それから20分後、沢田家では。
「……ただいま」
沢田空は、暗い顔で帰宅したことを誰にともなくボソッと告げた。
いつもは返事がなく静まりかえっているのだが、今日は珍しくリビングの方からひょっこり空の母が顔を出す。
「あら、おかえり空。テストどうだった?」
「あ……うん」
「あ、うん。って、お前は金剛力士像か!」
母は「ほほほ」と笑いながら空の頭をハリセンで張り飛ばした。
空は表情を変えずに頭を押さえた。
「あっ、ごめんね空。つい昔のクセが出ちゃって」
そう言って微笑む空の母は、かつて宝塚歌劇団宙組のトップスターで五年間活躍し、あまりの美しさに皆が女王と呼んで平伏すほどの大女優だったのだが、今は演劇の世界から引退し、近所の飲食店でアルバイトをしている。子供の頃からウェイトレスをやるのが夢だったのだそうだ。
ちなみにハリセンを肌身離さず持っているのは、母が関西出身だかららしい。
どんな小さなボケにも突っ込んでくるので、空は昔から母のことを恐れていた。空が極端に口数のない子に成長してしまったのは、確実に母からのハリセンを恐れた結果だと思われる。
「それより、こっち来て! 見てみて、ほらーっ」
母はそんなことを知ってか知らずか小娘のようにはしゃいで、空と無理やり腕組みをしてリビングに引っ張った。
「何……」
「ジャジャーン!」
そこにはリビングの1/3を占める大きさの巨大なクリスマスツリーが飾られていた。
「なんで……」
「やあねえ、明日は七夕でしょ? 七夕飾り、一人で飾るの大変だったんだからー!」
「いや、でも……」
これはどう見てもクリスマスツリーだろうと言いかけた空だが、よく見るとモミの枝に短冊がぶら下がっている。
「空も書く? 短冊。いいわよ、遠慮なく書いて飾りなさい!」
母がキラキラした瞳でマジックペンと短冊を渡すので、空は黙って受け入れた。
母がはしゃぐのも無理はない。
「いよいよ明日ねーっ! お父さんが帰ってくるの!」
「……うん」
それは、二日前のことだった。
カムチャッカ半島あたりで消息を絶っていた父から、突然の「帰る」コールがあった。吟遊詩人をしている父が帰ってくるのは、実に四年ぶりのことだった。
「まったく、彦星だって一年に一回は織姫に会いにくるっていうのに、あの人ったら四年ぶりよ! こ○亀の日暮熟睡男か!」
母のハリセンが空の頭でスパーン! と炸裂した。
平成生まれの空には訳のわからないツッコミだったが、母はそんなこと気にしない。
「というわけで、明日は家族3人水入らずで七夕を楽しみましょうね、空!」
──明日の6時、枇杷島の白鳥橋の上で待ってるから。
──来てくれるよね、沢田くん。
空の脳裏に、涙を浮かべた佐藤景子の顔が蘇る。嬉しそうにはしゃぐ母の顔がそこに重なる。
「………………」
「なんか言わんかいっ!」
母のハリセンがスパーン! と目を閉じた空の頭で炸裂した。
◇
それから一夜明けて、ついに枇杷島花火まつりの日がやってきた。
私はワクワク1%、不安99%の心境で、この日のために買ったばかりの浴衣に袖を通す。薄い水色地に朝顔をあしらった爽やかな綿麻の浴衣で、帯は赤だ。
沢田くんは来てくれるのだろうか。
小野田くんは、沢田くんを本当に連れてくるのだろうか。
心配だけど、二人を信じるしかない。
夕方の枇杷島駅はすでに浴衣姿で溢れていた。
「おーい、景子ちゃん!」
「あっ、麻由香ちゃんと杏里ちゃん……」
人混みの中で、偶然いつもの顔に出会う。麻由香ちゃんも杏里ちゃんも髪をアップにして、いつもより濃いメイクでバッチリ決めていた。
「沢田は?」
杏里ちゃんが尋ねる。
私と沢田くんが別行動を取ることはみんなに了承してもらっていた。それなのに、私一人でいることを杏里ちゃんは不思議に思ったのだろう。
「まだ、沢田くんが来るかどうか分かんないんだ……」
「そうなんだ」
杏里ちゃんは私を励ますように笑った。
「まあ、頑張れよ」
「うん」
杏里ちゃんと森島くんも、今日でうまく行くといいんだけど。
祈ることしかできない自分を責めながら、二人とはそこで別れた。
さて、白鳥橋で沢田くんを待とう。
決意を新たに駅を出ようとした時だった。
「あ、あ、あ、あ、あ、あの……」
突然、丸サングラスに大きめなマスクをした背の高いおじさんが、夏なのにぶ厚いコート姿で私の前に立ち塞がった。
「えっ⁉︎」
「あ、あ、あ、あ、あ、あの……」
それさっき聞いた。デジャヴ?
おじさんはマスクとサングラスで表情が見えない。
なんだか怖い!! 変質者かも⁉︎
「な、なんなんですかっ⁉︎」
「あ、あ、あ、あ、あ、あの……あっ、ごめんなさい、同じこと言っちゃって。お前は壊れたレコードかっ! って思いましたよね、すみません」
いや、変質者だと思いました。
とも言えず、私は叫ぶタイミングを失ってオロオロしてしまった。
するとおじさんは、ペコペコしながら言った。
「い、い、い、今、さ、さ、沢田って……言いましたよね。あっ、ごめんなさい、盗み聞きとかじゃないんです、通りすがりにちょっと小耳に挟んでしまったというか。え、え、え、えーと、ごめんなさい、怪しい者じゃありません」
め、め、名刺を出します、と言いながら、おじさんは大きなキャリーバッグの蓋を開けた。
熱湯で温められたアサリ貝のようにバッグはいきなり全開になり、中身が飛び散る。
怪しい粉や、怪しい草や、怪しい民族衣装のようなものが入っていて、思いっきり怪しい。怪しいというしかないほど怪しい。おじさんはアワアワしながら、飛び散ったものを拾い集めている。
仕方ないので私も手伝った。
怪しさ満点だけど、悪い人じゃなさそうだったから。
その時、私はおじさんの荷物の中に、怪しい木彫りのお面があることに気がついた。
こういうの、どこかで一度見たことがあるなあ。
どこだったっけ。
「あ、あ、あ、あ、あ、すいません……。それは、息子へのカムチャッカ土産でして……」
おじさんが私の視線に気がついてペコペコする。
息子。木彫りのお面。海外土産。沢田に反応。異常に腰の低い、怪しげな態度……。
その瞬間、私の頭の中でスパークが起きた。
勢いよくおじさんの方に顔を向けると、おじさんは小鹿のように震えた。
その態度が、どっかの誰かの心の声にそっくりなんですけど!!
「あなたは、もしかして……!」

