前で写真を撮る人まで現れた。義尚は涙の名残を拭きながら、どこか楽しそうだった。

「こういう伝わり方もあるんですね」

「あります。でも次から辛さは三以下で確認してください」

「四では」

「三です」

 鍋を洗っていた海七は、未華と二人になると声を落とした。

「未華ちゃん。父さん、仕入れの帳簿を二つ作ってると思う。花守屋に置く分と、組合に見せる分」

 未華の手が止まる。

「証拠はある?」

「売上控えと仕入れ伝票の数字が合わない日がある。捨てろって言われた紙も、少し残してる。でも、今はまだ怖い。店も家も、父さんが握ってるから」

 未華は責めなかった。自分も長く、同じ言葉に縛られていた。

「決めたときでいい。記録が消えていないことだけ、確認して」

「怒らないの」

「怒る前に、事実を残したい」

 海七は鍋の縁を握り、こくりとうなずいた。

「未華ちゃん、少し変わったね。前は何でも飲み込んでた。今は、自分で辛さを選び直してる顔をしてる」

 夕方、白峰楼に戻ると、聞き取り記録が机を埋めた。花守屋は装花、海七は祝い膳の一品、統偉は木工の席札と修繕、和菓子店は引き菓子、写真館は記念写真。

「統一感が薄くなりませんか」

 義尚が腕を組む。

「同じものに揃えるのではなく、同じ人を祝うために集まるのです」

 未華は豆腐店の夫婦の頁を出した。

「白峰楼だけが主役では、また孤立します。この町で暮らしてきた人の式なら、この町の店が役目を持つ方が自然です」

 義尚はしばらく黙り、記録用紙を丁寧にそろえた。

「採用します。会場全体の構成は、あなたに任せたい」

 自分の名で任された仕事だった。未華は記録用紙をそろえるふりをして、ほどけそうになる口元を隠した。

 夜、台所の木札には統偉の悪筆で『愛情の水差し可』『辛さ十は要承認』が増えていた。

 一日一問の時間、義尚は少し迷って尋ねた。

「なぜ、悠耶さんに名前を取られても黙っていたのですか」

「父の借金が増えると言われたからです。私が逆らえば、父の店も母の花も守れなくなると思っていました」

「今は」

「本当に借金があったのか、確認したいです」

 義尚は慰めの言葉で覆わず、うなずいた。

 未華も尋ねる。

「あなたは、私をかわいそうだと思っていますか」

 義尚はすぐ答えず、言葉を選んだ。

「思っていました。でも今日、違うとわかった。あなたは助けられるのを待つ人ではない。自分で確かめて、必要なら町ごと動かす人です」

「……それは大げさです」

「では、明日以降も確認します」

 真顔で言うので、未華は小さく笑った。

 夜更け、花守屋から持ち出した古い注文帳を整理していると、黄ばんだ頁から薄い椿の押し花が落ちた。

 そこには母の字で、こう記されていた。

『雪待ち椿――奇妙な花の伝説は、花嫁にだけ話すこと』

 花嫁。

 契約書の中でしかなかった言葉が、遠い昔の誰かの声をまとって、未華の前に立ち上がった。
【終】