神戸異人館の手紙屋さん

「……亡くなっても想ってくれる人がいる、か」

 誰もいなくなった静かな洋館に、雨粒のようなリヒトの呟きが響いた。それから室内を見渡した横顔には、どこか憂いが浮かんでいた。

 コツコツと革靴の音をさせながら、先ほどまで汐里が座っていた椅子にそっと触れる。重厚感のあるそれは、かつてリヒトの主が愛用していた椅子で、背面には貝殻や波をモチーフにしたレリーフが施されている。

 港町神戸らしい趣のある品を主人はたいそう気に入って、よくここで書き物をしていたことを思い出す。

 机上には、便箋にインク瓶、万年筆が無造作に置かれ、彼女はいつも窓の外に見える海を眺めていた。窓の外から入ってきた風が、彼女の長い髪を弄ぶようにふわりと揺らす。すると、彼女は海の香りを楽しむように目を閉じ、笑みを浮かべていた。

『ねえ、リヒト。甘いものが食べたいわ。何か作ってきてくれる?』

 春の花畑を思わせる可憐な主人は、そう言ってよくスイーツを所望した。

 彼女の笑顔が見たくて上達した、製菓の腕。上質な食材を取り寄せ、さまざまな書籍を読み込んでプロ並みの技術を身に着けたのも、全て彼女のためだった。

 今はもう、自分が作るスイーツを美味しいと言って笑ってくれる主人はいない。あの頃住んでいた洋館も取り壊され、屋敷内にあった調度品や衣装も全てなくなってしまった。

 だが、今日洋館に訪れた汐里と同じように、死者である主人との思い出だけは今もリヒトの心の中に残っている。それがどれほど尊いものなのかを、リヒトは今日改めて感じたような気がした。

「さて」

 木製椅子の背に手を添え、リヒトは窓の外を見た。そこに広がる海は、陽の光を浴びて美しく輝いている。遠くに聞こえる、さざなみの音に、自然と心が穏やかになっていく。

「次はどんなお客様がいらっしゃるでしょうか」

 ドイツ語で「光」を意味する名を持つ彼は、今日も麗しの洋館で訪問者を待っている。彼ら、彼女らが胸の内に抱えた想いを綴った手紙を、もう会うことは叶わない死者の元へと届けるために――。


神戸異人館の手紙屋さん【完】