沢田くんはおしゃべり


「沢田くんっ……!」

 私はハッとした。
 こんなことをしている場合じゃない。
 おはぎの入ったお弁当箱を拾って、あんこが漏れないようにしっかりと蓋を閉めた後、私は慌てて立ち上がった。


 沢田くんの誤解を解かなくちゃ。
 私は森島くんやみんなと一緒に行きたいわけじゃない。
 沢田くんと。
 沢田くんと二人で、本当は行きたいんだって、ちゃんと伝えないと。


 私は蒸し蒸しする屋上をトップスピードで駆け抜けた。その勢いのまま、開けっ放しの金属のドアを抜け、階下へと続く階段を──。

「あっ……!」


 足が一瞬、宙を飛んだ。

 しまった。慌てすぎて、階段を一段飛ばししちゃった。
 放り出された足が、手が、思ったように動かずに、ただ地球の重力に包みこまれる。

 カラン、と沢田くんのお弁当の蓋が落ちる音がした。
 大変だ。
 沢田くんのおはぎが。

 いや、それどころじゃないでしょ。おはぎが。じゃないよ、何言ってんの私。

 今、私も階段を転がり落ちてるんだってば。

 角を転がるたびにあちこちぶつけて何回転かした後、最後に床へ顔から突っ込んだ。

「いっ……」

 痛い。痛すぎる。瀕死の虫みたいにうつ伏せになったまま、私は頭を押さえた。


「ちょ……っ、大丈夫⁉︎ 景子ちゃん!」
 すぐに誰かが駆けつけてくれる足音がして、肩をトントンと叩かれた。

 この声は、杏里ちゃん……だ。
 目を開けてそっと顔を動かすと、そこに思った通りの子がいた。
 私のことを心配してついてきてくれていたのかな。
 
「大丈夫。ちょっと転んだだけ……いたっ」
 私は肘でゆっくりと起き上がった。その瞬間、またズキッと頭が痛む。

「大丈夫じゃないって。うわ、ひどいなこりゃ。ぐちゃぐちゃ」
「えっ? そんなにひどい? 鼻血とか出てる?」
「いや、あんたじゃなくて、おはぎ」
 
 杏里ちゃんが私の胸で潰されたおはぎを指さした。
 当然、私の制服もあんこまみれだ。


「うぎゃあああああ!」
「体操服に着替えて制服洗って来なよ」
「うん、そうだね」
「っていうか、怪我はない?」
「それ、先に聞いて欲しかったんだけど」

 杏里ちゃんはクスッと笑う。

「うん、怪我は……ない」

 そう答えてみたけど、その時私はある違和感に気づいていた。
 なんだか、変。
 耳が遠いっていうか、いつもより雑音がしないっていうか。


 廊下を見る。
 いろんな生徒が昼休みで歩き回っている。 
 でも、誰もしゃべっていない。ううん、しゃべってはいるんだけど、その声が聞こえづらい。

 どうしたんだろう。難聴かな。
 でも、杏里ちゃんの声はちゃんとクリアに聴こえている。
 鼓膜が破れているというわけでもなさそうだ。
 
 
 引き波を前にしたみたいに、足元からゾワゾワとした不安が広がっていく。
 なんだろう、この違和感。
 まるで別の世界に来ちゃったみたいに、不自然な感じ。
 何かがいつもと違うのだけは分かっているんだけど。

「あれ……?」

 いったい、どうしちゃったんだろう、私──。



「そういえば、沢田とちゃんと話できた?」
 杏里ちゃんに言われて、私は屋上での出来事を思い出した。
 沢田くんが泣いちゃって、私が彼の後を追いかけていたことを。

「杏里ちゃん、沢田くん見なかった? 私より先にここを駆け降りていったはずなんだけど」
「さあ。見なかったな。あいつ忍者みたいだから」

 究極まで気配を消す沢田くんの奥義【おんみつ】を使ったのか。だとしたら杏里ちゃんが気づかないのもうなずける。

「沢田と何かあったの?」
「うん……ちょっと喧嘩になっちゃって」
 項垂れていると、杏里ちゃんがため息をついた。

「もしかして、前から沢田と二人で行く約束でもしてた?」
 顔を上げると、呆れ顔の杏里ちゃん。
「……うん」
「バカ。だったら迷わず二人で行けよ。クラスの奴らなんかに気を遣う必要ないって」

 じゅっと目頭が熱くなった。溢れてきた涙を手の甲でこする。

「うん。そうだね。本当にそう」
 どうして二人で行くのが絶望的だなんて思ってしまったんだろう。
 沢田くんを無駄に不安にさせてしまった。

「沢田くんに謝らなくちゃ」

 ついでにおはぎをつぶしちゃったことも謝ろう。泣きながらひっくり返ったお弁当箱におはぎを戻そうとした時だった。


「沢田」


 杏里ちゃんの声がしたから驚いて振り向くと、そこに無表情の沢田くんが立っていた。


「あたし、教室戻るわ」
 気を利かせてくれたのか、杏里ちゃんが髪をなびかせながら早足で去る。私たちの周りにはちょうど誰もいなくなった。


「あの……ごめんね、沢田くん! 沢田くんのおはぎ、うっかりつぶしちゃって……!」
 
 私は急いで潰れたおはぎを拾ってお弁当箱につめ直した。

「はい」
「……」

 お弁当を差し出したけど、沢田くんはしゃべらない。表情も変わらない。
 
 あれ?

 何か変。
 忘れかけていた違和感が蘇る。

「……沢田くん?」


 沢田くんは無言で私からお弁当箱を受け取った。そして、暗い顔つきで私をただじっと見つめる。


 ……あれ?
 あれあれ? あれ?
 どうしちゃったんだろ、沢田くん。いつもならこんな時、


【俺のお昼ごはんがおはぎだって佐藤さんにバレてしまった!! やっベー!!((((;゚Д゚))))))) しかもぺちゃんこになってますますブサイクに! まあ元々見た目はあんまり良くなかったけどね⁉︎ あああ、どうしよう。母ちゃんに怒られる。ダンプカーに轢かれたって嘘ついとく? いやダメだ、タイヤの跡がない!!!:(;゙゚'ω゚'): そ、そうだ! 通りすがりのお相撲さん集団がすり足稽古で踏んでいったことにすれば……いやダメだ、土ついてない!!!:(;゙゚'ω゚'):】


 くらいのことを言いそうなのに。
 それとも──やっぱり怒っているのかな?


「沢田くん……それと、さっきのことだけど」
 ごめんねと言いかけた瞬間、沢田くんはくるっと私に背を向けた。
 そのまま何も言わず、逃げるように走り去る沢田くん。

 ……どうしちゃったの、沢田くん⁉︎
 なんで何も言わないの?

 叫ぼうとしたら、ズキッと頭が痛んだ。ぶつけたところを触って、そこでようやく私は気づく。


 違う。
 沢田くんが変なんじゃない。
 変なのは私だ。



「……聞こえない……?」

 沢田くんの心の声が……聞こえなくなってる──。