第1話 花嫁候補は、花を捨てない
白椿は、傷を隠すのが下手だ。
花守屋の作業台で、未華は一本ずつ花首を持ち上げた。朝の冷気に締まった白い花弁は、わずかな茶色もよく目立つ。外側の一枚を外せば使えるもの。茎まで弱っているもの。水を替えれば昼までもつもの。
選り分けた椿を三つの桶へ移し、未華は最後の一本を光へ透かした。
「まだやってるのか。白峰楼へ運ぶぞ」
従兄の悠耶が、作業台の図面を勝手に巻き取った。未華が昨夜までかけて描いた、婚礼会場の吊り飾りの設計図だった。雪の斜面を思わせる白椿の流れに、山帰来の赤い実を散らしてある。
「その図面、梁の位置に合わせて直してあります。左側の金具は二点で留めないと――」
「細かいな。現場で見ればわかる」
悠耶は図面の右下に貼ってあった未華の名札を剥がした。代わりに、自分の判を押す。
もう驚きさえしなかった。同じことを繰り返されるうち、悔しさは声になる前に沈むようになっていた。
「お兄ちゃん、朝から人のもの取ると胃もたれするよ」
軒先では海七が、大鍋の麻辣湯をかき混ぜていた。赤い油の香りが、花屋の冷えた空気へ入り込む。
「家の仕事だろ。誰が描いても同じだ」
「同じなら、未華ちゃんの名前でもいいじゃない」
海七の声は穏やかだったが、悠耶は聞こえないふりをした。
奥の帳場から、昌敬が顔を出す。
「未華。借金を返したいなら、余計なことを言わず働け。おまえの父親が残した穴を、誰が埋めていると思っている」
「……はい」
父の借金。その言葉だけで、未華の喉には見えない手がかかった。
白峰楼は、花霞商店街の中央に建つ古い婚礼会場だった。格子戸の向こうに洋風の硝子窓がのぞき、雪見障子を開けば小さな庭へ続く。休業して三年。今日は再開へ向けた内覧会で、商店主や保存組合の関係者が集まっていた。
未華が花を運び込んだとき、吊り飾りはすでに大広間の梁へ上げられていた。
「金具を替えましたか」
見上げた瞬間、背中が冷えた。
図面で指定した環ではない。細く、口の浅い金具が、重量のある装花を一点で支えている。しかも向きが逆だった。
「こっちの方が目立たないからな」
脚立の上で、悠耶が得意げに言った。
「下ろしてください。今すぐです」
「始まる前に縁起でもないことを――」
梁が、みしりと鳴った。
飾りが傾き、白椿が雪崩のように揺れる。真下には、子どもを抱いた女性がいた。
「皆さん、壁際へ! 中央を空けてください!」
未華は花籠を投げ出して走った。女性の肩を抱き、通路へ押し出す。どこかで悲鳴が上がった。
背の高い男が、落ちかけた飾りへ手を伸ばす。
「支える!」
「そこではありません!」
未華は男の袖をつかんだ。
「花を押すと重心が外へ逃げます。木枠の中央を持って、右へ半歩!」
男は一瞬だけ目を見開き、すぐ指示どおり動いた。
「統偉さん、脚立を。上ではなく下から受けます!」
「了解。こういう号令なら百回でも聞くぞ」
大工の統偉が脚立を滑り込ませ、木枠を受け止めた。未華は結束を切り、長い装花を三つに分ける。吊るすための枝を短くし、花器へ挿し直し、床へ流れる形に組み替えた。
白椿は捨てなかった。傷んだ花弁を外し、向きを変えれば、まだ会場を飾れる。山帰来の赤を低い位置へ移し、崩れた雪山の麓に灯がともるように見せる。
数分後、危険な吊り飾りは、庭へ続く雪景色のような床置き装花へ変わっていた。
「こちらの方がいいわ」
先ほどの女性が、子どもの手を握りながら言った。
「近くで見られるし、椿の顔が一輪ずつ違うのね」
拍手が起きた。
「まあ、俺も最初から床置きに変えるつもりで」
悠耶が笑い、説明を始める。
未華は何も言わなかった。床に落ちた金具を拾い、向きと傷を手帳へ描き写す。使用時刻、異音の位置、避難にかかった時間。次に同じことが起きないための記録だけは、誰の名前になっても残さなければならない。
「褒められているのは、あなたの仕事では?」
先ほど飾りを支えた男が、未華の手帳をのぞき込んだ。
濃紺の羽織には、白峰家の雪輪紋が染め抜かれていた。白峰楼の再建責任者、白峰義尚だ。
「事故が起きかけたのですから、誰の手柄かより原因を残す方が先です」
「事故にならずに済んだ場合は?」
「次も起こさないために、原因を書きます」
義尚は、華やかな装花ではなく、未華の汚れた手帳をしばらく見ていた。
そこへ昌敬が進み出た。
「この有様です。白峰楼はもう限界でしょう。修繕へ金を捨てるより、開発会社へ売るべきです」
「捨てるかどうかは、今日の事故だけで決めません」
義尚は即座に返したが、その声には焦りが混じっていた。
内覧会の後、統偉が廊下の端で小声を落とす。
「承継審査は九十三日後だ。婚姻届を出してから九十日、夫婦で運営記録を六十日分、それに地域の夫婦の婚礼を一組。三日以内に相手を決めなきゃ、日数が足りない」
「わかっている」
「わかってる顔が、ぜんぜん結婚する顔じゃない」
「結婚に顔つきが要るのか」
「少なくとも、事故報告書を見つめる顔ではないな」
未華は聞こえないふりをして、花を片づけた。
閉店後。花守屋の格子戸を下ろそうとしたとき、義尚が一人で現れた。
手には、昼間の事故報告書と、厚い封筒を持っている。
「未華さん。あなたに頼みたい仕事があります」
「装花でしたら、店長を通してください」
「店長ではなく、あなたに頼みたい」
未華の手が止まった。自分の名を呼ばれて仕事を頼まれたのは、いつ以来だろう。
義尚は作業台へ封筒を置き、中から契約書を取り出した。
「九十日だけ、俺の妻になってほしい」
店の奥で、海七が鍋の蓋を落とした。
未華は義尚の顔より先に、契約書を受け取った。第一条、目的。第二条、期間。第三条、夫婦間の感情および私生活への不干渉。
五頁目までめくり、最初の頁へ戻る。
「白峰さん」
「義尚でいい」
「では義尚さん。第三条と第五条が矛盾しています」
「……どこが?」
「私生活へ干渉しないのに、妻として会場へ常時同伴する義務があります。それから、父の借金を肩代わりすると書いてありますが、借金が本当に存在するか確認する条項がありません」
義尚は、求婚した人の顔ではなく、答案を返された人の顔になった。
未華は契約書を閉じる。
「お返事の前に、修正が必要です」
【終】
白椿は、傷を隠すのが下手だ。
花守屋の作業台で、未華は一本ずつ花首を持ち上げた。朝の冷気に締まった白い花弁は、わずかな茶色もよく目立つ。外側の一枚を外せば使えるもの。茎まで弱っているもの。水を替えれば昼までもつもの。
選り分けた椿を三つの桶へ移し、未華は最後の一本を光へ透かした。
「まだやってるのか。白峰楼へ運ぶぞ」
従兄の悠耶が、作業台の図面を勝手に巻き取った。未華が昨夜までかけて描いた、婚礼会場の吊り飾りの設計図だった。雪の斜面を思わせる白椿の流れに、山帰来の赤い実を散らしてある。
「その図面、梁の位置に合わせて直してあります。左側の金具は二点で留めないと――」
「細かいな。現場で見ればわかる」
悠耶は図面の右下に貼ってあった未華の名札を剥がした。代わりに、自分の判を押す。
もう驚きさえしなかった。同じことを繰り返されるうち、悔しさは声になる前に沈むようになっていた。
「お兄ちゃん、朝から人のもの取ると胃もたれするよ」
軒先では海七が、大鍋の麻辣湯をかき混ぜていた。赤い油の香りが、花屋の冷えた空気へ入り込む。
「家の仕事だろ。誰が描いても同じだ」
「同じなら、未華ちゃんの名前でもいいじゃない」
海七の声は穏やかだったが、悠耶は聞こえないふりをした。
奥の帳場から、昌敬が顔を出す。
「未華。借金を返したいなら、余計なことを言わず働け。おまえの父親が残した穴を、誰が埋めていると思っている」
「……はい」
父の借金。その言葉だけで、未華の喉には見えない手がかかった。
白峰楼は、花霞商店街の中央に建つ古い婚礼会場だった。格子戸の向こうに洋風の硝子窓がのぞき、雪見障子を開けば小さな庭へ続く。休業して三年。今日は再開へ向けた内覧会で、商店主や保存組合の関係者が集まっていた。
未華が花を運び込んだとき、吊り飾りはすでに大広間の梁へ上げられていた。
「金具を替えましたか」
見上げた瞬間、背中が冷えた。
図面で指定した環ではない。細く、口の浅い金具が、重量のある装花を一点で支えている。しかも向きが逆だった。
「こっちの方が目立たないからな」
脚立の上で、悠耶が得意げに言った。
「下ろしてください。今すぐです」
「始まる前に縁起でもないことを――」
梁が、みしりと鳴った。
飾りが傾き、白椿が雪崩のように揺れる。真下には、子どもを抱いた女性がいた。
「皆さん、壁際へ! 中央を空けてください!」
未華は花籠を投げ出して走った。女性の肩を抱き、通路へ押し出す。どこかで悲鳴が上がった。
背の高い男が、落ちかけた飾りへ手を伸ばす。
「支える!」
「そこではありません!」
未華は男の袖をつかんだ。
「花を押すと重心が外へ逃げます。木枠の中央を持って、右へ半歩!」
男は一瞬だけ目を見開き、すぐ指示どおり動いた。
「統偉さん、脚立を。上ではなく下から受けます!」
「了解。こういう号令なら百回でも聞くぞ」
大工の統偉が脚立を滑り込ませ、木枠を受け止めた。未華は結束を切り、長い装花を三つに分ける。吊るすための枝を短くし、花器へ挿し直し、床へ流れる形に組み替えた。
白椿は捨てなかった。傷んだ花弁を外し、向きを変えれば、まだ会場を飾れる。山帰来の赤を低い位置へ移し、崩れた雪山の麓に灯がともるように見せる。
数分後、危険な吊り飾りは、庭へ続く雪景色のような床置き装花へ変わっていた。
「こちらの方がいいわ」
先ほどの女性が、子どもの手を握りながら言った。
「近くで見られるし、椿の顔が一輪ずつ違うのね」
拍手が起きた。
「まあ、俺も最初から床置きに変えるつもりで」
悠耶が笑い、説明を始める。
未華は何も言わなかった。床に落ちた金具を拾い、向きと傷を手帳へ描き写す。使用時刻、異音の位置、避難にかかった時間。次に同じことが起きないための記録だけは、誰の名前になっても残さなければならない。
「褒められているのは、あなたの仕事では?」
先ほど飾りを支えた男が、未華の手帳をのぞき込んだ。
濃紺の羽織には、白峰家の雪輪紋が染め抜かれていた。白峰楼の再建責任者、白峰義尚だ。
「事故が起きかけたのですから、誰の手柄かより原因を残す方が先です」
「事故にならずに済んだ場合は?」
「次も起こさないために、原因を書きます」
義尚は、華やかな装花ではなく、未華の汚れた手帳をしばらく見ていた。
そこへ昌敬が進み出た。
「この有様です。白峰楼はもう限界でしょう。修繕へ金を捨てるより、開発会社へ売るべきです」
「捨てるかどうかは、今日の事故だけで決めません」
義尚は即座に返したが、その声には焦りが混じっていた。
内覧会の後、統偉が廊下の端で小声を落とす。
「承継審査は九十三日後だ。婚姻届を出してから九十日、夫婦で運営記録を六十日分、それに地域の夫婦の婚礼を一組。三日以内に相手を決めなきゃ、日数が足りない」
「わかっている」
「わかってる顔が、ぜんぜん結婚する顔じゃない」
「結婚に顔つきが要るのか」
「少なくとも、事故報告書を見つめる顔ではないな」
未華は聞こえないふりをして、花を片づけた。
閉店後。花守屋の格子戸を下ろそうとしたとき、義尚が一人で現れた。
手には、昼間の事故報告書と、厚い封筒を持っている。
「未華さん。あなたに頼みたい仕事があります」
「装花でしたら、店長を通してください」
「店長ではなく、あなたに頼みたい」
未華の手が止まった。自分の名を呼ばれて仕事を頼まれたのは、いつ以来だろう。
義尚は作業台へ封筒を置き、中から契約書を取り出した。
「九十日だけ、俺の妻になってほしい」
店の奥で、海七が鍋の蓋を落とした。
未華は義尚の顔より先に、契約書を受け取った。第一条、目的。第二条、期間。第三条、夫婦間の感情および私生活への不干渉。
五頁目までめくり、最初の頁へ戻る。
「白峰さん」
「義尚でいい」
「では義尚さん。第三条と第五条が矛盾しています」
「……どこが?」
「私生活へ干渉しないのに、妻として会場へ常時同伴する義務があります。それから、父の借金を肩代わりすると書いてありますが、借金が本当に存在するか確認する条項がありません」
義尚は、求婚した人の顔ではなく、答案を返された人の顔になった。
未華は契約書を閉じる。
「お返事の前に、修正が必要です」
【終】



