雪椿の契約花嫁――愛情禁止の旦那様と、つぶれかけ商店街を立て直します

第2話 愛と愛情は別料金です

 花守屋の作業台に、契約書が三部、湯呑みが三つ、そして海七の落とした鍋蓋が一枚並んだ。

「九十日だけ妻に、って聞こえたんだけど。未華ちゃん、私の耳、山椒でしびれてる?」

 海七が鍋蓋を抱えたまま尋ねる。未華は契約書から目を離さずに答えた。

「耳は正常だと思う」
「じゃあ、頭のほうが事件だね」

 義尚は気まずそうに咳をした。

「事情を説明します。白峰楼は保存組合が維持していますが、白峰家の承継者が大きな運営議決権を持つには条件があります。婚姻届の受理日から九十日以内に、配偶者と共同で六十日分以上の運営記録を残し、地域の婚礼を一組、白峰楼で執り行うこと。審査日は九十三日後です」

「つまり三日以内に婚姻届を出さなければ、九十日間の記録期間が足りない」

「はい」

 義尚は、封筒から別紙を出した。そこには、未華の父の借金とされる金額と、義尚が用意する弁済資金、九十日分の報酬が書かれていた。

「真正な債務であると確認できれば、弁済資金を供託します。無効なら、その資金はあなたの独立支援金へ切り替える。白峰楼では共同支配人兼装花担当として働いてもらい、報酬は支払います。寝室は別。夫婦らしい接触も不要。恋愛感情も、愛情も要求しません」

 最後の言葉で、未華の指が止まった。

「義尚さん。この第七条、削除してください」

「第七条?」

「『双方は互いに愛情を持ち込まない』の部分です」

 義尚は、当然のように首を傾げた。

「恋愛を求めないという意味です。余計な負担をかけたくない」

「負担なら、言葉を分けたほうがいいです」

 未華は鉛筆を取り、契約書の余白に細い字を書いた。

「愛は求めません。でも、愛情まで禁じる夫婦では、客の門出を祝えません」

 海七が小さく「おお」と息を漏らす。

「たとえば、食事を用意すること。体調を気遣うこと。雪が吹き込まないよう戸を閉めること。相手の話を最後まで聞くこと。それまで禁止したら、私たちはただ同じ住所にいる業務委託先です」

「契約としては、その方が明確では」

「明確ではありません。人として必要な配慮を禁じておいて、婚礼会場で祝福だけ売るのは、筋が通りません」

 義尚は反論しかけ、口を閉じた。

 未華は金額の欄を最後まで見ず、別の頁を指さす。

「次に、父の借金の有効性確認。借用書、債権移転記録、花守屋の帳簿、白峰楼の旧運営会社の記録を双方で確認できるようにしてください」

「それは俺が調べます」

「私も確認します。私の父の名を使った話ですから」

「……わかりました」

「共同支配人としての報酬は、私個人の口座へ月ごとに支払い。債務処理資金とは混同しないこと。共同温室の修繕費は、私への支援金ではなく、保存組合への別枠申請にしてください」

 未華は、さらに一行を書き加えた。

「商店街や相手の権利に重大な損害を及ぼす事実を隠した場合、被害を受ける側は共同生活と業務を停止できること。停止しても、それまでの報酬請求権は失わないこと」

「厳しい条件ですね」

「隠し事をしなければ使わない条項です」

「自分の取り分を増やさないんですか」

「温室は私一人のための設備ではありません。直らなければ、商店街の店も婚礼の花も続きません」

 義尚の視線が、初めて契約書から未華の顔へ移った。

「正直に言うと、あなたは借金から逃れるために即答すると思っていました」

「自由は、誰かに買ってもらうものではありません」

 未華の声は震えなかった。震えないように、花鋏を握る手に力を入れていた。

「最後に、一日一問条項を入れてください。夫婦は毎晩、相手に一つだけ質問でき、聞かれた側は嘘をつかず答える。それから最終日に婚姻継続の申し出があれば、仕事と切り離し、二十四時間以内に本心で返事をすること」

「業務報告ではなく?」

「同じ家で暮らすなら、毎日一度くらい、相手のことをきちんと聞く時間が必要です」

 海七が湯呑みを置きながら笑った。

「愛情は別料金どころか、毎日質問付きかあ。白峰さん、辛さ十の麻辣湯より後から効くよ」

 その日のうちに、統偉が呼ばれた。証人欄に署名するためである。

「住所は屋号でいいのか?」
「だめです」

 未華と義尚の声が同時に重なり、統偉は筆を止めた。

「おお、夫婦初の共同作業が訂正印とは縁起がいいな」

 海七がもう一人の証人として名を書いた。翌朝、二人は市役所へ婚姻届を提出し、その受理日を契約第一日とした。

 私的契約書は未華、義尚、保存組合の立会人を務める統偉が一部ずつ封印して保管した。九十日後に婚姻を続けない場合へ備え、必要欄を記入した離婚届も封筒へ入れ、統偉へ預ける。提出は承継審査後、二人が改めて同意した場合に限ると別紙へ明記した。

 昌敬は花守屋の帳場で、未華が差し出した書面を握りつぶした。

「借金から逃げる気か」

「花守屋の勤務は、本日で終了します。今後の連絡は書面でお願いします」

「恩知らずが」

「恩があったとしても、賃金や借金とは別です。帳簿で確認します」

 言い返した後、未華は自分の足が震えていることに気づいた。それでも、格子戸を出るまで振り返らなかった。

 白峰家での初夜は、甘いものにはならなかった。

 義尚が「私生活には干渉しません」と言った直後、未華は廊下の非常口、台所の消火器、階段の手すりを順に確認した。部屋の前には、義尚が用意した木札が掛けられる。

『未華 起床六時 朝食要』
『義尚 起床五時半 朝食不要』

 通りかかった統偉が腹を抱えた。

「新婚というより工事現場の工程表だな。ついでに『愛情持ち込み可』って札も彫るか」

「まだ承認していません」

 未華が真面目に返すと、義尚がふっと笑った。笑った自分に、彼自身が少し驚いた顔をした。

 夜、別々の部屋へ入る前に、二人は台所の卓を挟んで向き合った。湯気の立つ茶だけが、夫婦らしい温度を持っている。

「一日一問、初回です」

 未華が言うと、義尚は背筋を伸ばした。

「なぜ、そこまで白峰楼を残したいのですか」

「祖母との約束だからです。子どもの頃、あの大広間で、ここは町の人が笑う場所だと教わりました」

 短い答えだった。けれど、嘘ではないとわかる間があった。

「では、俺から。あなたが一番欲しいものは何ですか」

 未華は湯呑みを両手で包んだ。独立資金。父の名誉。自由。どれも正しいはずなのに、自分の言葉として口に出せない。

「まだ、確認中です」

 義尚は笑わなかった。

「わかりました。確認が終わるまで待ちます」

 その返事は、湯呑みのぬくもりより長く手の中に残った。

 翌朝、保存組合の事務室に届いた書類を見て、義尚の顔色が変わった。白峰楼売却賛成の委任状。その一枚に、花守屋の組合員印が押されている。

 未華は印影を見つめた。

 父の店の名前が、また知らない場所で使われている。

 今度は、黙って見送るつもりはなかった。
【終】