シュレディンガーの三重奏

まさに森の中。大分市内で高速道路を降りた時は、「横浜みたいな街じゃん」と思っていたけれど、そこからグングンと緑の中を車は走り抜けていった。

小倉からずっと「何もないところだよ」っておばちゃんは言っていたけれど、私の想像をはるかに超えてきた。到着したのは『大分県三重町』という場所らしい。

本当に何もない。あるのはたくさんの緑。そして透明な空気。周囲を見渡すと、ぐるりと山に囲まれた、時が止まっているかのような場所だった。自然が優しい。ずっとここに、ずっと昔から待っていてくれたかのように感じた。

「どう。帰りたくなった?」
笑いながらビニール袋を車に押し込みながら、ひろ子おばちゃんは大きく笑った。

「スゴね、ここ。……私、好きだな」
「本当? 良かったよ、そりゃ」

「晩御飯の買い物するから」と立ち寄ったお店は、私の知っているスーパーやコンビニとはまったく異なっていた。三角巾で頭を覆ったおばちゃん達が「あら、ひろ子ちゃん。いらっしゃい」と優しい笑顔でひろ子おばちゃんに話かけて、「ほうれん草あるかな」とレジ前でお互い笑いながら話をしていた。

ぐるりと周囲を見渡すと、地元で採れた色鮮やかな野菜がところ狭しと並んでいて、無機質に並んでいるいつのもスーパーとは別の世界。

「冬ちゃん『も』、こっちが合ってるのかもね」とひろ子おばちゃんは小さく笑った。

「土。靴を脱いで、素足を土を踏むと良いよ。冬ちゃんはコンクリートの上ばっか歩いてるんでしょ? 毎日」
車に荷物を押し込んでドアを閉めると、エンジンをかけながらおばちゃんは言った。

「……そうだね、土の上なんて、小さい頃に公園の砂場で遊んだきりかな」

静かに車は走り出す。緑で揺れる木々の間を走っていると、空気がピンと張りつめていて、子供の頃に出かけた山荘学習を思い出した。

「将来の夢があるからさ、必死に勉強して。高校受験もあったろうし。SNSでスマホで友達と繋がって。冬ちゃん達は忘れちゃったんだよ」
「……忘れた? 何を?」
「ん? 小さい時にさ、みんなではしゃいで、泥だらけになって遊んでた時の気持ち」
「……まあ」

私はひろ子おばちゃんの言葉に言い返すことができなかった。別にそれが悪いことだとは思わないけれど、事実だったから。

「冬ちゃんってさ」
「え?」
「看護師さんになりたいんでしょう?」
「……うん」
「なんでなりたいの?」
「……えっ」
「理由だよ。理由。看護師さんを目指す理由って何なの」

最近私もよく考えるようになっていた。どうして私は看護師を目指すようになったんだっけ。誰かに勧められたわけじゃない。テレビで観て憧れたわけでもない。……なんでだったっけ……。

「あ、そろそろ着くよ。家」
「本当?」
「うん。猫ちゃん達、全部で3匹いるからさ。たくさんおしゃべりしなよ」
「……猫ってしゃべるの?」
「ははは! 何言ってんのよ。当たり前でしょ、しゃべるに決まってるじゃん!」

舗装されていない曲がりくねった狭い道。正面には小さい一軒家がぽつんと建っていた。

「あの家?」
「そう。買ったんだよ、8年前だったかな」
「一軒家じゃん……スゴいな」
「横浜に比べれば、死ぬほど安いけどね」

家の前にはたくさんの砂利が敷かれていて、ザザザと音を上げて乗り上げた。その時、左側から覗き込んでいた猫が、「あっ!」と言わんばかりに首を伸ばして、車の方に走り寄ってきた。

「あ! 猫ちゃん!」
「あの子は5歳の男の子だよ。ぺぺちゃん」
「外に出して良いの?」
「誰もいない田舎だからね」

確かに周囲には誰も住んでいる気配がない。まさにぽつんと一軒家。広い田んぼや畑がぐるりと家を囲んでいる。

「ぺぺ、ただいま」
『にゃあー』

おばちゃんの声に反応するかのように、ぺぺちゃんが走り寄ってきた。

「あらあ、あなた良い子にしてた?」
『にゃあー』
嬉しそうにおばちゃんの足元に、自分の頭をぐりぐりと擦りつけている。

「冬ちゃんだよ。明日まで仲良くしてあげてね」
おばちゃんがぺぺちゃんの頭を「よしよし」とさすると、気持ち良さそうにしながら、訪問客である私に向かって、チラリと視線を投げかけてくる。

「あ……ぺぺちゃん。よろしく」
ぎこちなく笑う私に、ぺぺちゃんは小さく『にゃっ』と鳴いた。