神隠しの幼馴染が、夏を追いかけてくる。


 凪いだ水面のような、低く冷たい声が境内に響き渡った。
 それだけで、さっきまで騒いでいた異形たちが一斉に静まり返る。彼らはみなその場にひれ伏し、恐怖で震えている。
 微かに鳴り響いていた鈴の音もピタリと止んでいた。聞こえるのは風の音だけ。
 
 顔を上げた梛の視界の先に、一人の青年が歩いてくるのが映った。
 背が高く、すらりとした体躯に、深い藍色の着物。闇を湛えた長い黒髪を高い位置で一括りにし、肌は月明かりのように白く透き通っていた。青年の姿は人間そのものだったけれど、その瞳だけは違った。
 血のような紅い瞳は、薄暗がりの中で爛々と輝き、紛れもない異形の目をしていた。
 それでも、梛にはわかってしまった。
 数年分、大人びたその姿は、息をのむほど美しかった。けれど、その瞳に宿る変わらぬ意志の強さに、梛は言葉を失う。
 何年経っても忘れるはずがない、面影が確かにそこにあった。

「……しゅ、」
 喉の奥で震えた名前は、ふいに伸びてきた冷たい指先に封じられた。
 柊の手は、氷のように冷たい。けれどその感触は、ずっと夢見ていた体温そのものだった。
 
「ここでその名を呼ぶな。もうお前を守れなくなってしまう」
 
 柊は、なおも隙を窺う異形たちを紅い瞳で一瞥し、「下がれ。俺の客だ」と静かに命じた。その一言だけで、境内から異形の気配が一瞬にして消え失せた。
 何事もなかったかのように、境内に元の喧騒が戻っていく。

「あ、良かった~。喰われる前で! 相変わらずタイミングいいねえ。おかげで僕の出番なかったじゃん!」
「うるさい」

 梛をここへ案内したキツネ目の青年が、気の抜けた声とともに再びひょっこりと顔を出した。それを一瞥もせずに柊が手を一振りすると、その体は「ぎゃああああ~っ」という叫び声とともに闇の中に消えていった。跡形もなく。

「ちょっとした使いもまともにできねえのかよ、あのキツネは」
 眉をひそめ、呆れたようにため息をつく仕草が昔のままで、梛の胸はきゅっと締め付けられる。
 
「立てるか?」
 差し出された手を握ると、ひやりと冷たい。けれどその力強さに、梛は涙をこらえながらしがみついた。すると柊にぐっと引き寄せられる。

「しゅ、」
「だから名前を呼ぶなって」

 咎めるような声音に口を噤むと、柊は梛をひょいっと抱きかかえた。簡単に抱えられて驚いているうちに、ふわりと体が宙に浮く。
 慌てて彼の首にしがみつくと、「落とさねえよ」と小さく笑う声が頭の上から降ってきた。
 
 柊はいくつもの灯篭の上を足場にして軽々と跳び、あっという間に神社の裏山の、二人だけの秘密の場所へと移動した。
 小学生の時、梛が見つけて柊を連れてきた、二人の特等席。
 神社の裏手の小さな崖の上にある古びた祠のそばに生えた大きな木の根元に、並んで座って、いつもくだらない話をしていた。街が一望できて、景色が綺麗で。何より、この場所からは花火が一番綺麗に見えるのだ。
 
 だから、あの日は一緒にここで花火を見ようと約束した。
 柊は音もなく地面に降り立ち、抱えていた梛を慎重に降ろした。見覚えのある景色が広がっている。
 眼下には現世の街並みが輝いていて、神社の境内では今も祭りが続いているようだった。

「……ここ」
「ほら、花火はじまるぞ」

 柊の言葉が終わらないうちに、大きな花火が夜空に一輪咲いた。耳を震わせる轟音。遅れて二発、三発。夏祭りの花火大会が始まったのだ。色とりどりの光が次々に夜空に花開き、散ってはまた開く。
 「やっと果たせたな」と小さく笑う柊の顔を、梛は夢中で見つめた。
 子どもの頃の約束が、今果たされた。
 毎年一人で見ていた花火が、今年はなぜか違って見えた。隣に柊がいるだけで、こんなにも鮮やかに輝いて、美しく見える。
 そのまま二人で並んで、夢みたいに綺麗な花火をしばらく眺めた。

「何か食べ物持ってくればよかったな」
 思わずそう呟いた梛の声を拾い、柊が苦笑する。
「相変わらず食いしん坊だな」
「……違うし」
 むっと口をへの字に曲げながら隣の顔を見上げて、息を呑んだ。
 
 花火の光に照らされた柊の左のこめかみから頬にかけて、うっすらと何かの模様が浮かび上がっている。鱗のような、細かな線で描かれた幾何学模様。
「これか」
 柊は梛の視線に気づき、躊躇いがちに自分の頬を指先でなぞった。
「怖いか?」
「ううん。綺麗だよ」
 首を振る梛に、柊はほっとしたのか少しだけ表情を緩める。
 その柔らかい笑みを見つめていると、懐かしくて、梛もつられて笑顔になってしまう。
 柊と一緒に花火を見ることができて嬉しい。そんな単純な喜びで、気持ちが舞い上がってしまう。
 花火大会のクライマックスが近いのか、連続して大きな花火が打ち上がる。明滅する光が二人の顔を映し出していた。

「やっと、笑ったな」
「え?」
「毎年、死にそうな顔して花火眺めてたろ? 俺のこと、いつまでも忘れないで。ずっと背負いこんで……もう、いいのに」
「なんで」
「毎年見てたから」
 それだけ言って、柊はまた花火の方に顔を向ける。
 梛は胸が苦しくなって、きつく唇を噛んだ。じわじわと目に涙が溜まってくる。

「ごめん。あの日、俺、お前のこと巻き込んで。俺のせいで」
 ずっと伝えたかった謝罪だった。言い終わらないうちに、目尻に冷たい指が触れる。

「お前のせいじゃない。俺が勝手に行動しただけ」
 柊は困ったような顔で、それでも愛おしそうに笑って、梛の涙を拭ってくれた。細く長い指が、壊れものを触るみたいに優しくて、冷たくて、心地よかった。

「約束果たせてよかった。俺もお前と一緒に花火見たかったから」

 その声があまりにも切なくて、柊の言葉が「最後」の響きを帯びていることに梛は気づいてしまった。
 クライマックスを終えた花火が、ぽつぽつと間を開けながら小さな光を咲かせては消えていく。もうすぐ花火が終わるらしい。

「もう、心残りはなくなったな」
「嫌だ」