沢田くんはおしゃべり


 その日、私は学校を早退してすぐに病院に向かった。
 沢田くんの心の声が聞こえなくなったのは一時的なもので、頭の怪我さえ治れば元に戻ると思ったからだ。
 それは半分願望で、もう半分はただの楽観で、どちらも何の根拠もないものだった。ただ絶望と諦観に心を明け渡すのが怖かっただけだった。

 頭の怪我自体は思ったより軽く、レントゲンと触診を受けただけで治療はすぐに終わってしまった。念の為聴覚テストも受けたけど異常なし。薬も痛み止めの抗生物質が出ただけだった。

「異常なしで良かったわね。まったく、景子がものすごい声ですぐ病院に行きたいなんて言うからどんなひどい怪我なのかと思ったら」

 パート中に無理を言ってついてきてもらった母親が、タクシーの車内で笑いながらため息をつく。
 
 異常ありまくりだよ。お母さんの本音が聞こえないの。
 今朝までちゃんと聞こえていたのに。
 異常があるなら治すことができるのに、何もないなんてどうしたらいいの?

「それより、明日から四日間テストなんでしょ? 学校休んじゃったんだから、家でしっかり復習しないとね」
「あ……テストのこと忘れてた」

 しっかりしてよ、と背中を叩かれる。確かに、集中しないとまずい。4月に沢田くんの隣になってから、授業はほとんど上の空だった。
 沢田くんの面白すぎる心の声に、それほど夢中だったんだと気づいた。


 家に帰ると、私は机に向かい、何時間もかけて出汁を取るようにじわじわと勉強の感覚を取り戻していった。
 でも、集中しかけるとすぐに「このまま治らなかったらどうしよう」と不安が現れて邪魔をする。
 結局、はかどらないまま夜が来て、明日の朝にはきっと治ると祈りながらベッドに入った。


 そして、テスト当日。

 耳栓をしていないのに、みんなの声が聞こえない。
 隣にいる沢田くんの声も。
 私の力は、失われたままだった。



 テストの一日目が過ぎ、二日目も過ぎ、とうとう三日目が来た。
 頭の痛みはほとんど引いたけど、私の耳は治らないままだった。


 三時間目。
 静かすぎるテスト中、私のひじで押し出された消しゴムが机から落ちて、沢田くんの足元に転がって止まった。
 拾おうとしたら、沢田くんがチラッとこっちを見る。
「……」
 何も言わずに私の消しゴムを拾う沢田くん。
 そして、何も言わずに私に消しゴムを渡す。

「ありがと……」

 私の言葉が聞こえなかったかのように、プイと横を向いてテスト用紙に向かう沢田くん。

 
 沢田くんって、こんなに冷たかったっけ?
 うん。表面的にはいつもこんな感じだったよね。
 しゃべらないし、無表情で、ありがとうとかごめんを言うのにも慣れていない。
 だからみんなに誤解されてて、黒王子なんて呼ばれちゃってて。


 でも、違うんだよ。
 
 本当は、とっても情けなくて、怖がりで、人と接するのが苦手なだけで。
 優しくて、純粋で、心の中でいっぱい私に向かっておしゃべりしていて。
 今もきっと、私のありがとうに対してどういたしましてと言えなかった自分を責めていて、土下座おじさんに相談して、のりせんべいおばさんに叱られて、勇気を出そうと精一杯頑張っているんだよね。


 でも、その声が聞こえない。
 聞こえないよ、沢田くん。
 当たり前のようにそこにあった、沢田くんの大好きな声が、聞こえないよ……。


 テスト用紙にポタポタと涙が落ちた。
 痛み止めの抗生物質なんてなんの役にも立たない。
 沢田くんへの想いで胸が千切れそうなのに。

 ずっとこのままなの?
 ……そんなの、嫌だ。


 せめて、沢田くんの誤解だけは解いていきたい。
 

 四日目のテストが終了した。

 いよいよ明日はみんなで花火に行けるねって盛り上がっている教室の中で、沢田くんは固い表情のまま通学リュックを肩にかける。
 沢田くんが帰っちゃう。
 私は意を決して沢田くんに声をかけた。


「さ、沢田くん!」


  沢田くんは驚いたように私を見た。
 冷たく凍りついた表情。迷惑しているようにも見える。
 でも、きっとそんなことはないと信じて、私は言った。


「明日の6時、枇杷島(びわじま)の白鳥橋の上で待ってるから」

 白鳥橋は花火が上がる河川敷の中央にかかっている大きな橋だ。欄干が赤くて可愛いので、恋人同士の待ち合わせスポットとしても人気だった。
 クラスのみんなに見つかる可能性は大だけど、それも覚悟の上でのことだ。
 私は堂々と沢田くんとデートしたい。
 
「来てくれるよね、沢田くん」
「えっ……」

 まっすぐに見つめると、沢田くんは困ったように目を泳がせた。
 何かを言いたそうな顔で、1分くらい黙ったあと、ついに彼は言った。


「ごめん……行けない」


 ガアアアアアーーン!!!

 まさかの返事に、私の体がリアルに傾いた。
 嘘だよね、沢田くん!
 あんなに楽しみにしていた祭りなのに、どうして……?
 もしかして、もう私嫌われたのかな……。
 目頭に溢れてきた涙で沢田くんの綺麗な顔が歪む。
 心が折れそうになったけど、私はギュッと唇を噛んでこらえた。


「私は、沢田くんと行きたいの! 沢田くんが来るまで、私……浴衣でずっと待ってるから!」