「ひろ子おばちゃんてさ、何してるの? 九州にいるんだっけ?」
「そう。九州で自分で会社やってるんだよ」
横浜駅でビジネスホテルを取ったと言っていたけれど、夏穂たちの引き留め工作が上手くいったらしく、うちで泊っていくことになった。
「別に良いよ、ホテルはキャンセルするから」と明るく笑っていたけれど、どこか嬉しさが滲み出ているようにも見えた。
夏穂が「散歩しようよ」と言って、ひろ子を連れ出して行って、さっきまで賑やかだった家の中には、私と冬華の2人しか残っていない。
「自分で会社やってんだ。スゴイじゃん」
「会社っていっても、一人だけの『個人事業』らしいけどね」
「へえ」
いつもは誰が観るわけでもないのに、ずっとついているテレビ。冬華は静かにスイッチを切って、何やら考えているように見える。
「……ひろ子おばちゃんてさ、頭良いの? 大学どこ出てる?」
「どういうこと?」
「いや、そんな一人で仕事ってさ、やれるもんなのかなって」
夏穂と違って、冬華は栄ケ丘高校だから……確かに早い時期からクラスメイトも大学を意識しているんだろう。もちろん冬華も。
学歴を意識するのも当然なのかも知れない。
冬華の考えを聞いて、何だか私は懐かしさを覚えた。
「偏差値が高い大学が、良い大学とは思わないけど」
「……え? そうなの?」
「お母さんはそう思うけど?」
「ふうん」
「ひろ子が難しい大学を出たから優秀なんじゃなくて、元々あの子は好奇心旺盛だったよ?」
与えられるものに対して、求められる結果を出してきた私と違い、ひろ子は小さい頃から何にでも興味を示した。
周りの大人が「面倒臭い」というくらい。
「理系に行くのか、文系に行くのか。それすらずっと決められずにいたはずだけどな」
「え、何それ」
「英語も数学も、理科だって社会だって、全部面白いって言ってたよ。昔」
「……決められないじゃん、それじゃ」
「そう。だから全部にのめり込んで、結局浪人してた」
「ちょっと待ってて」と言い残し、私は自分の部屋に、逃げるかのように静かにその場を立ち去った。
(ふう)
初夏を迎えて、少しずつ暑くなってきた。それに懐かしいとはいえ、ひろ子もやってきた。いつもと違う環境……。
電気の消えた暗い部屋の中で、片膝をついて、私はしゃがみ込んだ。
(はあ……)
細く長く、自分を落ち着かせるかのように、ゆっくりと息を吸う。音がリビングに流れていかないように。
(大丈夫、大丈夫……)
自分に優しく、言い聞かせるように。困った時はどうすれば良いのか、やり方は身に付いているけれど、「久し振りに出たな」と思った。
(よし……もう大丈夫かな)
一気に立ち上がってしまうと、また苦しさがぶり返す時もある。軽く壁に触れながら、ゆっくりと立ち上がり、もう一度胸の奥まで静かに酸素を取り入れる。
「ごめん、ごめん。何だっけ」
「もう、お母さん途中でいなくなるから……」
「ごめんてば」
何食わぬ顔で椅子を引き、「はあ」と小さく息を吐いて、私は席に座った。
「みんな、頭良いんだよ。愛梨なんかスゴいんだよね」
「愛梨ちゃんか。冬華、仲良いもんね」
「行きたい大学目指して頑張ってるっぽい」
「そっか。栄ケ丘だからね。みんな優秀だろうから」
「……うん。私はヤバいけどね」
自虐的に小さく微笑んで、冬華はついていないテレビに視線を向けた。相当悩んでいるんだろうということは、毎日見ていれば分かる。
「看護師なれるのかなあって思うんだよ」
「……」
「国立はレベル高いしさ。そもそもみんな頭良すぎてさ……けっこうヘコむ」
最初とはいえ、この前模擬テストもあったらしいから……相当現実を突きつけられているんだろう。
「ひろ子も同じこと言ってたよ、昔」
「……そうなの?」
「うん。あの子ああ見えて相当プライド高いからね」
「でもさ、ひろ子おばちゃん、人生楽しそうに見えるんだよね」
「少しだけなら良いか」と思い、私は冷蔵庫から水出しコーヒーを少しだけカップに注いだ。
「そりゃああなた、ひろ子は49歳よ?」
「知ってる」
「20代、30代で色々あったんじゃない? お母さんはね、目の前に出された物を、『あなたならできるでしょ』と言われてる感じがして……突き進んできたけど」
「……」
「ひろ子はちょっと違ってて。『自分ならこう考える』ってタイプだったかな」
本当にひろ子は変わったと思う。
私にも2人の子供たちにも優しく接してくれるようになったけれど、10代の頃はたくさん悩んでいたなと、懐かしく思い出される。
冬華を見ていると、冬華と話をしていると……あの頃のひろ子と重なり合うことばかりだ。
「あの子はさ、きっと自分で自分の人生を正解に変えたんだろうね」
「……」
「問題集に書いてある正解だけが、正解じゃないってことだよ」
網戸をぬうように、心地良い風がリビングまでやってきて、「良い夜だな」と私は思った。
「そう。九州で自分で会社やってるんだよ」
横浜駅でビジネスホテルを取ったと言っていたけれど、夏穂たちの引き留め工作が上手くいったらしく、うちで泊っていくことになった。
「別に良いよ、ホテルはキャンセルするから」と明るく笑っていたけれど、どこか嬉しさが滲み出ているようにも見えた。
夏穂が「散歩しようよ」と言って、ひろ子を連れ出して行って、さっきまで賑やかだった家の中には、私と冬華の2人しか残っていない。
「自分で会社やってんだ。スゴイじゃん」
「会社っていっても、一人だけの『個人事業』らしいけどね」
「へえ」
いつもは誰が観るわけでもないのに、ずっとついているテレビ。冬華は静かにスイッチを切って、何やら考えているように見える。
「……ひろ子おばちゃんてさ、頭良いの? 大学どこ出てる?」
「どういうこと?」
「いや、そんな一人で仕事ってさ、やれるもんなのかなって」
夏穂と違って、冬華は栄ケ丘高校だから……確かに早い時期からクラスメイトも大学を意識しているんだろう。もちろん冬華も。
学歴を意識するのも当然なのかも知れない。
冬華の考えを聞いて、何だか私は懐かしさを覚えた。
「偏差値が高い大学が、良い大学とは思わないけど」
「……え? そうなの?」
「お母さんはそう思うけど?」
「ふうん」
「ひろ子が難しい大学を出たから優秀なんじゃなくて、元々あの子は好奇心旺盛だったよ?」
与えられるものに対して、求められる結果を出してきた私と違い、ひろ子は小さい頃から何にでも興味を示した。
周りの大人が「面倒臭い」というくらい。
「理系に行くのか、文系に行くのか。それすらずっと決められずにいたはずだけどな」
「え、何それ」
「英語も数学も、理科だって社会だって、全部面白いって言ってたよ。昔」
「……決められないじゃん、それじゃ」
「そう。だから全部にのめり込んで、結局浪人してた」
「ちょっと待ってて」と言い残し、私は自分の部屋に、逃げるかのように静かにその場を立ち去った。
(ふう)
初夏を迎えて、少しずつ暑くなってきた。それに懐かしいとはいえ、ひろ子もやってきた。いつもと違う環境……。
電気の消えた暗い部屋の中で、片膝をついて、私はしゃがみ込んだ。
(はあ……)
細く長く、自分を落ち着かせるかのように、ゆっくりと息を吸う。音がリビングに流れていかないように。
(大丈夫、大丈夫……)
自分に優しく、言い聞かせるように。困った時はどうすれば良いのか、やり方は身に付いているけれど、「久し振りに出たな」と思った。
(よし……もう大丈夫かな)
一気に立ち上がってしまうと、また苦しさがぶり返す時もある。軽く壁に触れながら、ゆっくりと立ち上がり、もう一度胸の奥まで静かに酸素を取り入れる。
「ごめん、ごめん。何だっけ」
「もう、お母さん途中でいなくなるから……」
「ごめんてば」
何食わぬ顔で椅子を引き、「はあ」と小さく息を吐いて、私は席に座った。
「みんな、頭良いんだよ。愛梨なんかスゴいんだよね」
「愛梨ちゃんか。冬華、仲良いもんね」
「行きたい大学目指して頑張ってるっぽい」
「そっか。栄ケ丘だからね。みんな優秀だろうから」
「……うん。私はヤバいけどね」
自虐的に小さく微笑んで、冬華はついていないテレビに視線を向けた。相当悩んでいるんだろうということは、毎日見ていれば分かる。
「看護師なれるのかなあって思うんだよ」
「……」
「国立はレベル高いしさ。そもそもみんな頭良すぎてさ……けっこうヘコむ」
最初とはいえ、この前模擬テストもあったらしいから……相当現実を突きつけられているんだろう。
「ひろ子も同じこと言ってたよ、昔」
「……そうなの?」
「うん。あの子ああ見えて相当プライド高いからね」
「でもさ、ひろ子おばちゃん、人生楽しそうに見えるんだよね」
「少しだけなら良いか」と思い、私は冷蔵庫から水出しコーヒーを少しだけカップに注いだ。
「そりゃああなた、ひろ子は49歳よ?」
「知ってる」
「20代、30代で色々あったんじゃない? お母さんはね、目の前に出された物を、『あなたならできるでしょ』と言われてる感じがして……突き進んできたけど」
「……」
「ひろ子はちょっと違ってて。『自分ならこう考える』ってタイプだったかな」
本当にひろ子は変わったと思う。
私にも2人の子供たちにも優しく接してくれるようになったけれど、10代の頃はたくさん悩んでいたなと、懐かしく思い出される。
冬華を見ていると、冬華と話をしていると……あの頃のひろ子と重なり合うことばかりだ。
「あの子はさ、きっと自分で自分の人生を正解に変えたんだろうね」
「……」
「問題集に書いてある正解だけが、正解じゃないってことだよ」
網戸をぬうように、心地良い風がリビングまでやってきて、「良い夜だな」と私は思った。



