シュレディンガーの三重奏

「ねえねえ!! 今日さ、ひろ子おばちゃん、うち泊まるの?」
「え? 横浜駅にホテル取ってるよ」
「ええ~……泊まらないのお~……?」

17歳になっているはずなのに、駄々をこねる夏っちゃんを見ていると、不思議と小学生の頃の表情が重なり合うように浮かぶ。

「あんた、いくつなのよ」
「17」
「そういうことじゃないでしょう」

お姉ちゃんと夏ちゃんが言い合いをしているスキに、私はホテルにキャンセルを入れようと決めた。

「もうちょっと話がしたいな」と、私も思ったから。

冬ちゃんは椅子に座り、タオルを携帯で静かに撮っていた。気に入ってもらえるか随分と悩んだピンクのタオル。冬ちゃんらしいなと私は思った。

☆

初夏の磯子駅周辺は、夕方になってもまだ明るかった。この時期の大分は、夜の7時頃になると、ようやく陽が落ち始める。

夏っちゃんに誘われて、私は磯子駅周辺を2人で散歩することにした。

夏っちゃんと冬ちゃんは、幼稚園に通っている頃から何も変わらない。天真爛漫な笑顔で、分け隔てなく付き合ってくれる夏っちゃんに、じっと相手の内面を見つめるように一歩引いている冬ちゃん。

私とお姉ちゃんが小さかった時みたい。スクリーンを通して過去の映像を見ているような感覚になる。

「ねえ、あっちにさ、公園があるんだよね。行って良い?」
「ああ、芦名橋公園かな」
「そうそう。散歩しよう。散歩」

以前は区役所だった場所も、総合庁舎と名前を変えてだいぶ近代的な建物になった。産業道路に沿って、総合庁舎の前を歩いていく。

「ここさ、昔は水が流れてキレイだったんでしょ?」
「そうそう。できたばかりの時はね。マイナスイオン全開だったけどね」

ずっと続く一本道は、アスファルトで綺麗に舗装されている。

道路沿いに、小さな小川が流れて、ちょっとした緑が植えられている。『磯子アベニュー』と名付けられたその場所は、できた当初、よくお姉ちゃんと遊びにきていた。

「夏っちゃんはさ、カレシできた?」

答えてくれるかなと思いながら、勢いで聞いてみた。

「え? カレシ? いないよ」
「好きな人は、いるんだ」
「え? え? 何で分かるの」

思わず笑ってしまった。夏っちゃんは隠すのがヘタだ。顔にすべて書いてある。

「まあ、何となく、かな」

「私は歳を取り過ぎたのかも知れないな」と思って、はぐらかすように答えておいた。
夏っちゃんの屈託のない、弾けるような笑顔。きっと羨ましいのかも知れないなと思いながら。

「でもさ、工業高校だから男子多いんじゃない?」
「ウチのクラスは女子ばっかだよ。インテリア科だからね」
「……インテリア科?」
「そう」

てっきり工業高校だから、『ザ・工業高校』といったイメージをずっとしていた。

「へえ。色々あるんだねえ」
「うん」
「夏っちゃんはインテリアの勉強がしたかったんだ」
「……いや、そういうわけじゃないんだよね」

左上に目線を移して、考え込んでしまう夏っちゃん。しばらく車の走り去る音だけが、私たちの間に響き渡った。

「興味はあったけど、倍率が低かったからね。入試の時」
「ああ、そういうことか」
「中3の時とか、よく分からないし。インテリアって言われても」
「まあね。確かにね。どう? 1年ちょっとやってみて」

それにしても、磯子アベニュー沿いの道は懐かしい。夕方に犬の散歩をする人。息を切らしながらウォーキングをする人。当時と何も変わっていない。変わってしまったのは、何だろう。

「ねえ、シュレディンガーって知ってる?」

芦名橋公園を目前にして、ようやく夏っちゃんが口にしたのは予想だにしない言葉だった。

「え? 何?」
「シュレディンガー」
「ああ、確か物理学者だったっけ?」
「え! おばちゃん知ってるの? スゴッ」
「まあ、名前だけね。何した人かは分からないけど」

大学生の頃に、本を読んでいてちょっと知っているくらいの名前だった。確か有名な思考実験をした人だったと思うけれど、詳しくは知らない。

……それに、『知り過ぎているおばちゃん』は、まだ将来を模索している途中の高校生にとって、良いモノなのか分からず、ちょっとだけとぼけておいた。

「この前説明してもらったんだよね」
「シュレディンガーをってこと?」
「そう。隣の席の男子がさ、めっちゃ勉強できるんだよ」
「……へえ」

久し振りに訪れた芦名橋公園は、遊具の配置が変わっているように感じた。でも、以前は何がどこにあったのか……いまいち思い出すことができない。

「着いたね。ちょっと座る?」
「そうだね。ベンチ、座ろうか」

きっと夏っちゃんの好きな人は、理系科目に興味がある人なんだろうなあと思いながら、少し陽が落ち始めた公園の中へと入っていった。