シュレディンガーの三重奏

「あ、夏穂! 今日さ、部活ないから一緒に帰ろうよ」
「そうなんだ、良いよ、帰ろ」

学校から根岸駅までは高い建物がほとんどない。そのお陰で、学校の行き帰りは寒い風をダイレクトに浴びることになる。

(寒っむう……)

コートを着るかどうか微妙に迷う季節に入ると、つくづくわたしは夏が好きなんだなと思う。だから『夏穂』って名前なんだと最近思うようになった。

「ね、駅前の喫茶店寄らない?」
瑠香ちゃんが胸を弾ませながら、赤信号の時にわたしに言ってきた。最近めっきり一緒に帰ることが減ったけれど、なるほど瑠香ちゃんは大人の階段を上り始めているらしかった。

「あ……ごめんー! わたしお金持ってない!」
「なあんだあ。せっかく一緒にケーキ食べたかったのになあ」
「ごめん! 持っててもさ、あまり使えないんだよ」
「そうだよね、夏穂ちゃんバイト増やしてるよね」

これまで週2回だったバイトを週4回に増やしている。さすがに夏休みみたいに毎日バイトするわけにもいかないから……これが限界だった。

「そ。月曜と金曜も入れたんだよ」
「何。ブランド品でも買うってこと?」
相変わらず「面白い話かも」と感じるアンテナの感度は高いらしい。瑠香ちゃんのパパラッチぶりを何だか久しぶりに見れた気がした。

「いや……貯金だね。貧乏学生なの。わたし」
「貯金? 貯めてるの? 何のために?」
「ほら。前に宣言したじゃん」

お昼ご飯の時にみんなの前で宣言して以来、誰もわたしにツッコまなくなっていた。きっと忘れているんだと思う。

「え? ひょっとして、お昼の時言ってたヤツ?」
「そうだよ。大学行くからさ。わたし」

あれから2~3ケ月が経っていた。どうやら大学は国立大学というところがかなり安いらしいけれど、きっとわたしの学力じゃ無理と判断した。数もあまりないらしいし。

誠くんが言っていた通りで、推薦も確実じゃない。もちろん受かる可能性もあるけれど自分のやりたいことができない場合もある。

だからわたしは、学力で受験できるように、コツコツと問題集を買って勉強を続けている。

「あれ、本気だったんだ。まだ続けてるの?」
「そりゃそうだよ。本番は1年後だからね。コツコツやってるよ、勉強も」
「ひゅう~……夏穂ちゃん、スゴいじゃん! ガチ尊敬だ」

瑠香ちゃんにも美月ちゃんにも知美ちゃんにも、誰にも言ってない。だって「わたし、受験を目指して勉強頑張ってます!」なんて……毎日報告するのは変だなと思ったから。ちょっとだけママに気が向いたら報告するくらいにしている。

「どこ目指してるの? 大学」
「んー……家から通えるところ。でもインテリアを勉強したいなって思ってるんだよ」
「大学でもインテリアやるんだ?」
「そう。興味出てきたからさ。ずっと就職しようって思ってたけどね。もっと勉強したいなって」

うちの高校でもインテリアに関する資格を取ることもできる。就職もほぼ100%だから、最低限学校の実習を頑張っていれば、何の問題もない。

でもわたしは、英語や数学、理科を使って、もっと専門的にインテリアを勉強してみたいと思うようになっていた。だから大学はどこでも良かった。確か前にママが「大学は名前よりも何を学べるかが大切だよ」って言っていたから。

「ガチか。で、バイトもしてるんでしょ?」
「そう。1年分くらいの授業料ならさ、コツコツ貯めればいけそうだから。あとは……ママに相談だね。『1年分貯めたから、後は残り助けてください』って」

誠くんが進みたがっている建築科は、どうやら数学や理科を物凄く使うらしい。さすがに誠くんほどは勉強ができないから、建築科は諦めた。その分、せっかくインテリア科に入れたんだから、もっと専門的にやろうって思うことができた。

「夏穂ちゃんのお母さん、OKなんだ。夏穂ちゃんが大学行くの」
「いや? まだ聞いてない」
「ええ!? どういうことよ、それ」
「だって……前のわたし、あまりにバカ過ぎたから。ちゃんと受かるレベルになってからお願いするんだよ」

これはママから言われたことだから。ちゃんと毎日勉強して、バイトもして。ママが「それなら良いかもね」って言ってくれるところまで、わたしは頑張る。

……それに正直「そこまでやったの、スゴいじゃない!」って褒められたい気持ちもあるし。だから内緒で頑張っている。

「そっか~……じゃあケーキはしばらく無理だねー」
「理解してくれて嬉しいよ、さすが瑠香ちゃんだ」

喫茶店の前を、後ろ髪をひかれるような表情で通り過ぎる瑠香ちゃん。

「大学受かったらさ、一緒に行こうよ」
「そうだね。夏穂ちゃんが受かったらお祝いでおごってあげるよ」
「ガチで? おお……じゃあ今以上に頑張っちゃおうかなあ!」

改札をくぐり、階段を上る。ちょうど滑り込むようにホームに入ってきた『磯子行き』の電車。わたしと瑠香ちゃんは、鞄を抑えながら、何とか滑り込むことに成功した。