シュレディンガーの三重奏

「ねえ! もう食べないの? 食べないならちょうだい。その餃子」
「……ゆっくり食べてるだけだって。まだ食べる」
「えー……なんだあ」

なんでこいつはいつも私に絡んでくるんだろう。夕ご飯の時はこいつが好きなおかずが用意されると、私はいつも憂鬱になる。テレビの声だって聞こえやしない。

「フライパンの中にまだ入ってるよ」
「違うんだってば。そういうことじゃないんだってば」

お母さんは優しい。ニコニコ笑いながらよくしゃべる感じじゃないけれど、私には分かる。あいつのことなんか放っておけば良いのに、いつも小さな子供をあやすみたいに会話してくれてる。

(はあ。面倒くさ。おかわりなんかしてるんじゃないよ、もう)

「早く部屋に戻ってくれないかな」と思いながら、私はゆっくりチビチビと餃子を口に運んでいく。

「仕方ないな~、おかわりしようかな~」
「……明日の朝の分も入ってるんだからね」
「はいはい、分かってますってば」

小さく鼻歌を歌いながら、フライパンに近づく。中に目をやってしばらく考え込むと、「いいや」と言わんばかりに皿をシンクにゆっくりと置いた。

「やっぱ良いや。ごちそうさま」
「え? さっき冬華のもらおうとしてたじゃない」
「……なんか、色々やってたら『やっぱお腹いっぱいだな』って思ったから」

じっとあいつを見つめるお母さんとは対象的に、何やら小声でつぶやきながら、自分の部屋に戻っていった。

「……何、あいつ。さっきまで私の餃子もらおうとしてたくせに」

ゆっくり私に向かって視線を移すと、小さく微笑みながらお母さんは言った。
「何って。あなたに気を遣ってくれたんじゃないの?」

☆

小さく首をかしげながら、再び餃子を口に運ぶ。ふすまの向こうから小さく音楽が聞こえてきた。

「どうするの? 決めたの?」
「え? 決めたって、何を?」
「文理の用紙。期限そろそろじゃなかった?」

ドキッとした。ちゃんとお母さんが覚えていて、私がずっと気にしていることが分かっていることに。

「……再来週の月曜、かな。確か」
「もう決めたの?」
「……うーん。悩んでる」

私がずっと看護師になりたいと言ってることは、お母さんも知っているし、あいつも知ってる。

「理系じゃないってこと?」
「うーん……どうしようかな」

しばらくお母さんは何も言わずに、冷蔵庫から麦茶を取り出した。

国立の大学を目指すのであれば、理系クラスに行く必要がある。文系クラスに行ってしまうと、受験科目の関係で国立の大学を受けることが難しくなる。

でも……国立はレベルが高い。難易度を下げて、家から近い私立の大学や、公立の大学を受験するのであれば文系クラスからでも対応できる。事実、そういう選択をしている人の方が多い。

看護師を目指していても、文系クラスに進んでそこから私立の大学を目指すということ。「別に私立でも良い」というのであれば、私もきっと文系クラスに進んでいるのかも知れない。

「国立は大変だからね」
「え?」
「だから躊躇してるんじゃないの? 冬華」
「……」

正解過ぎて、何も言えない。この前お母さんは、3年生になってから取り返せるからと言っていたけれど……そもそも今の時点で難易度の高い理系クラスに行って良いのかとずっと悩んでいた。

「まあ。……そうだけど」
「高校生って大変だよねえ」

ゆっくりと立ち上がり、茶碗と皿をシンクに運びながらお母さんは優しくつぶやいた。

「……みんな、頭良すぎるんだよー……」

思わず机に伏せながら、本音を口にしてしまった。

「あら。栄ケ丘に入らなきゃ良かったってこと?」
「そんな言い方しなくたって良いじゃん。そういう意味じゃないってば」

ぶすくれる私をよそに、「はあ」と小さく息を吐き出しながら、はちみつをコーヒーに入れた。

「じゃあ良いじゃない。友達も良い人できたみたいなんだから」
「……そうだけど。自信なくなるよ、あれだけみんな頭良いとさ」
「まあ、腐っても地域トップ校なんだから。それくらいじゃないとねえ」
「比べられる方の身にもなってよね……」

なんだろう。コーヒーをスプーンでかき混ぜているお母さんは、ほんの少しだけ笑っているように見える。

「遥人くんっていうんだけどさ、模試の数学満点だって。たぶん偏差値90くらいあるんじゃないかな……天才過ぎる」
「へえ。そんな子いるんだ」
「うん。席替えで後ろになったから、聞いてみた」
「何になるんだろうね、遥人くんって子は」
「……医学部に行って、医者になりたいんだって」

かき混ぜていた手が止まり、ゆっくり私に向かって言った。

「じゃあ冬華も医者になるってことなの?」

――私は何も言えなくなってしまった。