シュレディンガーの三重奏

「ばいばい!」
「うん、また明日ね~」

部活や委員会がある瑠香ちゃんたちと別れて、一人で根岸駅に向かう。金曜日は一人で家に帰ることが多い。

学校から駅までは、お店が何一つない、一本道。最近不思議と「大きな本屋さんでもできないかな」と思い始めるようになっていた。

地域でも有名な『有隣堂』という名前の本屋さんは、家とは逆方向の駅にある。まだ行く勇気は持ち合わせていない。

「お、遠藤さんじゃん」

赤信号で立ち止まるわたしの背中に、声が飛んできた。聞き覚えのある、無機質な声。振り向くと同時に「誠くんだ」と思った。

「あ、誠くん」
「帰りなの?」
「うん。みんな部活とか委員会だからさ」
「ふうん。そっか」

さっきまでとは違い、視界の中に誠くんが入り込む。わたしの心臓は一気に強く打ち始めた。

(……あ)

「ねえ、誠くん」
「何?」

誠くんは本当に不思議だ。喜怒哀楽がないのかなと思う時がある。

今だって、正直何を考えて歩いているのか……よく分からない。

「誠くんて、大学行く予定なんだよね」
「今のところはね」
「どんな所に行くつもりなの?」
「……どんな所って? 学部ってこと?」

わたしが緊張しているからなのか、誠くんの雰囲気がそうさせるのか……その辺りは分からないけれど、上手くかみ合っていない感がスゴイ。

「何かさ、わたしも興味あるんだけどね……」
「大学にってこと?」
「そう。でも、全然分からないの。知識がないんだよ」

大学は、もちろん勉強する所なんだろうけれど、どんなことをやる場所なのか。

弁護士や医者、看護師になりたい人だけが行く場所なのか。それ以外の人も行っても良いのか。

「学費、高そうだなあ」とは思うけれど、詳しいことはあまり分からない。

「俺は、建築に興味あってさ」
「……建築」
「そう。CADやってるでしょ」

確かに1年生の頃から、製図の授業で『CAD』と呼ばれるモノを使って、家の図面を作ったりしていた。

これまで言われるがままノートパソコンを動かしていただけだった。

「やってるね。あのノーパソに入ってるやつだよね」
「そうそう。建築士になりたいなって思ってさ」

まただ。よく分からない言葉が出てきた。建築をする人っていう意味なんだろうくらいは分かるけれど、それ以上の知識が、わたしにはない。

「建築士?」
「うん。家を建てる時に設計をする人だよ。大学で資格が取れる」
「……へえ、そうなんだ」

1学期に誠くんが教えてくれた「シュレディンガー」っていう学者さんの名前もそう。どうして誠くんが教えてくれることは、ここまでわたしの胸を高鳴すんだろう?

「面白そうだね、それ」
「でしょ? 1級と2級があって、やれる範囲が違うんだよ」
「難しそうだね、でもそれ」
「工学部の建築学科っていう所に行こうと思ってさ」

『工学部』『建築学科』。難しそうな響きだけれど、何だかとっても楽しそうだなと思った。

車の通りは多いけれど、お店が何もない分、誠くんの話に集中できる。

「大学っていっぱいあるけどさ、どこでも建築士になれるの?」
「なれる大学となれない大学があるね。入試の種類だって色々あるしさ」
「そっか。色々あるのか」
「俺、推薦で行こうと思って。そういう意味じゃ、どの大学でも良いんだけどね」
「……推薦?」

根岸駅は、駅前にバスロータリーがある。磯子に比べるとこじんまりとして小さい。脇を歩いていると、あっという間に改札口に着いてしまった。

「何それ、推薦て」
「遠藤さん、推薦知らないの?」
「うん。初めて聞いたよ、わたし」

ホームまでの急な階段を上ると、息が切れる。「推薦」という言葉よりも、上り切る方に意識が向いてしまう。

「学校の成績で行けるんだよ。大学に」

衝撃だった。思わず耳を疑った。

「え? どういうこと?」
「学校の通知表が良ければ、それで大学に行ける。難しい試験を受けなくて良いんだ」

気がつけば息を切らしながら、ボロボロのアパートの階段を上っていた。

誠くんの言葉を聞いてから、何を考えながら電車に乗っていたのか。磯子駅から歩いている時、何を考えていたのか……まったく覚えていない。

気が付けば、ドアの前で鍵を探していた。

「ただいま!」

返事がないのは分かっているのに、どうしても声を出したい気分。カバンをベッドに放り投げて、すぐに床に寝転んだ。

『大学 推薦 方法』

ずらりとならぶサイトの数々。着替えることもせずに、上からサイトを開き読んでいく。

息をするのも、忘れるほどに。