シュレディンガーの三重奏

「本当に行くんだ。ずっと冗談だと思ってた」

冬華は信じられないものでも見るかのような表情で、わたしに視線を送り続けた。「事故だけ気をつけなさいよ」と前向きな言葉をくれたのは、ママだけだった。

「はあい、じゃあ行ってきます!」
ビシッと敬礼ポーズを取ると、ママも冬華もぽかんとしていた。急に恥ずかしくなって、急いで鈍い音を鳴らしながら、アパートの階段を駆け下りた。

(よおし……いよいよ……!)

横浜予備校という塾で行われる、『大学入試共通テスト模擬模試』。受験生に混じって、2年生のわたしは受験を申し込んでいた。

試験範囲は高校2年間の内容らしいけれど、わたしは高校1年生までの範囲だけ解いて、何点取れるか試してみたかった。

磯子駅と根岸駅の往復ばかりのわたしには、土曜朝の横浜駅の雑踏は新鮮だった。スマホを頼りに横浜予備校に向けてぎゅうとマフラーの端を握りしめながら歩く。

受験生の人たちも最後の追い込み。12月の予備校には、真剣な表情をしている人たちがたくさん集まりはじめていた――

☆

「じゃあ……採点するよ!」
「分かったから。とりあえず晩御飯食べてくれる? その後で良いでしょ」

ママがやれやれといった表情で晩御飯をテーブルに運んできた。数学と国語だけの受験だったわたしは、他の受験生の人たちと違って1日だけで試験は終わった。

「どうせ低い点数なんじゃないの?」
「それは分からないけど」

ちょっと距離を置くような視線を向けてくる冬華とは対照的に「早く採点したいな」とわたしの気持ちは高ぶっていた。それはそう。この日のために頑張ってきたんだから。

本番の共通テストは1月にあるらしいけれど、わたしは目標をこの模擬テストに置いていた。理由は簡単で、年内に結果を出したいから。

(ママに宣言しちゃったから……)

冷静にわたしの話を聞いてくれていたけれど……あれは絶対に、心の中でビックリしていたはず。わたしには分かる。

「模試を受けたい」「大学に行きたい」

ママは落ち着いて聞いてくれてはいた。でも……「模試で結果が出なかったら、大学は諦める」この言葉を聞いた時のママの顔。きっとわたしは忘れることはないと思う。

高校1年生の範囲が、半分ほど取れていれば……ママにこれまでの努力を認めてもらえるとわたしは考えていた。

「ま、冬華はかなり点数取らないといけないんだよね、このテスト」
「……まあ、そうだけど。私はまだ1年だから関係ないね」

湯気が立ち上るおかずを前に、「ちょっと見せてよ」とわたしの問題を勝手に手に取る冬華。だいぶ問題が気になるらしい。

(……そうだよね。いずれ冬華の方が、このテストで高い点数必要になるんだもんね)

わたし自身もそうだけれど、「冬華、大丈夫なのかな」と心配になった。……正直言って、かなり難しかったから。栄ケ丘高校に行ってる人達は、これで満点近く取る人がいるのか……と、試験中に泣きそうになった。

「ふーん……そっか」
興味なさげに問題をじっと見て、そっとわたしに問題を返す。チラリと冬華に視線を送ると、しばらく何か考え込んでいて、ご飯を食べ始めていた――。

☆

「ママ! 採点するから。どっか行ってて」
「……どっか行っててって。あんたね……それなら自分の部屋でやりなさいよ」
「嫌だ。リビングでやりたいんだよ。すぐ終わるから。あっちの部屋に行っててよ」

ママの言葉を聞いて、「確かにそうだな」とは思ったけれど、なぜだろう。わたしはどうしてもリビングで採点をやりたかった。

共通テストは普通のテストと違っていて、マークシートだからテストが終わった日に自己採点ができる。まだ高校2年生のわたしにとっても、この採点は自分の未来を決める大切なテストだ。

「じゃ、あっちに行けば良いのね」
「うん。ごめん。すぐ終わるから」
「……突然大きな声とか、出さないでよ? 夜なんだから」

そう言うと、麦茶とスマホを手に取ってママは和室に入っていった。

(……よし、じゃあやるか)
(閉まってるね)

冬華の部屋のドアも閉めてある。わたしは自分のテスト問題と模範解答を用意して、さっそく採点を始めようとした。

(……あ)

カタカタと手が震えているのが分かり、不思議と涙が溢れてきてしまった。……まだ何も採点していないのに。泣くつもりなんて……全然ないのに。

「うわああ……」

涙が溢れて止まらなかった。問題用紙の文字がにじんで見えなくなっていく。

「はあ」とため息をつきながら、ママが部屋から出てくるのが分かると、何だか更に涙が後から後から頬を伝っていった。