けれど、今日はいつもとは違う気配があった。月が完全に隠れているからだろうか。
風に乗って微かに甘い匂いが届く。嗅いだことのあるような、懐かしい花の香り。神社の鳥居をくぐった瞬間、人通りがあるはずの参道から気配が消えた。
前方にポツンと小さな露店があった。ぼんやりと青白く輝く燈篭の下で、不思議なお面が並んでいる。
「良かった~。今年もちゃんと来てくれて!」
のんきな声が暗闇の中から突然飛んできた。現れたのは、色鮮やかな衣装に身を包んだ背の高い青年だった。派手な化粧と尖った犬歯を見せながら、ニイッと不気味に笑っている。
普通じゃない。けれど、なぜか怖くはなかった。
「……あなたは?」
「僕? まあ見ての通りのモノだけど。君はあいつの大切なヒトだろう? ずっと待ってたんだよ」
よくわからない言葉に戸惑う梛に、青年は腰を曲げて顔を覗き込んでくる。鼻先が触れそうな距離まで近づくと、囁いた。
「今日なら会えるよ。今日はお祭りで、特別な日なんだ。大丈夫、『行く』だけならお互いの記憶が消えたりしない。案内するよ。ってか一緒に来てくれないと、俺が怒られちゃうんだよねえ。お願い!」
「会えるって……誰に?」
「決まってるじゃん。君がずっと会いたがっている奴だよ」
青年はキツネのような細い目をさらに細めて、手に持っていたお面を差し出してきた。狐の形をした白いお面で、金色の模様が綺麗に描かれている。
戸惑いながら受け取ったそれは、縁日でよく売っているものと変わらないように見えるのに、どこか現実離れしていた。
「被ったら、あっちに行けて会える。ただ、君の場合気をつけないと……ってコラ!」
梛は、青年の言葉を最後まで聞かずに、そのお面を顔に押し付けた。もう一度柊に会えるのなら、あやかしに喰われても構わない。そう思うほど、梛の渇望は限界に達していた。
視界が遮られると、すべての音が一瞬にして消える。耳の奥で、あの日の鈴の音が一斉に鳴り響いた。
そして、被っていたお面がスッと溶けるように消え去り、視界が開けた時、梛の目の前に広がっていたのは、さっきまでの境内とは全く違う景色だった。
空気はひんやりと湿っていて、足元からは霧が立ち昇っている。参道の両脇に立つ燈篭の灯りは紫色に揺らめいていて、見慣れたはずの境内がこの世のものとは思えない妖しい美しさに包まれていた。
人の姿はなく、代わりにそこを歩いていたのは、人の形を模した何かだった。
獣の耳や尾、鳥の翼を持つ者、一つ目の者、歪な影のような者。耳の奥の鈴の音は、それら異形のモノたちの声や衣擦れの音に変わり、賑やかな喧騒が境内を満たしていた。
梛は言葉を失って、ただその異様な光景を茫然と見渡していた。
「おい、あれニンゲンじゃねえか」
「本当だ。どうやって入ってきた」
「うまそうな魂だな」
複数の異形の目が、梛の姿を捉えた。
好奇心や悪意、そして明確な空腹を感じさせる視線に貫かれて、やっと恐怖が込み上げてきた。足がすくんで動けない。息が上手くできない。
『お前の魂は、あやかしに好かれやすいから気をつけな』
幼い頃、聞き流していた祖母の言葉が頭の中でこだまする。冷たい汗が背中を伝い、心臓が早鐘を打つ。
もしかして、柊もあの日、こんな風に騙されてこっちへ来て、こいつらに食われてしまったんじゃないか?
自分の罪深さを目の当たりにして、梛はその場にへたり込んだ。視界がにじむ。膝の上で両手をぎゅっと握りしめ、震えながら今この場にいない幼馴染へ向けて懺悔した。
「早く喰っちまおうぜ」
梛を取り囲んだあやかしたちが牙をむく。無数の鋭い爪が梛に向かって伸びてきた、その瞬間。
強風が吹き荒れて、すべての異形の腕が弾け飛んだ。
「——俺のモノに触れるな」



