シュレディンガーの三重奏

「じゃあ……採点するよ!」
「分かったから。とりあえず晩御飯食べてくれる? その後で良いでしょ」

私と冬華の視線を気にしながら、わざとらしく明るい声を出している夏穂。これから晩御飯時で、採点なんてできるわけないのに……。

「はあい」と分かっていたくせに、しぶったような返事をして、手元に模試の問題と解答を置いたまま、箸を手に取った。

「冬華はかなり点数取らないといけないんだよね、このテスト」
「……まあ、そうだけど。私はまだ1年だから関係ないね」

じっと見つめていた冬華も「ちょっと見せてよ」夏穂の問題を勝手に手に取った。やっぱりだいぶ問題が気になるらしい。

「ふーん……そっか」
興味なさげに問題を見ている冬華だったけれど、目の奥は真剣そのものだった。きっとリアルに高校3年生が受験した問題を見て、彼女なりに感じるものがあるんだと思う。

☆

「ママ! 採点するから。どっか行ってて」
「……どっか行っててって。あんたね……それなら自分の部屋でやりなさいよ」
「嫌だ。リビングでやりたいんだよ。すぐ終わるから。あっちの部屋に行っててよ」

晩御飯が終わり片づけをしていると、これみよがしに夏穂の声が飛んできた。小さい頃から何かにつけて、リビングというか……みんなが集まるところでやりたがる。

「じゃ、あっちに行けば良いのね」
「うん。ごめん。すぐ終わるから」
「……突然大きな声とか、出さないでよ? 夜なんだから」

「夏穂の気持ちも分かるな」と思い、麦茶とスマホを手に取ると和室に一旦入ることにした。

(どうなっていることやら……)

何があっても見守ろうと決めて、スマホを触ろうとした時だった。

「うわああ……」
ふすまの向こう。リビングから夏穂の鳴き声が聞こえた。採点にしては早いなと思いふすまを開けると、赤ペンを手に持ったまま顔をぐちゃぐちゃにして泣いていた。まだ解答と問題は閉じられているから、きっと想いだけが先走っているのも知れないなと思った。

(……はあ)

数秒しかいなかった和室から腰をあげて、夏穂の正面に座ると、一層大粒の涙が夏穂の頬を伝っている。

「……怖いの?」
「うん」

小さく頷いた夏穂を見ていると、これまで彼女なりにどれほど努力を重ねてきたのかが、痛いほど伝わってくるようだった。

「今まで頑張ってきたんでしょう? とりあえず採点してみたら」

私の口からは「大丈夫」という言葉は出なかった。

無言で頷いて、解答と問題をゆっくり開いて「はあ」とだけ息を吐く。ふすまは閉じられているけれど、あれだけの声で泣いていたら冬華もきっと気にしているはず。

「……ひろ子おばちゃんが言ってたよ」

すっと音を立てずにふすまが開き、冬華が静かにしゃべった。夏穂に向かって。

「……え?」
涙を袖で拭いながら、後ろを振り返り冬華に目を向けた。私も冬華が突然しゃべり出したことに驚いてしまった。

「だから。ひろ子おばちゃんが言ってたったば」
「……何を」
「今。今をしっかり頑張れって。今を頑張ることが大事らしいよ」
「……」
「あの時頑張ったから、今があるってことも言ってた」

両手で顔を覆ってしまった夏穂。きっと……冬華の言葉で色々な感情が溢れてきたんだろうと思う。

「……だから。採点しなよ。そこからまた考えれば?」
そういうと冬華は、澄ました顔のまま部屋に入っていった。

「……よし……」

くるりと私の方に態勢を戻すと、ティッシュで涙を拭いて採点を始めた夏穂。たった数秒間の出来事だったけれど……私は驚いて動けなくなっていた。