冷たい水で顔を洗うのは気持ちが良かった。山裾の湧水を水道に引いているのだろう。きりりと肌が引き締まる。肩に掛かる長い髪をゴムで結わえ、高い位置で留める。首筋に風が通り、いっぺんに鬱陶しさから解放される。
まだ早朝だというのに、照りつける陽射しは既に強い。今日も暑くなりそうだ。
「おーい、ツヤカー。そろそろ飯の支度、行くぞー」
廊下を曲がってやってきたアジポンは、洗面台に佇む後ろ姿を見て反射的にたじろぎ、思わず忍者のように壁に背中を張り付けた。
「おっ、おまえ、なっ、なんだ、そそそ、そのポニーテールは? てっきり女だと思ったじゃねえか」
タオルを手にしながらツヤカが振り向く。うなじから鎖骨にかけて、白い肌が広く露出している。ロングサイズのTシャツはウエストを絞ったデザインで、ワンピースのように見えなくもない。
「だって暑いんだもんよ。仕方ねえだろ」
そう言って濡れた前髪をタオルで拭く。荒々しい仕草は明らかに男のそれだ。
「ツヤカ」というのはもちろん芸名だ。漢字で書くと「艶香」になる。整った顔立ちと腰の細さのせいで、よく女に間違われる。昨日、買い出しに行った八百屋で「奥さん」と声をかけられた。買い物かごが民宿のおばさんのものだったせいもあるかもしれないが、こんなことは日常茶飯事だ。いずれにせよ、そんなに間違われるのならば、いっそ芸名を女性風にしてしまえと思ったのだ。以来、対外的にはこれで通している。
民宿の一日は朝食の準備から始まる。食材を洗ったり、食器を並べたり、やるべきことは多い。とはいえ、まだ二時間近くは余裕がある。泊っている高校生たちは昨夜、花火の後も夜更かしをしていたのだろう。誰も起きてはこない。
「おはようございまーす」
ツヤカとアジポンが厨房に入っていくと、おばさんがリズミカルな音を立てて味噌汁に入れる菜を刻んでいた。
「おーや、おはようさん。眠くはありゃせんかね?」
「若いですからね。ふぁ」
聞かれたそばからツヤカが大きく欠伸をする。アジポンは口を真一文字に結び、必死に欠伸を噛み殺している。おばさんは苦笑しつつ、それでも包丁を握る手は休めない。
「あれ、もう一人はどないしたね? あの変ちくりんなお面被ってたの」
ツヤカとアジポンは顔を見合わせ、はて?とポーズをとる。アメリカ人がよくやる、肘を曲げて首をすくめるゼスチャーだ。
「そうだ、イケ、まだ起きてないの?」
「俺、起こしてきますよ」
出て行こうとするアジポンをツヤカが追う。その背中をおばさんが呼び止めた。
「ああ、待て待て。その馬の尻尾みたいなの。おまえさんは水撒きをやっとくれ。玄関を出たところに水道とホースがあるから」
中庭には砂利が敷き詰めてあった。突っかけたサンダルを踏み出すたびにシャリシャリと小気味よい音が響く。
L字形に配置された建物は南側が旧館、西側が新館になっていて、道路に接する北側に川原石などを配した植え込みがある。東側の松林は湖に続いている。
この辺りの民宿村は湖の最も奥まった場所に位置しており、駅のある中心街とは対角線上にある。そのため、観光客が押し寄せることもなく、彼ら目当ての洒落たペンションや喫茶店もない。店と言えば近隣住民のための雑貨屋くらいで、コンビニのひとつもない。不便だが、原生林に囲まれた立地は自然に恵まれ、山の息吹に抱かれているような雄大な感覚を与えてくれる。
主な客層は学校や町内会などの団体で、彼らはリーズナブルな価格設定を求めるため、設備や食事をことさら豪華にする必要がない。むしろ、年季の入った調度品や田舎料理といった、地元の風合いを生かした素朴なものの方が好まれる。都会では触れることができないものこそ、ここで提供する価値があるのだ。
空は高く晴れ上がっている。ツヤカは両手を広げ、大きく息を吸い込んだ。樹木の香りを含んだ清浄な空気が肺の隅々まで行き渡る。
ふと背後に気配を感じて振り返ると、案の定そこにはニワトリがいた。
「うわ、驚いた」
抑揚のない棒読みで言うと、ツヤカは持っていたホースの先をイケに向け、シャワーのツマミを捻った。ニワトリの面に水飛沫が跳ねる。上半身裸のイケは動じることもなく、仁王立ちのままだ。
「ふーう。ようやく目が覚めたわい」
「あのな、どうでもいいけど、マスク被ったまま背後に立つのはやめろ。わかっていても心臓に悪い。しかも、朝っぱらから」
ツヤカはシャワーを止め、イケに向き合う。
「いや、だってさ、このマスク付けると人間が変わったような気がして、とっても気分が良いんだよな」
「そりゃ、ニワトリになるんだから、人間ではなくなるけどな」
「変身願望ってあるだろ? あれだな」
「何も、自ら望んで人外に堕ちなくてもいいと思うが」
「何を聖なる存在とするかは民族や宗教によって異なる。比較文化論で習っただろ?」
「おまえのそのニワトリは聖なる存在なのか?」
「フハハハ。おまえもニワトリにしてやろうか」
「それ、悪魔教のバンドが黒ミサで言う決め台詞と同じじゃねえか」
両手を上げて攻撃態勢に構え、じりじりと歩み寄るイケに押され、ツヤカは少しずつ後ずさる。確かに、このビジュアルは生理的な恐怖心を呼び起こす。中身が人間だと頭では理解しているものの、本能がそれを拒絶する。というか、単純に気味が悪い。
「ちち、近寄るな。これ以上、近寄ると、撃つぞ」
「フハハハハハハ」
「ささ、さっきのように水かけるぞ。かかか、かけるぞ」
「おう、じゃんじゃんかけてくれ」
調子に乗るイケは胸を張って答えた。
朝食の後片付けを終え、テーブルの脚を折り畳んでいたアジポンに、数名の女子高校生たちが声をかけてきた。
「あの、写真、一緒にいいですか?」
「俺?」
アジポンが自分の鼻を指差すと、女子たちは笑いながら頷く。
「はい。記念に」
何を記念して、しかも、なぜ自分なのかはわからないが、とりあえず縁側に出る。
こんな時アジポンはいつも、自分が何を期待されているのかを考えるようにしている。多くの場合、それは「ヘンテコなキャラ」だ。だから、今回もわざとサングラスを逆さまに掛け直す。女子たちは大ウケだ。笑いの渦に囲まれながら、掴みはOKと、内心でホッとする。女子たちは入れ代わり立ち代わり、「記念」写真をスマホに収めていく。
「昨日から密かに思ってたんですけど、アジポンさんって、行動形態が爬虫類っぽいですよね?」
「そお?」
言うが早いか、さっそくイグアナのように縁側を這いずり始める。コツは指先の関節を曲げることだ。それでゆっくりと腕や脚を一本ずつ動かし、首を大仰に回転させる。女子たちが、きゃー、と悲鳴にも似た歓声を上げる。
中庭では、ニワトリのマスクを被り腕組みをするイケの周りで、数名の男子高校生たちが同様に腕組みをしていた。
こちらも「記念」撮影が終わると、中の一人がイケからマスクを譲り受け、神妙に装着する。おお、とどよめきが起こり、全員が一歩ずつ後ずさる。マスクを被った男子が爪を立てるポーズをとると、他の男子がそれを写真に収めていく。
次にマスクを譲り受けた男子はジョジョ立ちの姿勢を取るが、それは違う、と全員からツッコミが入る。
本家のイケはというと、少し離れたところから一連のやりとりを見ていた。表情に満足感が浮かんでいる。
「うむ。今回も良き後継者を得た」
無造作に折り重ねられた布団が部屋の隅に積み上がっている。八畳の和室。空いたスペースを利用して、ツヤカは男女の高校生たちを相手に即席のダンスレッスンをしていた。
「ここね。ここで肘をキュッと締めるわけ。そうすると、ラインがきれいに見えるから」
高校生たちがツヤカを真似てポーズをとる。みな真剣な面持ちだ。
「そうそう。じゃ、今度はそれに足を合わせてみよう。みんな、立って」
全員が立つと、さすがに狭さを感じる。間隔を空けようと高校生たちが少しずつ左右にずれるので、ツヤカは部屋から押し出されるような格好となる。
「邪魔だね。取っ払っちゃうか」
隣室との仕切りになっていた襖を外し、壁に立て掛ける。たちどころに十六畳の大空間が出現した。これなら思い切って手足を伸ばせる。
縁側に向かって中央にツヤカ。それを取り囲むように高校生たち。ワンステップずつ、最初はゆっくりと、やがて徐々にスピードを早めていくが、四本の手足をそれぞれ左右非対称に動かさなければならないため、高校生たちはなかなか上手くできない。それでも、何度か繰り返しているうちに次第に形になってくる。
「いいね。じゃ、もう一度やってみようか。はい、ワン、ツー、スリー、フォー、スリーフォ、スリー、フォー」
ツヤカの頭の中では音楽が鳴り響いている。この調子で全員がシンクロできたら、さぞかしカッコいいだろう。動画配信サイトにアップすることがあれば、知らせてもらわなくちゃ。その時はアドバイザーとしてクレジットしてくれたら、なお嬉しいのだが。そんなことを考えながら、一人一人の所作を確認する。
荷物を抱えた高校生たちが、三々五々、民宿を後にしていく。おばさんとともにそれを見送るのがツヤカたちの最後の仕事だ。高校生たちはみな、去り際に思いのこもった言葉を残してくれる。名残惜しいのか、中にはツヤカたちの手をがっちり握りしめて離さない者もいる。
「お世話になりました」
「また、いつか、どこかで」
「写真上げとくから、見に来てね」
自分たちのしたことに対して受け手がアクションを返してくれるのは嬉しい、とツヤカはいつも思う。たとえ、それが必ずしも好意的とは言えないものであったとしても、だ。
言葉を交わした人すべてと友だちになりたい。知り合う人が多ければ多いほど、自分の世界は豊かになる。だから、できるだけ多くの人と知り合いたい。短い生涯の間に関係を持てる人はごくわずかだ。だったら、その関係の輪を少しでも広げたい。自分のためだけでなく、その輪に巻き込まれる相手の笑顔のためにも。
最後の一人が坂の向こうに消えるのを見届けると、ツヤカたちはようやく振っていた手を下ろした。間髪を入れず、おばさんが威勢よく声を張り上げる。
「さあ、仕事だよ、仕事。早よ布団を干しんさい」
追い立てるように布団叩きでイケの尻を叩く。
「明日にはまたお客さんが来るんだからね」
まだ早朝だというのに、照りつける陽射しは既に強い。今日も暑くなりそうだ。
「おーい、ツヤカー。そろそろ飯の支度、行くぞー」
廊下を曲がってやってきたアジポンは、洗面台に佇む後ろ姿を見て反射的にたじろぎ、思わず忍者のように壁に背中を張り付けた。
「おっ、おまえ、なっ、なんだ、そそそ、そのポニーテールは? てっきり女だと思ったじゃねえか」
タオルを手にしながらツヤカが振り向く。うなじから鎖骨にかけて、白い肌が広く露出している。ロングサイズのTシャツはウエストを絞ったデザインで、ワンピースのように見えなくもない。
「だって暑いんだもんよ。仕方ねえだろ」
そう言って濡れた前髪をタオルで拭く。荒々しい仕草は明らかに男のそれだ。
「ツヤカ」というのはもちろん芸名だ。漢字で書くと「艶香」になる。整った顔立ちと腰の細さのせいで、よく女に間違われる。昨日、買い出しに行った八百屋で「奥さん」と声をかけられた。買い物かごが民宿のおばさんのものだったせいもあるかもしれないが、こんなことは日常茶飯事だ。いずれにせよ、そんなに間違われるのならば、いっそ芸名を女性風にしてしまえと思ったのだ。以来、対外的にはこれで通している。
民宿の一日は朝食の準備から始まる。食材を洗ったり、食器を並べたり、やるべきことは多い。とはいえ、まだ二時間近くは余裕がある。泊っている高校生たちは昨夜、花火の後も夜更かしをしていたのだろう。誰も起きてはこない。
「おはようございまーす」
ツヤカとアジポンが厨房に入っていくと、おばさんがリズミカルな音を立てて味噌汁に入れる菜を刻んでいた。
「おーや、おはようさん。眠くはありゃせんかね?」
「若いですからね。ふぁ」
聞かれたそばからツヤカが大きく欠伸をする。アジポンは口を真一文字に結び、必死に欠伸を噛み殺している。おばさんは苦笑しつつ、それでも包丁を握る手は休めない。
「あれ、もう一人はどないしたね? あの変ちくりんなお面被ってたの」
ツヤカとアジポンは顔を見合わせ、はて?とポーズをとる。アメリカ人がよくやる、肘を曲げて首をすくめるゼスチャーだ。
「そうだ、イケ、まだ起きてないの?」
「俺、起こしてきますよ」
出て行こうとするアジポンをツヤカが追う。その背中をおばさんが呼び止めた。
「ああ、待て待て。その馬の尻尾みたいなの。おまえさんは水撒きをやっとくれ。玄関を出たところに水道とホースがあるから」
中庭には砂利が敷き詰めてあった。突っかけたサンダルを踏み出すたびにシャリシャリと小気味よい音が響く。
L字形に配置された建物は南側が旧館、西側が新館になっていて、道路に接する北側に川原石などを配した植え込みがある。東側の松林は湖に続いている。
この辺りの民宿村は湖の最も奥まった場所に位置しており、駅のある中心街とは対角線上にある。そのため、観光客が押し寄せることもなく、彼ら目当ての洒落たペンションや喫茶店もない。店と言えば近隣住民のための雑貨屋くらいで、コンビニのひとつもない。不便だが、原生林に囲まれた立地は自然に恵まれ、山の息吹に抱かれているような雄大な感覚を与えてくれる。
主な客層は学校や町内会などの団体で、彼らはリーズナブルな価格設定を求めるため、設備や食事をことさら豪華にする必要がない。むしろ、年季の入った調度品や田舎料理といった、地元の風合いを生かした素朴なものの方が好まれる。都会では触れることができないものこそ、ここで提供する価値があるのだ。
空は高く晴れ上がっている。ツヤカは両手を広げ、大きく息を吸い込んだ。樹木の香りを含んだ清浄な空気が肺の隅々まで行き渡る。
ふと背後に気配を感じて振り返ると、案の定そこにはニワトリがいた。
「うわ、驚いた」
抑揚のない棒読みで言うと、ツヤカは持っていたホースの先をイケに向け、シャワーのツマミを捻った。ニワトリの面に水飛沫が跳ねる。上半身裸のイケは動じることもなく、仁王立ちのままだ。
「ふーう。ようやく目が覚めたわい」
「あのな、どうでもいいけど、マスク被ったまま背後に立つのはやめろ。わかっていても心臓に悪い。しかも、朝っぱらから」
ツヤカはシャワーを止め、イケに向き合う。
「いや、だってさ、このマスク付けると人間が変わったような気がして、とっても気分が良いんだよな」
「そりゃ、ニワトリになるんだから、人間ではなくなるけどな」
「変身願望ってあるだろ? あれだな」
「何も、自ら望んで人外に堕ちなくてもいいと思うが」
「何を聖なる存在とするかは民族や宗教によって異なる。比較文化論で習っただろ?」
「おまえのそのニワトリは聖なる存在なのか?」
「フハハハ。おまえもニワトリにしてやろうか」
「それ、悪魔教のバンドが黒ミサで言う決め台詞と同じじゃねえか」
両手を上げて攻撃態勢に構え、じりじりと歩み寄るイケに押され、ツヤカは少しずつ後ずさる。確かに、このビジュアルは生理的な恐怖心を呼び起こす。中身が人間だと頭では理解しているものの、本能がそれを拒絶する。というか、単純に気味が悪い。
「ちち、近寄るな。これ以上、近寄ると、撃つぞ」
「フハハハハハハ」
「ささ、さっきのように水かけるぞ。かかか、かけるぞ」
「おう、じゃんじゃんかけてくれ」
調子に乗るイケは胸を張って答えた。
朝食の後片付けを終え、テーブルの脚を折り畳んでいたアジポンに、数名の女子高校生たちが声をかけてきた。
「あの、写真、一緒にいいですか?」
「俺?」
アジポンが自分の鼻を指差すと、女子たちは笑いながら頷く。
「はい。記念に」
何を記念して、しかも、なぜ自分なのかはわからないが、とりあえず縁側に出る。
こんな時アジポンはいつも、自分が何を期待されているのかを考えるようにしている。多くの場合、それは「ヘンテコなキャラ」だ。だから、今回もわざとサングラスを逆さまに掛け直す。女子たちは大ウケだ。笑いの渦に囲まれながら、掴みはOKと、内心でホッとする。女子たちは入れ代わり立ち代わり、「記念」写真をスマホに収めていく。
「昨日から密かに思ってたんですけど、アジポンさんって、行動形態が爬虫類っぽいですよね?」
「そお?」
言うが早いか、さっそくイグアナのように縁側を這いずり始める。コツは指先の関節を曲げることだ。それでゆっくりと腕や脚を一本ずつ動かし、首を大仰に回転させる。女子たちが、きゃー、と悲鳴にも似た歓声を上げる。
中庭では、ニワトリのマスクを被り腕組みをするイケの周りで、数名の男子高校生たちが同様に腕組みをしていた。
こちらも「記念」撮影が終わると、中の一人がイケからマスクを譲り受け、神妙に装着する。おお、とどよめきが起こり、全員が一歩ずつ後ずさる。マスクを被った男子が爪を立てるポーズをとると、他の男子がそれを写真に収めていく。
次にマスクを譲り受けた男子はジョジョ立ちの姿勢を取るが、それは違う、と全員からツッコミが入る。
本家のイケはというと、少し離れたところから一連のやりとりを見ていた。表情に満足感が浮かんでいる。
「うむ。今回も良き後継者を得た」
無造作に折り重ねられた布団が部屋の隅に積み上がっている。八畳の和室。空いたスペースを利用して、ツヤカは男女の高校生たちを相手に即席のダンスレッスンをしていた。
「ここね。ここで肘をキュッと締めるわけ。そうすると、ラインがきれいに見えるから」
高校生たちがツヤカを真似てポーズをとる。みな真剣な面持ちだ。
「そうそう。じゃ、今度はそれに足を合わせてみよう。みんな、立って」
全員が立つと、さすがに狭さを感じる。間隔を空けようと高校生たちが少しずつ左右にずれるので、ツヤカは部屋から押し出されるような格好となる。
「邪魔だね。取っ払っちゃうか」
隣室との仕切りになっていた襖を外し、壁に立て掛ける。たちどころに十六畳の大空間が出現した。これなら思い切って手足を伸ばせる。
縁側に向かって中央にツヤカ。それを取り囲むように高校生たち。ワンステップずつ、最初はゆっくりと、やがて徐々にスピードを早めていくが、四本の手足をそれぞれ左右非対称に動かさなければならないため、高校生たちはなかなか上手くできない。それでも、何度か繰り返しているうちに次第に形になってくる。
「いいね。じゃ、もう一度やってみようか。はい、ワン、ツー、スリー、フォー、スリーフォ、スリー、フォー」
ツヤカの頭の中では音楽が鳴り響いている。この調子で全員がシンクロできたら、さぞかしカッコいいだろう。動画配信サイトにアップすることがあれば、知らせてもらわなくちゃ。その時はアドバイザーとしてクレジットしてくれたら、なお嬉しいのだが。そんなことを考えながら、一人一人の所作を確認する。
荷物を抱えた高校生たちが、三々五々、民宿を後にしていく。おばさんとともにそれを見送るのがツヤカたちの最後の仕事だ。高校生たちはみな、去り際に思いのこもった言葉を残してくれる。名残惜しいのか、中にはツヤカたちの手をがっちり握りしめて離さない者もいる。
「お世話になりました」
「また、いつか、どこかで」
「写真上げとくから、見に来てね」
自分たちのしたことに対して受け手がアクションを返してくれるのは嬉しい、とツヤカはいつも思う。たとえ、それが必ずしも好意的とは言えないものであったとしても、だ。
言葉を交わした人すべてと友だちになりたい。知り合う人が多ければ多いほど、自分の世界は豊かになる。だから、できるだけ多くの人と知り合いたい。短い生涯の間に関係を持てる人はごくわずかだ。だったら、その関係の輪を少しでも広げたい。自分のためだけでなく、その輪に巻き込まれる相手の笑顔のためにも。
最後の一人が坂の向こうに消えるのを見届けると、ツヤカたちはようやく振っていた手を下ろした。間髪を入れず、おばさんが威勢よく声を張り上げる。
「さあ、仕事だよ、仕事。早よ布団を干しんさい」
追い立てるように布団叩きでイケの尻を叩く。
「明日にはまたお客さんが来るんだからね」



