シュレディンガーの三重奏

「あ、サンキュ。ありがと」

顔が熱を持ったように、熱くなった。

「ううん、大丈夫」

胸から肩の辺りまで。きっとわたしは、40℃の高熱を出していた。

熱い。

ただ、誠くんの落とした消しゴムを、拾っただけなのに。

(うわあ……しゃべっちゃったよ……)

何ごともなかったかのように、教科書をカバンの中に押し込むフリをして、緊張をごまかした。

何度もカバンの中を覗きこむ。

何度も何度も。

……きっと、まだまだ顔は真っ赤になってるはずだから。

「めっちゃ顔、赤いけど。大丈夫?」

ドキッとした。ドクドクと心臓が強く打つのが分かる。

「え?」

「いや、遠藤さん……顔が真っ赤だからさ」

消しゴムを渡した時のやりとりで、会話が終わったと思っていたわたし。

心臓がさらにギュウウ……と何かに包み込まれているような感じがして、呼吸が苦しい。

「あ、そうかな。そんなに赤いかな?」

わざとらしく笑ってみせるのが、わたしのできる精一杯。

そんなわたしとは対照的に、誠くんは落ち着いた様子で、じっとわたしに視線を送り続けてくる。

「熱でもあるの? 大丈夫?」
「え? 熱? ないよ、ないない」
「そっか。まあ……なら良いけど」

ようやく視線をそらしてくれて、何やら机の中の教科書をガサゴソとあさり始める。

(はあーー……)

音を漏らさないように。
周りの賑やかなしゃべり声に混ざるかのように。

わたしは廊下側を向いて、大きく息を吐いた。

(うわ……話しかけてもらえたよ)

人間って不思議だ。

さっきまで心臓が止まるほどの緊張感がわたしを包み込んでいたのに……

ホッとして落ち着いた瞬間、今度は自然と笑いが込み上げてきた。

込み上げてくる笑いを必死に飲み込む。

(ははっ……へへっ)

隠すように両手で顔を覆った。

(もうダメだ)

机の上に突っ伏すように寝たフリをする。両腕の中に顔を埋めるようにして。

(へへっ……やったあ! やったあ……)
(ちょっと……嬉しいんだけど……)

わたしは想像してみた。

もしも今、この教室にいる残り39人が突然消えたら……

わたし一人だけになったら。

きっと一人で、大声で笑ってると思う。

世界中にわたしだけになった勢いで。

誰にも聞かれる心配がないから。

「わあい!」
「やったあ!」
「ちょっとー!!」

みたいな。

いつの間にか貧乏ゆすりをしながら、小刻みに足を動かしていた。

タンタンタンタンとわたしの足元から不自然な音が周囲に流れていること。

わたしはまだ気付いていなかった。

そしてその状況を、誠くんに見られていたことに――。



「遠藤さんてさ、結構テストの点数良いんでしょ?」
「えっ? 何で知ってるの?」
「いや、1年生の時にウワサになってたよ。『頭良いみたいだよ』って言われてたよ」

消しゴム事件以来、誠くんと休み時間に話をするようになっていた。

どうやらわたしは『勉強ができる人』みたいなイメージが一人歩きしてるらしい。

別に自分ではそんなつもりは全くないけど。

変なイメージじゃないみたいだったから、必死に否定するのは止めておいた。

「就職どうするの? 遠藤さんて」
「え? ああ……就職ね……みんなちょっと考えてるっぽいけどさ。わたし正直、イメージ湧かないんだよね」
「そっか。そうだよね。まだ2年生になったばっかだし」

まだまだ話をしていると正直ドキドキする。

瑠香ちゃんや美月ちゃんと話をしてる時とちがう。

上手く言えないけど……集中して誠くんの話を聞いてるような感じがする。

でも消しゴム事件の日みたいな感じじゃない。

数日経ってわたしの脈拍は、どうやら落ち着を取り戻しているらしかった。

「誠くんは? 就職どんな感じで考えてるの?」

何気なく聞いたこの質問。わたしの人生を大きく動かすなんて。

「俺? 俺……就職はしないと思う」

(え? 就職しないかもって? ……何?)

「就職しない? じゃあどうするの?」

休み時間の教室は、いつもと同じで色々なところからみんなの声が飛び交っている。

でもなぜだろう?

わたしと誠くんの二人しかいないような感じに思えた。

周囲の音が、静かに消えていく。

「俺、大学に行こうと思ってるんだよね」
「大学?」
「そう。だからたぶん……就職はしない、かな」

工業高校に入学して、きっとどこかに就職するんだろうと、『勝手に』そうなるんだろうと、わたしは勝手に思っていた。

まるで小学校から中学校に上がった時のように。

『大学』

わたしの人生には1ミリも関係のないワードだった。

なのに。

「わたしも大学に行けるのかな」とか「大学ってどんなところなんだろう?」とか。

色々な想いが頭に浮かんでは、消える。

なんだろう。このワクワクした感じ…。

「君たちは将来、どういう進路に進みますか?」

中学2年生の時に、先生に言われた言葉。

急に頭の中に浮かんできた。

――あの時の先生の眼差しは、とても真剣だった。