「お疲れ様でした、お先に失礼します」
あれからしばらく経ったけれど、松野さんは特段何も聞いてくることはなかった。たまに視線が気になることはあるけれど、それくらい。
働きにくくなったということも、特にない。
(まあ、ある意味みんな、暇なんだよな)
春分の日もとっくに終わり、いよいよ夏至に向けて季節は変わっていく。
夕方5時の西の空は、だいぶ陽が傾いてきたけれど、まだまだ明るい。
自律神経失調症。私の人生を変えた。
離婚の手続きを進めていた時期でもあったから……色々と重なってしまったんだろうけれど、もうあれから5年も経ったのかと少し驚いてしまう。
(いやあ、ここまでよく戻ったな)
私の場合は、呼吸が苦しくなってしまう症状や、目まいや吐き気の症状が、特に強かった。
パニック症と言われたけれど、大きな発作が起きるというよりも、どちらかというと肺の中に酸素が入ってこないような感覚になる。吸い込んでも吸い込んでも、胸の奥に酸素が入ってこない。
まるで陸の上で、水の中に沈められているような。
朝の4時。目を覚ましていつも通り出社しようとした時に、自宅で起きた。
台所で思わずしゃがみ込んでしまって、「何とか息をしないと」と、ゆっくり細く酸素を吸い込もうとするけれど、溺れているような状態だった。
「救急車を呼ぼう」と思ったけれど、別れる前の旦那もいるし、何より夏穂と冬華に知られてしまうと思い、涙を流しながら、台所でずっとうずくまった。
(いやはや。死ぬかと思ったな)
あの日から、私の人生は大きく変わってしまったのだ。
(……あれ? ひろ子……?)
カバンからスマホを取り出してちらりと画面を見ると、妹のひろ子から仕事中に着信がきていた。
「もしもしひろ子? 電話した?」
「あ、お姉ちゃん。久し振り。今、大丈夫なの?」
「うん。ちょうど仕事が終わったとこだから」
ひろ子は今年で49歳になる。私の1つ下だ。
大学を卒業した後に、私と同じ会社に入社したけれど、2年ほどで九州に移住してしまった。
若い時は、私は「変わり者」と呼ばれたことも多かったけれど、ひろ子も十分変わり者だと思う。
「ねえ、今度そっちに遊びに行こうと思って。寄っても良い?」
「『そっち』って? 横浜に来るってこと?」
「そう。夏っちゃんと冬ちゃんの顔、久し振りに見たいなあって」
ひろ子は私が離婚したことは知っている。でも……あのボロアパートは見ていない。
「うーん」
「何? 行っちゃマズい?」
「いや、そういうことじゃないんだけどさ」
☆
結局、ひろ子が来るのは来週の日曜日に決まった。
フリーランスで仕事をしているらしいから、1週間ほど横浜周辺をブラブラすると言っていた。
「え! ひろ子おばちゃん来るんだ!」
野菜炒めを、わしづかみしようとしていた夏穂が、箸を止めた。
「そう。今度の日曜日に来るって」
「うわあ……いつ以来だろう。ねえ、冬華」
5年前にひろ子は横浜に来たけれど、私としか会っていない。だから夏穂たちが会うのは、きっと10年振りくらいになる。
「小学校の時に会ったきりだよね。ねえ、お母さん」
「そうね、たぶん。10年くらい前じゃないかな」
喜びを隠せない夏穂とは対照的に、冬華はいたって落ち着いているように見える。淡々と野菜炒めを口に運んでいた。
「でもさ」
何かを思い出したかのように、夏穂が急に真顔になった。
「何? どうしたの」
「この家に来るの? ひろ子おばちゃん」
(そうか。夏穂たちも気にするか……)
「どうかな。一応あなたたちに会う前に、私が会うから」
「ん? どういうこと?」
「もしかしたら、外で会うかも知れないってこと」
「ああ、そういうことかあ……」
夏穂は小学生の頃、よく家に友達を連れてきていた。5年前に引越をしてから、一回も友達を連れてきてはいない。もちろん冬華も。
一度も私に不満を言わない2人に対して、申し訳なさも正直ある。
でも今は仕方がない。
(体調が、完全に戻ったら……それまではごめんね)
いつもは夏穂たちの欠けている部分にばかり目がいってしまう。でもなぜだか今日は、2人の優しさが、とても心に染みた。
冬華と夏穂の2人は、急に何かを考え込むように、野菜炒めを黙々と食べていた。
あれからしばらく経ったけれど、松野さんは特段何も聞いてくることはなかった。たまに視線が気になることはあるけれど、それくらい。
働きにくくなったということも、特にない。
(まあ、ある意味みんな、暇なんだよな)
春分の日もとっくに終わり、いよいよ夏至に向けて季節は変わっていく。
夕方5時の西の空は、だいぶ陽が傾いてきたけれど、まだまだ明るい。
自律神経失調症。私の人生を変えた。
離婚の手続きを進めていた時期でもあったから……色々と重なってしまったんだろうけれど、もうあれから5年も経ったのかと少し驚いてしまう。
(いやあ、ここまでよく戻ったな)
私の場合は、呼吸が苦しくなってしまう症状や、目まいや吐き気の症状が、特に強かった。
パニック症と言われたけれど、大きな発作が起きるというよりも、どちらかというと肺の中に酸素が入ってこないような感覚になる。吸い込んでも吸い込んでも、胸の奥に酸素が入ってこない。
まるで陸の上で、水の中に沈められているような。
朝の4時。目を覚ましていつも通り出社しようとした時に、自宅で起きた。
台所で思わずしゃがみ込んでしまって、「何とか息をしないと」と、ゆっくり細く酸素を吸い込もうとするけれど、溺れているような状態だった。
「救急車を呼ぼう」と思ったけれど、別れる前の旦那もいるし、何より夏穂と冬華に知られてしまうと思い、涙を流しながら、台所でずっとうずくまった。
(いやはや。死ぬかと思ったな)
あの日から、私の人生は大きく変わってしまったのだ。
(……あれ? ひろ子……?)
カバンからスマホを取り出してちらりと画面を見ると、妹のひろ子から仕事中に着信がきていた。
「もしもしひろ子? 電話した?」
「あ、お姉ちゃん。久し振り。今、大丈夫なの?」
「うん。ちょうど仕事が終わったとこだから」
ひろ子は今年で49歳になる。私の1つ下だ。
大学を卒業した後に、私と同じ会社に入社したけれど、2年ほどで九州に移住してしまった。
若い時は、私は「変わり者」と呼ばれたことも多かったけれど、ひろ子も十分変わり者だと思う。
「ねえ、今度そっちに遊びに行こうと思って。寄っても良い?」
「『そっち』って? 横浜に来るってこと?」
「そう。夏っちゃんと冬ちゃんの顔、久し振りに見たいなあって」
ひろ子は私が離婚したことは知っている。でも……あのボロアパートは見ていない。
「うーん」
「何? 行っちゃマズい?」
「いや、そういうことじゃないんだけどさ」
☆
結局、ひろ子が来るのは来週の日曜日に決まった。
フリーランスで仕事をしているらしいから、1週間ほど横浜周辺をブラブラすると言っていた。
「え! ひろ子おばちゃん来るんだ!」
野菜炒めを、わしづかみしようとしていた夏穂が、箸を止めた。
「そう。今度の日曜日に来るって」
「うわあ……いつ以来だろう。ねえ、冬華」
5年前にひろ子は横浜に来たけれど、私としか会っていない。だから夏穂たちが会うのは、きっと10年振りくらいになる。
「小学校の時に会ったきりだよね。ねえ、お母さん」
「そうね、たぶん。10年くらい前じゃないかな」
喜びを隠せない夏穂とは対照的に、冬華はいたって落ち着いているように見える。淡々と野菜炒めを口に運んでいた。
「でもさ」
何かを思い出したかのように、夏穂が急に真顔になった。
「何? どうしたの」
「この家に来るの? ひろ子おばちゃん」
(そうか。夏穂たちも気にするか……)
「どうかな。一応あなたたちに会う前に、私が会うから」
「ん? どういうこと?」
「もしかしたら、外で会うかも知れないってこと」
「ああ、そういうことかあ……」
夏穂は小学生の頃、よく家に友達を連れてきていた。5年前に引越をしてから、一回も友達を連れてきてはいない。もちろん冬華も。
一度も私に不満を言わない2人に対して、申し訳なさも正直ある。
でも今は仕方がない。
(体調が、完全に戻ったら……それまではごめんね)
いつもは夏穂たちの欠けている部分にばかり目がいってしまう。でもなぜだか今日は、2人の優しさが、とても心に染みた。
冬華と夏穂の2人は、急に何かを考え込むように、野菜炒めを黙々と食べていた。



