イントロダクション
ほんのひと月と少しを共に過ごした半同居人の二人——春山雲雀と吾妻烏有が忽然と姿を消した世界はどこか空虚だった。
殊、吾妻烏有の喪失は依兎にとって大きな傷となり胸の奥でじくじくと膿み続けている。
依兎の烏有への第一印象は決して良いものではなかった。
それでもどうしてか。依兎はいつの間にか吾妻にすっかり傾倒してしまっていた。
自分のことながらに不思議で仕方がなかったが、本能が吾妻の存在を求めてやまなかったのだ。
彼の不在を目の当たりにした瞬間、依兎は酷い眩暈を覚えた。
吾妻を失った世界は色彩に乏しい。
否、元々乏しかった色彩を鮮やかにしたのが雲雀と烏有だったのだ。それが元に戻っただけ。ただそれだけのことなのに、依兎にはその変化が無性に虚しく思えた。
別にもう良いんじゃないか。
生に固執する必要などないのではないかと、そんなことを思ってしまう。
特に、駅のホームに立つと。
気付くとホームの端を歩いている。
それはまるで吸い込まれていくように。
頬を撫でる風が水分を失い始めた頃。
依兎は線路の上に白い翅の蝶を見付けた。透き通るような白い翅の蝶だった。
電光掲示板が報せる次の電車到着までは後三分。
写真一枚くらいなら撮れるだろうとホームの端にしゃがみ込んでカメラのファインダーを覗いた。
ピントを合わせてシャッターを切ろうとしたその瞬間、蝶は大きく羽ばたいてもう一本向こうのレールに行ってしまった。
慌ててカメラを構え直そうとした瞬間、ぐらりと体勢が前方へと傾いた。重心移動に失敗したのだ。
あ、と思う。電車が到着するアナウンスが遠くに聞こえる。
このまま電車の車輪の下敷きになってしまうのだろうか。
大層痛そうだ。けれどもそれは一瞬のことかも知れない。
そうだとしたら、手っ取り早くこの世界から去れる理由としてはこれ以上ない好遇ではないか。
重心を取り直すことを諦めた、その瞬間。危ない! という声と共に強く腕を後方に引かれた。
プァー、と電車が大きな警笛を鳴らしながらホームに滑り込んでくる。
依兎がハッとした時、彼はホームのコンクリートの上に尻もちをついていた。
「あんな所で何をしていたんだいっ? まったく危ないじゃないか!」
背後から聞こえた声に耳を疑う。
聞き覚えのある声だったからだ。
けれどもその声はもう聞けない筈なのに。
ゆるり、首を回して振り返ったら、そこにはキャップを被った同年代くらいの男が険しい顔で依兎を睨み付けていた。
息が、止まった。
「あが、つま……?」
そう。キャップのツバの下に見えた顔は失った筈の烏有の顔だったのだ。
依兎は暫く茫然としてから、目を強く擦った。
これは夢だろうか?
しかしその疑念を烏有に似た男はキョトンとした顔で跳ね返してきた。
「……何故僕の名前を知っているんだい?」
前にどこかで会ったことがあるかな?
訝しげな男の表情に、目の前の人は自分のことを知らないのだと悟る。
「あ……の、悪いが、名前を聞いても良いだろうか?」
掠れた声で烏有に似た男へ問えば、その男はほんの少しだけ首を傾けながら名乗った。
「吾妻烏有、だけど」
くらり。依兎の世界が眩暈で一回転した。
吾妻烏有? 吾妻烏有、だなんて響きの名前はそうそう多くある名前ではない。
それに、外見だって依兎の知る吾妻烏有と全く同じだ。
何がどうなっている?
頭の中で思考回路がこんがらがる。
「とにかく、ホームのあんな際に居ては危ないよ。気をつけたまえ」
口調まで依兎の知る吾妻烏有そのままの男が、じゃあ僕はこれでとボストンバックを片手に去って行きそうになったのを、依兎はバックの端を掴んで引き留めた。
「……何か?」
「あ、いや……助けてもらった礼がしたい……」
「そんなもの。大したことをした訳じゃない」
「だけど、あのままだったら電車に轢かれていた」
「それは、そうだね」
「コーヒーの一杯でも奢らせてくれないか」
そう紡いだのは、目の前の『吾妻烏有』が何者かを知りたいが故のことだった。
「そんなに云うなら……まぁ、僕は忙しくはないし」
ご馳走になろうかな、と男は明るい笑みを浮かべた。
改札を出て、近くの古い喫茶店に入った。
声も顔も背格好も、全て依兎の知る吾妻烏有と同じだった。
「煙草、吸っても良いかな?」
コーヒーが運ばれてくるのを待っている間、テーブルに据え置かれていたガラスの灰皿をトントンと指先で叩く男に、依兎は頷く。
何もかも依兎の知っている吾妻烏有だったが、彼がジーンズのポケットから出した煙草の銘柄だけは依兎が知っているものとは違った。
そこで、ハッとする。
依兎の知る吾妻烏有は恐らく別の世界の吾妻烏有だった。
もしかしたら、この目の前の男は依兎の夢の中で生きる吾妻烏有なのかも知れない。
自分は今、いわゆる明晰夢とやらを見ているのかも知れない。
都合の良い考え方かも知れないが、そう思い至ったらそうとしか考えられなかった。
「君の名前は?」
カチッ、とライターを鳴らした男が問うてくる。
「え……?」
「君は僕の名前を知っていただろう? もしかして僕が君の顔を忘れてしまっているだけかも知れない」
「……つ……都築、依兎」
「つづきいと……」
飴玉を舐めるように口の中で転がされた名前。
「やっぱり知らない名前だな……」
不思議そうな顔をする烏有に、依兎は咄嗟なデタラメを吐き出した。
「俺は、たまに予知夢みたいなものを見るんだ……今日の出来事は前に見たそれと同じだった」
尤もらしく神妙な顔付きで云えば、烏有はふぅんと紫煙を細長く吐く。
「じゃあこれは何かの縁なのかな」
悪戯な笑みも依兎の知る烏有の笑みと同じだった。
運ばれてきたコーヒーに角砂糖をみっつ落とした依兎を見て、烏有は眉根を寄せる。
「そんなに砂糖を入れるならコーヒーじゃなくて紅茶でも飲めば良いじゃないか」
「砂糖を入れたコーヒーが好きなんだ」
実際のところ別にコーヒーに拘りがある訳ではないけれど、適当にそんなことを云う。
「ねぇ依兎」
「……っ」
彼にとっては初対面なのに馴れ馴れしく下の名前で呼ばれて息が一瞬止まる。
「君、一人暮らし?」
「え、あ、あぁ……」
「僕たち、何やら縁があるようだし、ひとつお願いを聞いてくれないかな?」
「なに、を……?」
ぱちぱちと忙しなく瞬きをする依兎に、烏有は器用に片目を瞑って見せた。
「暫く居候させて欲しい」
まるで依兎の知る烏有が初めて依兎の家に上がり込んできた時のような強引さ。
依兎はいよいよ眩暈を覚えた。
この夢の中の(と仮定した)烏有はこれまでふらふらと女の家を転々としてきていたらしい。
職業は情報屋という怪しいもの。怪しい職業だからこそ、足が付かないように居住地を据えずにふらふらしているのかも知れない。
「丁度昨日追い出されてしまってね。どうしようかと困っていたんだ」
コーヒーを啜りながら苦笑する烏有は、頼むよと切実な表情で眉尻を下げた。
「……それ、は……、」
「駄目かい?」
「……いや、構わ、ない」
丁度空き部屋がある。
そう答えてしまったのは、仮初でも胸の奥の傷を塞ぎたかったからなのだろう。
そうして依兎と烏有の二人暮らしが始まった。



