磯子の夜と違って、ここはリンと高く鳴く虫の音と、どこまでも広がる暗闇の音だけが、心地良く響き渡っている。部屋の中にいると、まるで時間が止まっているかのような感覚になるのが不思議だった。
「そうなんだ……おばちゃんもお母さんも、栄ケ丘なんだ」
「そうだよ。意外とデキるんだよ。知ってるからね、部活の部屋はグラウンドの横にあるよね」
「おお! そうそう。良く知ってるね!」
「だから、卒業生だってば。アーチェリー場とテニスコートはグラウンドの奥だもんね」
「……ウソじゃなかったんだね、卒業生って」
2人で笑っていると、ぺぺちゃんともっちーも近づいてきた。「どうしたの? 何を話してるの」って言いたげに。
「1年生の時は弁護士になろうかなって思ってたな。私」
「弁護士! そうなんだ……」
「実はね、当時はうち、あまりお金がなくてさ。ないっていうより……ちょっと弁護士さんにお世話になった時期があったんだよ。あ、これママには内緒ね。私が言ったって言わないでね」
「うん! 言わないよ。……そっか、そんな時期があったんだ」
「そういうことがあったから弁護士になろうと思ったんじゃないよ。もちろん弁護士の先生にお世話になったことは事実だけどね」
おばちゃんの足元で、もっちーとぺぺちゃんは気持ち良さそうに眠り始めていた。まるで子守歌としておばちゃんの話を聞いているかのように、私には見えた。
「知らなかったんだよ。どんな仕事があるのか。卒業したらどうなれるのか」
「……」
「医者でしょ、弁護士。看護師。あとは……そうだな、学校の先生とか。ネットがなかったのもあるけどさ、ベタな職業しか知らなかった。だから、そこから選ぶしかなかったな」
「そっか。スマホなんてなかったんでしょ」
「ないない。本かテレビだよ。情報を仕入れるなら。だから『知ってる職業の中から弁護士を選んだ』だけだよ」
「……なるほどなあ」
「なりたかったわけじゃない。それしか知らなかったんだよ」
「……深いなあ」
「だから」
一呼吸置くように、ゆっくりと漬物に箸を伸ばして、パクリと口に放り込んだ。
「だから、私は2年で辞めた。ママみたいに熱い、燃えるものがなかったの」
☆
リン……リン……と外から聞こえる虫の音が、沈黙を続けることを許してくれるかのようにずっと響く。私の心の中は、ぐちゃっと絵具をこぼしたかのようになってしまっていた。
「でもさ……みんなっていうか……ほとんどの人がそうじゃん! そんな人ばっかじゃん!」
「うん。そうだね」
「おばちゃんは? 2年とか3年生の時は? 何を目指してたの? 弁護士のままだった?」
「とりあえず文系に進んだよ。ママは本当に頭良くてさ。東大を目指してたんだよ」
「え? お母さんが?」
「うん。私も数学とか自信あったけどさ。『お姉ちゃん東大か~』って思ってさ」
ははっと声を出して、当時を思い出すかのように自虐的に笑う。
「『こりゃ敵わんぞー』って思ってね。熱意も、能力も」
「……」
「たぶん受験に向けてのお金を、ママは心配してたんだと思う。だから東大は諦めて、レベルは高いけど絶対に入れる私立にしてたよ。……私も同じ」
「……何よ、今の私と同じじゃん」ぼそりとつぶやいた私の言葉を、おばちゃんは聞き逃さなかった。
「同じ? 何が?」
「……お金。お母さん、パートだもん。家もぼろいし。好きだけどね、今の家。でも……きっとそんなにお金ないよ。たぶん」
はあと小さくため息が出てしまった。「結局お金なのか」と思っていると、おばちゃんはぐいとテーブル越しに私に身を乗り出すように言った。
「違うって。そうじゃないよ」
「……何が?」
しばらくの沈黙の後で、おばちゃんは静かに言った。
「私は、今、とっても幸せだよ。あの時があるから、今があるんだよ」
☆
「荷物持った? 忘れ物はない?」
「んー……たぶん、大丈夫かな」
「まあ、何かあれば届けるよ」
「そっか。じゃあ安心して帰れる」
大きな窓から差し込んでくる朝日は、さえぎるものがないからなのか、横浜よりもずっと強く感じるけれど、とっても柔らかくて優しい。
たった1日の滞在だったけれど……心の中にあった雑念っていうか、もやもやがちょっと晴れたような気がしていた。横浜も、山手も、磯子も好き。だけど……ここには『そこじゃ見つけることができない、何か』があるような気もする。比べるものじゃない気もする。
「あら。あんたが帰るの寂しいってさ」
キャリーケースのジッパーからジジジ……と音が聞こえると、3匹の猫たちが吸い寄せられるかのように、私の膝元に集まってきた。
ぐるん、ぐるんと私の膝に、頭を擦りつけるぺぺちゃん。
……何度も、何度も。
「ちょっとおー……帰れなくなるでしょー……」
よしよしと声に出しながら、ぺぺちゃんの頭に手を乗せる。「私も!」とばかりに、もっちーが『にゃあん』と可愛らしく鳴いた。
「はは。また来れば良いよ」
「……そうだね。またこの子達に会いにくるよ」
「そうそう。その時は夏っちゃんも一緒に連れておいで」
「ええー……あいつもー……?」
ぶすくれる私の顔を見て、おばちゃんは大きく笑った。のどかな田園風景。私たちの笑い声だけが響いていった。
「よし、じゃあ行こうか」
車のエンジンをかけると、3匹の猫ちゃんたちはじっと家の前から私たちを見続けている。きっといつもひろ子おばちゃんが買い物に出かける時も、そうしているんだと思う。
「でも、私好きだな。ここ。住みたいもん」
「そりゃ良いね。素敵な感性だと思うよ」
ザザザと砂利道をタイヤが踏んで、ゆっくりと動き出す。「ああ、昨日来た時と同じ音だ」と、別れの合図のような気がして、少し寂しい気持ちになった。
「……お母さんも幸せなのかな。どうなんだろ」
胸の前でギュッと鞄を抱きかかえながら、昨日のおばちゃんの話を思い出すかのようにつぶやく。
「え? 何が?」
「いやほら。前の会社で凄かったんでしょ? お母さん」
「凄かったよ。夜中まで会社に残って残業して。タクシーで帰る毎日だったから。鬼のように働いてたもんね」
「今は、あんなスーパーでパートか……どうなんだろう」
「何が」
「上手く言えないけどさ。プライドとか……やりがいとか……『前みたいに戻りたい』って思ってるのかなってさ」
「ふふっ……あ! ほら冬ちゃん! あの子達、走ってあんたをお見送りしてるよ!」
狭い一本道を走る車。助手席から後ろを振り返ると、猫ちゃんたちが走って車を追いかけてきていた。
「わあ! また来るからねえ!」
「あはは! あの子達、冬ちゃんのこと気に入ったんじゃない?」
徐々に、徐々に小さくなっていく3匹の猫ちゃんたち。「また来るね」と心の中で小さくつぶやく私に、ひろ子おばちゃんは言った。
「ママは幸せだと思うよ」
「え? そうなのかな」
「っていうかさ」
T字路で左右を確認しながら、おばちゃんは更に続けて言った。
「過去は変えられるからね。今、できることをしっかりやれば良いの。今が幸せなら、過去の選択も行動も……幸せなものに書き変わるからさ」
「冬ちゃんも、夏っちゃんも。こんなに立派になってるじゃん。ママは間違ってないと私は思うよ」
左に曲がると、すでに猫ちゃんたちは見えなくなるくらい小さくなっていた。
「そうなんだ……おばちゃんもお母さんも、栄ケ丘なんだ」
「そうだよ。意外とデキるんだよ。知ってるからね、部活の部屋はグラウンドの横にあるよね」
「おお! そうそう。良く知ってるね!」
「だから、卒業生だってば。アーチェリー場とテニスコートはグラウンドの奥だもんね」
「……ウソじゃなかったんだね、卒業生って」
2人で笑っていると、ぺぺちゃんともっちーも近づいてきた。「どうしたの? 何を話してるの」って言いたげに。
「1年生の時は弁護士になろうかなって思ってたな。私」
「弁護士! そうなんだ……」
「実はね、当時はうち、あまりお金がなくてさ。ないっていうより……ちょっと弁護士さんにお世話になった時期があったんだよ。あ、これママには内緒ね。私が言ったって言わないでね」
「うん! 言わないよ。……そっか、そんな時期があったんだ」
「そういうことがあったから弁護士になろうと思ったんじゃないよ。もちろん弁護士の先生にお世話になったことは事実だけどね」
おばちゃんの足元で、もっちーとぺぺちゃんは気持ち良さそうに眠り始めていた。まるで子守歌としておばちゃんの話を聞いているかのように、私には見えた。
「知らなかったんだよ。どんな仕事があるのか。卒業したらどうなれるのか」
「……」
「医者でしょ、弁護士。看護師。あとは……そうだな、学校の先生とか。ネットがなかったのもあるけどさ、ベタな職業しか知らなかった。だから、そこから選ぶしかなかったな」
「そっか。スマホなんてなかったんでしょ」
「ないない。本かテレビだよ。情報を仕入れるなら。だから『知ってる職業の中から弁護士を選んだ』だけだよ」
「……なるほどなあ」
「なりたかったわけじゃない。それしか知らなかったんだよ」
「……深いなあ」
「だから」
一呼吸置くように、ゆっくりと漬物に箸を伸ばして、パクリと口に放り込んだ。
「だから、私は2年で辞めた。ママみたいに熱い、燃えるものがなかったの」
☆
リン……リン……と外から聞こえる虫の音が、沈黙を続けることを許してくれるかのようにずっと響く。私の心の中は、ぐちゃっと絵具をこぼしたかのようになってしまっていた。
「でもさ……みんなっていうか……ほとんどの人がそうじゃん! そんな人ばっかじゃん!」
「うん。そうだね」
「おばちゃんは? 2年とか3年生の時は? 何を目指してたの? 弁護士のままだった?」
「とりあえず文系に進んだよ。ママは本当に頭良くてさ。東大を目指してたんだよ」
「え? お母さんが?」
「うん。私も数学とか自信あったけどさ。『お姉ちゃん東大か~』って思ってさ」
ははっと声を出して、当時を思い出すかのように自虐的に笑う。
「『こりゃ敵わんぞー』って思ってね。熱意も、能力も」
「……」
「たぶん受験に向けてのお金を、ママは心配してたんだと思う。だから東大は諦めて、レベルは高いけど絶対に入れる私立にしてたよ。……私も同じ」
「……何よ、今の私と同じじゃん」ぼそりとつぶやいた私の言葉を、おばちゃんは聞き逃さなかった。
「同じ? 何が?」
「……お金。お母さん、パートだもん。家もぼろいし。好きだけどね、今の家。でも……きっとそんなにお金ないよ。たぶん」
はあと小さくため息が出てしまった。「結局お金なのか」と思っていると、おばちゃんはぐいとテーブル越しに私に身を乗り出すように言った。
「違うって。そうじゃないよ」
「……何が?」
しばらくの沈黙の後で、おばちゃんは静かに言った。
「私は、今、とっても幸せだよ。あの時があるから、今があるんだよ」
☆
「荷物持った? 忘れ物はない?」
「んー……たぶん、大丈夫かな」
「まあ、何かあれば届けるよ」
「そっか。じゃあ安心して帰れる」
大きな窓から差し込んでくる朝日は、さえぎるものがないからなのか、横浜よりもずっと強く感じるけれど、とっても柔らかくて優しい。
たった1日の滞在だったけれど……心の中にあった雑念っていうか、もやもやがちょっと晴れたような気がしていた。横浜も、山手も、磯子も好き。だけど……ここには『そこじゃ見つけることができない、何か』があるような気もする。比べるものじゃない気もする。
「あら。あんたが帰るの寂しいってさ」
キャリーケースのジッパーからジジジ……と音が聞こえると、3匹の猫たちが吸い寄せられるかのように、私の膝元に集まってきた。
ぐるん、ぐるんと私の膝に、頭を擦りつけるぺぺちゃん。
……何度も、何度も。
「ちょっとおー……帰れなくなるでしょー……」
よしよしと声に出しながら、ぺぺちゃんの頭に手を乗せる。「私も!」とばかりに、もっちーが『にゃあん』と可愛らしく鳴いた。
「はは。また来れば良いよ」
「……そうだね。またこの子達に会いにくるよ」
「そうそう。その時は夏っちゃんも一緒に連れておいで」
「ええー……あいつもー……?」
ぶすくれる私の顔を見て、おばちゃんは大きく笑った。のどかな田園風景。私たちの笑い声だけが響いていった。
「よし、じゃあ行こうか」
車のエンジンをかけると、3匹の猫ちゃんたちはじっと家の前から私たちを見続けている。きっといつもひろ子おばちゃんが買い物に出かける時も、そうしているんだと思う。
「でも、私好きだな。ここ。住みたいもん」
「そりゃ良いね。素敵な感性だと思うよ」
ザザザと砂利道をタイヤが踏んで、ゆっくりと動き出す。「ああ、昨日来た時と同じ音だ」と、別れの合図のような気がして、少し寂しい気持ちになった。
「……お母さんも幸せなのかな。どうなんだろ」
胸の前でギュッと鞄を抱きかかえながら、昨日のおばちゃんの話を思い出すかのようにつぶやく。
「え? 何が?」
「いやほら。前の会社で凄かったんでしょ? お母さん」
「凄かったよ。夜中まで会社に残って残業して。タクシーで帰る毎日だったから。鬼のように働いてたもんね」
「今は、あんなスーパーでパートか……どうなんだろう」
「何が」
「上手く言えないけどさ。プライドとか……やりがいとか……『前みたいに戻りたい』って思ってるのかなってさ」
「ふふっ……あ! ほら冬ちゃん! あの子達、走ってあんたをお見送りしてるよ!」
狭い一本道を走る車。助手席から後ろを振り返ると、猫ちゃんたちが走って車を追いかけてきていた。
「わあ! また来るからねえ!」
「あはは! あの子達、冬ちゃんのこと気に入ったんじゃない?」
徐々に、徐々に小さくなっていく3匹の猫ちゃんたち。「また来るね」と心の中で小さくつぶやく私に、ひろ子おばちゃんは言った。
「ママは幸せだと思うよ」
「え? そうなのかな」
「っていうかさ」
T字路で左右を確認しながら、おばちゃんは更に続けて言った。
「過去は変えられるからね。今、できることをしっかりやれば良いの。今が幸せなら、過去の選択も行動も……幸せなものに書き変わるからさ」
「冬ちゃんも、夏っちゃんも。こんなに立派になってるじゃん。ママは間違ってないと私は思うよ」
左に曲がると、すでに猫ちゃんたちは見えなくなるくらい小さくなっていた。



