梅雨に入ってから、毎日うんざりするほど雨が降っている。
今日も朝から空は厚い雲に覆われ、
校舎の窓を打つ雨音が途切れることはない。
放課後になっても勢いは変わらず、
靴箱の向こうに広がる景色は、白く煙る雨にぼやけていた。
グラウンドも校門も、その先の通学路まで霞んで見える。
――また、雨か。
思わず左膝に手を添える。
「かや、痛むんか?」
「……あー、ちょっとだけな」
「荷物持つ」
「そんな、大げさやわ」
「でも……」
「いいからいこや。毎日毎日、雨ばっかやな」
時枝かやの親友ー野中蒼汰は、
今日も心配そうに二年前に壊れたかやの膝を見つめる。
かやは小さく息を吐き、透明なビニール傘を開いた。
ほぼ同時に、隣でぱっと鮮やかな赤い傘が開く。
「お前、まだその傘使ってんのか?高校生男子が赤って……」
呆れながらかやは肩をすくめる。
「うん。目立つようにな」
「誰にやねん」
「さあ?」
意味ありげに笑う横顔に苦笑が漏れる。
次の瞬間、バチバチと大粒の雨が傘を叩き始めた。
透明なビニール越しに滲む景色の中で、
隣の赤だけがやけにはっきりと浮かび上がる。
目の前には、雨に濡れたテニスコートが広がっていた。
隣を歩く蒼汰が、ほんの一瞬だけコートへ視線を向けた。
その横顔を見た瞬間、左膝がじくりと疼く。
……いや。
疼いているのは膝じゃない。
全国まであと一歩だったあの日、この膝を壊したことか。
それとも、自分のせいで蒼汰までラケットを置かせてしまったことか。
どれだけ悔やんでも、過ぎた時間は戻らない。
でも、もう――。
「……蒼汰、なんで部活入らんかった?」
「いまさら?別に、特にやりたいこともないし」
蒼汰は前を向いたまま、何でもないことのように答えた。
その平然とした横顔に、胸の奥がざわつく。
「テニ部、入ればよかったやん?別に俺のことなんか気にせんと」
思っていた以上に強い口調になった。
蒼汰は足を止めることもなく、小さく息を吐く。
「俺は、ずっと好きなことしてる」
「うそつけ!まだ罪悪感があるからテニスせんのやろ?
別にあの事故は蒼汰のせいやないやん!」
気づけば、雨音をかき消すほど大きな声を張り上げていた。
「でも……俺が寄り道しよなんて言わんかったら、
事故には遭わんかった」
「蒼汰!」
雨音だけが、二人の間を埋めていく。
蒼汰は何も言わなかった。
ただ、ぎゅっと傘の柄を握りしめたまま俯いている。
その横顔は、今にも泣き出しそうなくらい苦しそうで、
唇は小さく震えていた。
「……そんなん、
誰もスリップしたバイクが飛んでくるなんて分からんやん、あほ……」
目頭がジンと熱くなる。
「泣くなよ……」
「泣いてへん!」
「いや、めちゃ泣いてるし」
「うっさいわ!今はお前の話してんねん!」
また沈黙が落ち、雨音がふたりを隔てる。
――いっしょにおりたい。
はじめはそれだけだった。
その願いから始まった嘘は、二年かけてかやの胸を締めつけ続けた。
「お前は今からでも遅ない。
もう、俺のせいでお前までテニス辞めたことが耐えられへんねん……」
「……」
「……ほんまは俺の膝、とっくの昔に治っとるねん……」
声が震える。ちゃんと立っているはずなのに、足元がふらつく。
「はじめはほんまにダメだった。
半月板やられたし、リハビリやってめっちゃ時間かかった。
でも……」
「うん……」
「高校入ってすぐくらいで、
テニスも復帰していええよって言われてた。でも、俺……」
赤い傘が一歩近づく。視界がほんのり暗くなる。
「また一からテニスすんの怖かった……でもほんまは……
俺、誰かがお前とダブルスするん嫌だった。
それに、俺を置いて先に進むお前を見んのが嫌やった。
そんなこと思ってる自分はもっと嫌やし……
やから激しい運動は無理って嘘ついて……
んで、たまに痛がるふりなんかして」
言葉にすると自分がどれだけ最低なことをしていたのか浮き彫りになる。
「でも、お前が俺の横におる理由が罪悪感なんやったら……
もう、そんなもんいらん」
「……やっと言ったか」
「は?」
ふいに、かやの傘がぽいと投げ捨てられた。
そして視界が赤に染まる。
「ほら、顔拭けよ。鼻水も」
蒼汰からくしゃくしゃのタオルハンカチを渡される。
「知っとったわ。俺がどれだけお前の病院行ったと思ってんねん。
先生にも、お前のおかんにも『もう大丈夫』って何回聞いたか」
「え、はぁ?」
校舎まで聞こえそうな声が出た。
「いや、うるさ」
蒼汰は眉間にしわを寄せる。
「お前、体育祭で普通にジャンプしとったしな。
家でも走り回っとるし」
かやはまっすぐ、偽りのない目で見つめられた。
思わず、ざりっと後ずさる。
「俺はかやとテニスするんが楽しかっただけ。
別にかやとおれるんやったら何でもええ。
サッカーでも卓球でもなんでもな」
「蒼汰……」
表情の乏しい蒼汰が、フッと微笑んだ。
「なんなら囲碁部にするか?」
止まっていた涙がまた溢れ出した。
「……囲碁って……ふふっ……」
「おい、囲碁バカにすんなよ」
まだ空は晴れない。
曇り空が広がって雨は止む気配がないけれど雨の勢いはそれほどない。
かやはビニール傘を閉じ、何も言わず赤い傘の下へ入る。
そしてどちらともなく、校門に向かって歩き出す。
雨に霞む景色の中で、赤い傘だけが鮮やかだった。



