シュレディンガーの三重奏

繁華街を出ると、すぐに高速道路に入る。どうやら2時間近く高速道路を走ることになるらしい。

誰かの車に乗せてもらうことも、磯子に住んでいるとほとんどない。
もちろん高速道路に乗ることも。いつも決まりきった電車に乗ることばかり。
街の匂いも、空気の匂いも、すべてが私には色鮮やかに映って新鮮だった。

「大分県なんでしょ? おばちゃんの家って」
「そう。市内からちょっと離れるけどね。冬ちゃんビックリするかもよ」
「……どういうこと?」
「え? 横浜みたいな都会で育った冬ちゃんだからね。イメージできないと思うよ、私の暮らし」
「えー、何それ。楽しみなんだけど」

優しく笑うひろ子おばちゃんの表情を見ているだけで、私は胸の奥が高鳴るのを抑えることができなかった。

私は横浜が好き。ボロボロなアパートだけれど、お母さんとあいつと住んでいる磯子も家も好き。でも小倉駅を降りてからずっと感じるこの匂いも、私はすごく好き。解放感がもの凄くあって、高校から見える景色とはまた種類が全然違っていた。

「まあ、何もない所だけどね。その分都会を忘れてゆっくりしていけば良いよ」
「うん。ゆっくりする」
「あ、そうだ。うち猫がいるけど……冬ちゃん大丈夫かな。猫」
「ええ! 猫いるの!? わあ!」
「そんなに喜んでくれると、猫も嬉しいんじゃないかな」

単調な景色がずっと広がる高速道路でさえも、おばちゃんと話をしているだけで時間があっという間に過ぎていく感覚だった。「同じ景色ばっかでつまらないでしょ」と言っているおばちゃんの言葉が、私に耳に残ることはなかった。

☆

「あれ何? 煙がめっちゃ色々なところから上がってるよ!」
「あれスゴいよねえ。全部温泉の煙なんだよ」

高速道路なのに、ずっと長い下り坂。大分の別府という場所に入ってきたらしい。別府はとにかく温泉が有名で、観光客も多いっておばちゃんが教えてくれた。

「風情あるね……スゴいな。横浜じゃ絶対見れないよね」
「昔ながらの旅館もたくさんあってね。とにかく有名な場所だよ。まあ私たちは通り過ぎるけどね」
「あとどれくらいなの」
「高速道路は20分くらいかな。そこから下道で1時間近い」
「……結構かかるんだね」
「ま、僻地だからね。本当に何もないよ」

笑いながら言うと、「夕ご飯何にしようかな」とつぶやいた。ちょっと退屈にはなってきたけれど、さっきおばちゃんが言っていた「猫がいるよ」という言葉に、色々な想いが湧き上がってきて想像を膨らませてばかりだった。

「でもさ、あの人達って、温泉に入りにくる人たちのお金で生活してるってことだよね」
「まあ、そうだね。旅館やってる所は宿泊費で生計を立ててるよね」
「ふぅん……人生って色々なんだね」
「でしょ。都会にいたらさ、会社に入ることがすべてみたいな感覚になるからね。人生は色々なんだよ」

弁護士になる。
医者になる。
看護師になる。
学校の先生になる。
有名な大企業に入る。

ここではどのくらいの人達が、『有名な』人生を送っているんだろう。別府から立ち上る煙を見ているだけで、「もしかして生きるための仕事って、知らないだけでたくさんあるのかも知れない」と急に思うようになり始めていた。

「さ、降りるよ」
そういうとスピードを徐々に下げていきながら『大分IC』と書かれた看板の方めがけて、ハンドルを切っていく。

(やっと下道か)

横浜とは空気がまったく違う高速道路を走るだけでも、新しい世界に来たように感じていた。下道に降りて、大分の道を走るとどんな匂いや景色が待っているんだろう。またさっきまでとは違う興奮を、私は抑えることに必死だった。