神戸異人館の手紙屋さん

「それからというもの、私の足は施設に住むおばあちゃんの元から遠のきました。社会人になり、私も自分自身のことで手一杯だったということもあります。でも、一番は……どうせ会いに行っても、私のことなんて覚えてないからと、思ったからでした」

『最近、おばあちゃんのところ行ってないでしょう? たまには汐里も顔を見せに行ってあげてね』
『いま仕事が忙しいから、ひと段落ついたら行ってみる』

 母にそう言われ、「時間ができたら会いに行こう」と思っていたが、日々の忙しさに追われ、「時間ができたら」が訪れる日は一向に訪れなかった。

 祖母が死んだと知らされたのは、それから三か月後のことだった。残業中の職場で、母からその知らせを聞かされた。

「……今になって、時々思うんです。『時間ができたら』だなんて言い訳しないで、無理にでも時間を作っておばあちゃんに会いに行けばよかったって。……たとえ私のことを覚えていなくても、『ありがとう』って言いたいことはたくさんあったのに」

 施設へ行った時、入居者が集まる談話室で車椅子に腰掛けて、テレビを見ていた祖母の背中を思い出す。

 誰かと話をするわけでもなく、ぼんやりとテレビ画面を見ていたその後ろ姿が、不意に頭をよぎる時がある。施設ではレクリエーションの時間も設けられているとはいえ、何をするでもなく単調な日々を送る祖母は、どんな毎日を送っていたのだろう。

 それを、もっと知ろうとすればよかったと、心のどこかで後悔している自分がいる。

「子どもの頃、おばあちゃんが他愛ない私の話を『うんうん』って、ただ聞いてくれていたみたいに……私も、そういう何気ない時間をおばちゃんと過ごせばよかった」

 そんな簡単なことすら、してあげられなかった自分。

『最近、物忘れがひどくてな。どんどん忘れてしまうわ。もう、おばあちゃんも年やな。……大事な思い出まで、忘れたくないんやけど』

 施設に入る前、まだ元気だった祖母がそんな弱音を呟いていたことがあった。その頃から、食欲が減りやせ細っていたが、それでも身の回りのことを自分でして生活できていたのに。それから認知症が進むのは、あっという間だったと思う。

「たとえ、いろんなことを忘れても、私がたくさん思い出話を語ってあげればよかった……っ」

 汐里がそう呟くと、そっと差し出された紺色のハンカチ。そこで汐里は、初めて自分が泣いていることに気が付いた。

「すみません、急に……っ」

 遠慮がちにハンカチを受け取ると、「お気になさらないでください」と優しい声が返ってくる。

「……会って、どんな話をしたいと思ったのですか」

 陽だまりのようなリヒトの温かな声に背を押されるかのように、汐里の胸のうちに秘めていた思いが溢れ出す。

「特別なことじゃなくてよくて……っ、一緒に旅行先の温泉旅館で卓球をして楽しかったとか……っ、おばあちゃんが忘れてしまった思い出を、私が話してあげればよかったなって……」

 リヒトは涙声でそう話す汐里に、ふと頬を緩めた。それから「では」と続けると、ぱちんと指を鳴らした。すると直後、机の上に色とりどりのインク瓶が突然現れた。