雪椿の契約花嫁――愛情禁止の旦那様と、つぶれかけ商店街を立て直します

第10話 愛のない契約、その先

 第九十一日の朝、未華は花守屋の看板へ手をかけた。

 父が磨き、母が毎朝布で拭いていた古い木札は、長く風雪にさらされ、端が少し反っている。それでも墨の跡は読めた。未華は捨てずに店の奥へ掛け直す。両親の仕事を消すのではなく、そこから自分の店を始めたかった。

 入口には、統偉が夜明け前に届けてくれた端材の仮札を掛けた。

 未華花房。

 自分の名が、朝の光の中にある。たった四文字なのに、長く借り物だった場所へ、ようやく自分の足で立てた気がした。

 前夜、未華はほとんど眠れなかった。白峰楼の承継がなくても義尚と暮らしたいか。仕事の契約が結ばれなくても、夫婦でいたいか。何度問い直しても、答えは同じ場所へ戻った。九十日間の役目が終わった今なら、必要とされたからではなく、自分が望むから選べる。その確かめを終えてから、朝一番に看板を掛けた。

「読める?」

 隣で麻辣湯の屋台を片づけていた海七が、湯気の向こうから身を乗り出す。

「確認しました。まっすぐです」

「未華ちゃんの確認は信用できるけど、こういう時くらい『かわいい』とか言えばいいのに」

「……かわいいです」

「札が照れてるみたいに見えるね」

 海七が笑った。昨日、父に逆らった声の震えは、まだ完全には消えていない。それでも彼女は、父の店ではなく、自分の屋台として香辛料の瓶を並べている。二つの店は、これから共同温室で育てた草花と香草を分け合う予定だった。

 未華は夫婦であり続ける答えを出す前に、自分の仕事の始まりを整えたかった。返事を待ってもらったのは、迷うためだけではない。自分の名前を置く場所を先に決めるためだった。

 昼を過ぎ、未華は最初の注文を一件受けた。夕方、店先の影が長く伸び、前日の申し出から二十四時間が過ぎる少し前、白峰楼の門から義尚が歩いてきた。手には厚い封筒がある。未華の前で足を止めると、すぐには差し出さず、まず札を見上げた。

「いい名前ですね」

 その一言だけで、未華の肩の力が抜けた。妻の店、とも、白峰楼の装花担当、とも言わない。義尚は、札に書かれた名前をそのまま読んでくれた。

「これを確認してほしい」

 封筒から出てきたのは、婚姻契約ではなかった。白峰楼の共同運営契約書。装花監修権、意匠の名義表示、利益配分、解除条件、帳簿閲覧の範囲。未華の名が、どの頁にも正しく書かれていた。

「妻だから任せるのではありません。未華さんだから、白峰楼の花を任せたい」

 未華は一頁ずつめくった。感情で返事を急がない。喜びを理由に曖昧な書類へ署名しない。それは、九十日間で義尚が一番尊重してくれるようになった未華のやり方だった。

「第三条、変更履歴の保存期間を五年ではなく十年にしてください。花の仕事は、季節をまたいで似た注文が来ます」

「わかりました」

「第八条、私が欠席した会議で装花の仕様を決めた場合、決定ではなく仮決定にしてください」

「その通りです」

 すぐに頷く義尚を見て、未華は少し笑った。以前なら彼は、善意の速さで先に決めていた。今は、待ってから動く。

 修正箇所を赤で入れ終えると、二人は内容を読み返し、各頁に署名した。義尚は契約書を脇へ寄せ、両手を机の上に置いた。

「昨日の答えを聞く前に、言わせてください。俺は、あなたに必要とされたいんじゃありません。あなたが選ぶ人生の隣に、選ばれたい」

 義尚の声は、前日の白峰楼で気持ちを告げた時より静かだった。

「崩れた花より人を先に避難させた時。借金の肩代わりより、働いた対価と共同温室を条件に入れた時。怒っている時ほど、事実を確かめた時。俺が隠したことから、あなたが離れた時。どれも、俺にはできなかったことです」

 未華は紙の端を指で押さえた。一晩かけて確かめた答えが、ようやく自分の言葉になった。

「最初の契約には、愛を求めないと書きました」

「はい」

「でも、今は私が愛を渡したいです。義務ではなく、選んで」

 義尚は一度だけ瞬きをし、視線をそらさなかった。未華は、まっすぐ義尚を見る。

「法律上の結婚を、続けたいです」

 返事を終えると、二人は並んで白峰楼へ向かった。台所では、統偉が預かっていた封筒を両手で掲げて待っていた。

「これ、開けるだけで緊張するな。爆発物じゃないよな?」

「離婚届です」

「なおさら手が震えるだろ」

 三人で封を確認し、提出しない意思を声に出して確かめた。紙は裁断機に入れられ、細い白い帯になって箱へ落ちる。統偉がその上へ、木札を一枚置いた。

 相手の仕事と名前を奪わない。
 守るためでも大切な事実を隠さない。
 一日一問を続ける。
 契約は何度でも話し合って直す。
 愛を義務にしない。愛情を惜しまない。

「期限欄は?」

 義尚が尋ねると、統偉はのみを回しながら笑った。

「永遠って彫ると重いから、更新日は毎朝でいいんじゃないか」

「確認しやすいですね」

 未華が言うと、義尚も笑った。

 書類を片づけると、三人は共同温室へ向かった。雪待ち椿は、一輪だけ咲いていた。白に近い淡紅の花弁が、雪明かりを含むように開いている。

「伝説は本当だったんだな」

「温度と水分が合ったからです。昨日まで、誰も無理に開かせませんでした」

「それも愛情では?」

 義尚の言葉に、未華は答える代わりに花の向きを少しだけ直した。枝へ負担をかけず、咲いた花を宣伝の道具にしないための向きだった。

 数か月後、白峰楼で小さな祝言が行われた。法律上はすでに夫婦である二人が、商店街へ改めて挨拶するための式だった。会場の装花は一輪持ち寄り。未華の白無垢には、母の半纏の文様が裏地に縫い込まれている。海七の祝い膳には小さな麻辣湯が添えられ、統偉の椀だけ、やはり赤かった。

 入口には「愛情持ち込み可」と彫られた木札が掛かっている。悠耶は別の花屋で見習いを始め、自分で育てた小さな椿を、名札つきで未華へ渡した。未華は受け取ったが、許すとは言わなかった。札に悠耶自身の名があることを確かめ、静かにうなずいた。昌敬の席はない。空けてもいない。

 式のあと、雪見障子の前で義尚が言った。

「一日一問を、今日も使っていいですか」

「期限なしですから」

「今日、幸せですか」

 未華はすぐには答えなかった。白峰楼の格天井、商店街の人々の笑い声、共同温室で次の蕾をつけた椿、祝言の装花に添えた「未華花房」の札。ひとつずつ、目で確かめる。

「はい。確認できました」

 義尚が笑った。

 雪見障子の向こうで、春を待つ雪が静かにほどけていく。翌朝もきっと、二人は一つ問い、答えを待ち、戸を閉める。その積み重ねを、もう契約書で縛る必要はなかった。
【終】 【完】