神戸異人館の手紙屋さん

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「浅見さん、今日の会社訪問、悪いけど一人で行ってきてくれる?」

 パソコンに向かって資料作成をしていた汐里の耳に、上司である神崎明美の声が聞こえてきた。ふと顔を上げると、分厚いファイルがデスクの端に置かれており、ファイルの表紙には「S社報告書資料」とラベルが貼ってある。

「これ、この前佐々木さんが話してた新しい案件のものですか?」

 汐里が尋ねれば、明美は肩で切り揃えられた髪を耳にかけながら申し訳なさそうに両手を合わす。

「そう。軽くヒアリングした後、過去のフォーマット参考にして、たたき台の資料作っておいてもらえると助かるな。別件で急ぎ対応の案件入っちゃったから、同行できそうになくて」

「分かりました。確か北野にある会社ですよね? 近いですし、終わったら直帰するので構いませんよ」

 汐里が垂れ目がちな瞳を緩ませて笑むと、「ありがとう、浅見さん!」とはつらつとした笑みを浮かべ、明美は自分のデスクへと戻っていった。

 ぱらぱらとファイルに目を通した後、デスクの左側に置いている「未処理」のボックスにそれを入れ、またパソコンの画面に視線を戻して作業を再開する。

 カタカタとタイピングをする音が聞こえるだけの静かな職場の中で、汐里はため息をつきたくなる衝動をぐっと堪えて、ひたすら資料作成に没頭することにした。


 新卒で入社した会社を一年で辞め、今働いている職場は二社目。社員は十人ほどの、こじんまりとした会社ながらも取引先は多く、毎月毎月新規の案件が入ってきて休む暇もないほど忙しい。

 必然的に社員一人あたりに振り分けられる仕事量も多くなり、勤務時間はあっという間に過ぎていく。やりがいがあるかは正直分からないものの、「きちんと会社員として働いている」という事実は汐里の心の負担を少しだけ軽くしてくれている。

 とはいえ、黒のパンツスーツに眼鏡、胸ほどある髪は後頭部の低い位置で結んだポニーテールと、絵に描いたような「真面目」スタイルの自分に何だかなぁ、という気持ちが顔を出す。

 大学生のころに思い描いていた社会人生活は、もっと華やかだったのに。休日にショッピングへでかけてオシャレをする余裕もなく、自宅にこもってダラダラと動画を観ながら過ごす週末が汐里の日常だった。

(理想と現実の差が大きすぎる……)

 正社員として働ける環境は、いまの自分にとってありがたい。大きな病気もなく、体もいたって健康で、衣食住に困ることだってない。

 でも、なぜだろう。

 心にいつも満たされない気持ちがあり、「自分の人生はこのままでいいのかな」と考えてしまうことがある。

 贅沢な悩みといえば、それまでだが、大きな感情の波もない変わり映えのない日々に悶々としているのも事実だった。

 デスクの右側にあるペン立てには、ボールペンや赤ペン、蛍光ペンなどを差してあり、その内の一本にはペンにリングを通すようにキーホルダーが付けられている。ちりめん生地で作られた桜の根付が、そんな汐里を見守るかのようにじっと見つめていた。