夏休みが終わり、新学期が始まった。
いつもと変わらない朝の教室。まだうだるような夏の暑さが残っていて、教室のエアコンが気休め程度にしか効いていない。けれど、今日は空気が違っていた。
朝のホームルームで担任が「急な転校生が来た」と紹介し、教室の扉を開ける。
教室中の視線を集めて入ってきた青年は、背が高く、すらりとした体躯の美形だった。生徒たちのざわめきをものともせずに、彼は無表情で教壇に立つ。
「えっ、イケメン」「カッコよくない?」「何あの顔面偏差値」女子たちの黄色い声が一斉に飛び交う。
隣の男子も「うわ、やべえの来たな」と楽しげに笑っている。みんなが新しい転校生に注目して、教室中が浮き足立っていた。
ただ一人、梛だけはその場で固まっていた。左手首に巻かれた水引が、熱を帯びた錯覚に陥る。
言葉が喉元まで出かかって、でも形にならない。
名前を知らないはずなのに、その顔を見た瞬間、胸が潰れるほど痛んだ。苦しい。どうしてかわからないけど、無性に泣きたくなる。
担任に紹介されて、彼がおもむろに口を開いた。涼やかな声で名乗る。
「神楽坂柊です。よろしくお願いします」
その名前を聞いた瞬間、梛の目から涙が溢れ出た。
初めて聞く名前のはずなのに、魂が覚えている。勝手に涙が溢れて、いくら拭っても止まらなかった。クラスメイトが怪訝そうに梛を見ているのに気づいても、自分ではもうどうすることもできない。
声も出せずに、静かに涙を流す梛のもとへ、彼がまっすぐに歩いてくる。
迷いのない足取りで、泣きじゃくる梛の席の前で立ち止まる。
彼は少しだけ腰をかがめ、スッと手を伸ばしてきた。その指先が、さりげなく梛の左手首に触れる。巻かれた紫色の水引の上を、彼の指がゆっくりと、まるで獲物に印を刻むようにトレースした。
真夏の教室だというのに、驚くほどひんやりと冷たい指だった。
「お前が願ったんだからな。責任とれよ」
クラスメイトの騒ぎが、遠くで水底の音のように聞こえる。まだ涙は止まらないけれど、どうしてだろう。ちっとも怖くなかった。
柊は誰にも見えない角度で、梛だけに極上の笑みを浮かべる。
「ずっと一緒にいてやるよ、梛」
自分の名前を呼ぶ、柊の低い声が、鈴の音のように梛の魂を震わせた。
教室の窓から見上げた夏の青空。その向こう側に、あの夜の漆黒が透けて見える。
記憶の底に沈んでいた花火の音が、今、心臓の鼓動と重なるように、鮮やかに空で弾けた。
【終】



