始業前から矢野ののろけ話を延々聞かされて、既にどっと疲れていた。
まだ一時間目だっていうのに、俺は早くも舟をこぎ始めている。登校する時は晴れていたのに、窓の外は曇り空で教室内もうす暗く、眠気を助長させる。
さらに、現国担当のおじいちゃん先生の単調な声が、夢の世界へ誘う呪文のように聞こえる。シャーペンを持ったまま、頭が少しずつ前に垂れていく。意識がふっと遠のいて、やばいと思った時にはもう遅かった。
ゴンッ。
額を机にぶつけて、勢いよく顔を上げる。先生と、周りの何人かの視線が静かに突き刺さっていた。
(恥っっず!)
しかも、よだれまで垂れていたらしい。俺は慌てて口元をぬぐう。何人かがクスクス笑ってくれたのが、せめてもの救いだった。
その中の一人、斜め前の席に座る蒼真と目が合う。蒼真は額を指さして、「だいじょうぶ?」と口だけ動かした。
その瞬間、心臓がひとつ大きく跳ねた。俺は思わず視線を落とす。
(またこれだ……)
おじいちゃん先生がパンパンと手を叩いて、授業が再開される。恐る恐る顔を上げると、蒼真はもう黒板に向き直っていた。
それなのに、やっぱり蒼真のまわりだけ、妙に煌めいている。星屑を集めたみたいだ。
(いや、寝不足でこうなるか……?)
◇◇◇◇
昼休み、俺は弁当を持って空き教室へ向かっていた。
今から、放送部のお昼のコーナーが始まるからだ。週に二、三回、ゲストを呼んでトークをしたり、音楽を流したりしていて、ちょっとしたラジオみたいでけっこうおもしろい。
俺は蒼真の声が好きだから、蒼真の担当の日は空き教室でお昼を食べることにしている。騒がしい教室じゃなくて、静かな場所でゆっくり聞きたいからだ。
「あれ? 詩織?」
空き教室の前に、元カノの詩織が立っていた。
手には弁当を持っている。
「一人で聞くの寂しいだろうと思って」
「……え」
「嫌なら帰るけど」
「いや、そうじゃなくて。……じゃあ、一緒に食べる?」
「……うん」
俺はつい先日、詩織に振られたばかりだ。
どうせわたしのこと好きじゃないんでしょ、と淡々と言われた。俺は何も返せなかった。詩織は呆れたみたいに、そのまま俺から離れていった。
俺は恋愛ってものがよくわからない。詩織のことは嫌いじゃなかった。たぶん好きだったと思う。けど、それが恋愛感情だったのかは、今でもわからない。その曖昧さで詩織を傷つけたことだけは、はっきりわかる。
だから今も、詩織には少し罪悪感がある。
二人で空き教室に入り、窓際に並べられた机に適当に腰かける。
付き合っていた頃はもっと近くに座っていたのに、今は微妙に距離が空いている。やっぱり少し気まずい。
弁当のふたを開けて、静かに食べ始める。
ちらっと詩織を見ると、前髪をピンで留めているところだった。詩織はショートヘアだが前髪は少し目にかかるほどの長さだ。食事の時や集中したい時は邪魔にならないように前髪を上げている。そして、いそいそとストローを取り出して、アップルティーに差した。
「いつも思ってたんだけど、米にアップルティーって合うのか?」
「? わたしはこれが好きだから飲んでるの。合うかどうかは知らない」
「……そっか」
いつもの詩織だ。
まっすぐで、自分の好き嫌いをはっきり持っていて、あんまりぶれない。そういうところがいいなと思っていた。
でも詩織に言わせれば、そういう“いいな”は恋愛じゃないらしい。
卵焼きを口に入れたところで、軽快な音楽が流れ始めた。
『こんにちは、六月十七日。今日も始まりました、緑ヶ丘高校はぴはぴランチタイム。担当は放送部の蒼真と――』
蒼真の声が聞こえた瞬間、鼓膜がじんと震えた。
呼応するみたいに、胸の奥が大きく揺れる。さっき耳元で聞いた時と同じだ。
『由紀でーす。蒼真くん、今日も素敵なゲストの方が来てくださってますね!』
『そうなんです! 今日はなんと、わが緑ヶ丘高校の生きる伝説・長老こと、現国担当の羽柴先生にお越しいただきましたー!』
『先生、よろしくお願いしまーす!』
俺は弁当を持つ手を止め、落ち着かせるようにそっと胸に手を当てた。
放送用の蒼真の声は、普段より少し落ち着いていて、甘い。
この声を聞くと、いつもは安心する。静かな気持ちになれる。
なのに今日は、落ち着くどころか心臓が変に騒ぐ。
「どうしたの?」
詩織が、二重の切れ長の目を丸くして不思議そうにこっちを見ていた。
「いや、べつに……」
ごまかすように胸元を軽く叩いて、俺はもう一度弁当に箸をつける。
「あのね」
詩織が箸を止めて、じっと俺を見ている。改まった雰囲気に、俺も箸を止めた。
「わたし、葉琉と一緒にいると自分らしくいられるんだよね。葉琉はなんでも笑って受け入れてくれるから、居心地がよくて……」
「……うん」
「葉琉にとってわたしは恋愛対象じゃなかったけど、それでも、これからも時々こうやって一緒にご飯食べたい」
意外だった。詩織にとって俺はもう必要ない存在だと思っていたから、素直にうれしい。
「……いいに決まってんじゃん。ご飯くらい、いつでもつき合うし」
「……ありがとう」
詩織は安心したように笑って、からあげを箸でつまむ。
『次は、お悩み相談のコーナーです。放送部の皆さん、こんにちは。わたしは、恋愛感情がよくわかりません。彼氏がいるのですが、彼氏よりも他のことを優先しがちです。これって、彼氏のこと本気で好きじゃないってことでしょうか? というお悩みですが、羽柴先生どう思いますか?』
『これはですね、恋愛のお手本となる純文学を読めばよろしい。そこには、ありとあらゆる恋愛のことが書いており、きっとあなたの――』
蒼真の相方である由紀ちゃん担当のお悩み相談コーナー。それを聞いて、詩織がふっと笑った。
「これって、葉琉のことじゃない?」
「確かに当てはまってるけど、俺は相談してないから」
「わかってるよ……」
詩織が少し首をかしげる。
「葉琉ってさ、今まで誰かを本気で好きになったことある?」
「……俺的には、詩織のことも本気で好きだと思ってたんだけど」
「……本気じゃないでしょ。葉琉の好きって、いつもふわふわしててよくわかんないもん」
「ひでー。伝わってなかったのかよ」
「うん。全然」
二人で目を見合わせて笑った。なんだか、付き合ってた頃より今の方が居心地がいい。
『ゲストの羽柴先生のご出演はここまでです。羽柴先生ありがとうございましたー!』
『では、次のコーナーに移りたいと思います。曲紹介のコーナーですね。今回は僕・蒼真が、おすすめの曲を紹介しちゃいます』
放送が変わる。曲紹介のコーナーだ。
蒼真が何か言っている。何の曲かは、ちゃんと聞き取れなかった。
ただ、その声が耳に入るたびに、さっきまでの穏やかな気持ちが少しずつざわついていくのがわかった。
詩織と笑い合っていたはずなのに、蒼真の声だけが、やたらと胸に残る。
「本当はさ、他に好きな人がいるんじゃないの?」
弁当を食べ終えた詩織が、俺になにかを手渡した。手の中にはレモンキャンディーがあって、ありがとうと言ってそれを口に放り込んだ。
「そんなわけないって。他に仲いい女子とかいないし……」
詩織は少し納得いかないというように眉根を寄せたが、ふ~んと気のない返事をして自分もレモンキャンディーを口にした。
(好きな人なんてべつに思い当たらないけど……)
俺は口の中でレモンキャンディーを転がしながら、レモンなのにみかんみたいに甘いな、なんて頭の隅で考えていた。
まだ一時間目だっていうのに、俺は早くも舟をこぎ始めている。登校する時は晴れていたのに、窓の外は曇り空で教室内もうす暗く、眠気を助長させる。
さらに、現国担当のおじいちゃん先生の単調な声が、夢の世界へ誘う呪文のように聞こえる。シャーペンを持ったまま、頭が少しずつ前に垂れていく。意識がふっと遠のいて、やばいと思った時にはもう遅かった。
ゴンッ。
額を机にぶつけて、勢いよく顔を上げる。先生と、周りの何人かの視線が静かに突き刺さっていた。
(恥っっず!)
しかも、よだれまで垂れていたらしい。俺は慌てて口元をぬぐう。何人かがクスクス笑ってくれたのが、せめてもの救いだった。
その中の一人、斜め前の席に座る蒼真と目が合う。蒼真は額を指さして、「だいじょうぶ?」と口だけ動かした。
その瞬間、心臓がひとつ大きく跳ねた。俺は思わず視線を落とす。
(またこれだ……)
おじいちゃん先生がパンパンと手を叩いて、授業が再開される。恐る恐る顔を上げると、蒼真はもう黒板に向き直っていた。
それなのに、やっぱり蒼真のまわりだけ、妙に煌めいている。星屑を集めたみたいだ。
(いや、寝不足でこうなるか……?)
◇◇◇◇
昼休み、俺は弁当を持って空き教室へ向かっていた。
今から、放送部のお昼のコーナーが始まるからだ。週に二、三回、ゲストを呼んでトークをしたり、音楽を流したりしていて、ちょっとしたラジオみたいでけっこうおもしろい。
俺は蒼真の声が好きだから、蒼真の担当の日は空き教室でお昼を食べることにしている。騒がしい教室じゃなくて、静かな場所でゆっくり聞きたいからだ。
「あれ? 詩織?」
空き教室の前に、元カノの詩織が立っていた。
手には弁当を持っている。
「一人で聞くの寂しいだろうと思って」
「……え」
「嫌なら帰るけど」
「いや、そうじゃなくて。……じゃあ、一緒に食べる?」
「……うん」
俺はつい先日、詩織に振られたばかりだ。
どうせわたしのこと好きじゃないんでしょ、と淡々と言われた。俺は何も返せなかった。詩織は呆れたみたいに、そのまま俺から離れていった。
俺は恋愛ってものがよくわからない。詩織のことは嫌いじゃなかった。たぶん好きだったと思う。けど、それが恋愛感情だったのかは、今でもわからない。その曖昧さで詩織を傷つけたことだけは、はっきりわかる。
だから今も、詩織には少し罪悪感がある。
二人で空き教室に入り、窓際に並べられた机に適当に腰かける。
付き合っていた頃はもっと近くに座っていたのに、今は微妙に距離が空いている。やっぱり少し気まずい。
弁当のふたを開けて、静かに食べ始める。
ちらっと詩織を見ると、前髪をピンで留めているところだった。詩織はショートヘアだが前髪は少し目にかかるほどの長さだ。食事の時や集中したい時は邪魔にならないように前髪を上げている。そして、いそいそとストローを取り出して、アップルティーに差した。
「いつも思ってたんだけど、米にアップルティーって合うのか?」
「? わたしはこれが好きだから飲んでるの。合うかどうかは知らない」
「……そっか」
いつもの詩織だ。
まっすぐで、自分の好き嫌いをはっきり持っていて、あんまりぶれない。そういうところがいいなと思っていた。
でも詩織に言わせれば、そういう“いいな”は恋愛じゃないらしい。
卵焼きを口に入れたところで、軽快な音楽が流れ始めた。
『こんにちは、六月十七日。今日も始まりました、緑ヶ丘高校はぴはぴランチタイム。担当は放送部の蒼真と――』
蒼真の声が聞こえた瞬間、鼓膜がじんと震えた。
呼応するみたいに、胸の奥が大きく揺れる。さっき耳元で聞いた時と同じだ。
『由紀でーす。蒼真くん、今日も素敵なゲストの方が来てくださってますね!』
『そうなんです! 今日はなんと、わが緑ヶ丘高校の生きる伝説・長老こと、現国担当の羽柴先生にお越しいただきましたー!』
『先生、よろしくお願いしまーす!』
俺は弁当を持つ手を止め、落ち着かせるようにそっと胸に手を当てた。
放送用の蒼真の声は、普段より少し落ち着いていて、甘い。
この声を聞くと、いつもは安心する。静かな気持ちになれる。
なのに今日は、落ち着くどころか心臓が変に騒ぐ。
「どうしたの?」
詩織が、二重の切れ長の目を丸くして不思議そうにこっちを見ていた。
「いや、べつに……」
ごまかすように胸元を軽く叩いて、俺はもう一度弁当に箸をつける。
「あのね」
詩織が箸を止めて、じっと俺を見ている。改まった雰囲気に、俺も箸を止めた。
「わたし、葉琉と一緒にいると自分らしくいられるんだよね。葉琉はなんでも笑って受け入れてくれるから、居心地がよくて……」
「……うん」
「葉琉にとってわたしは恋愛対象じゃなかったけど、それでも、これからも時々こうやって一緒にご飯食べたい」
意外だった。詩織にとって俺はもう必要ない存在だと思っていたから、素直にうれしい。
「……いいに決まってんじゃん。ご飯くらい、いつでもつき合うし」
「……ありがとう」
詩織は安心したように笑って、からあげを箸でつまむ。
『次は、お悩み相談のコーナーです。放送部の皆さん、こんにちは。わたしは、恋愛感情がよくわかりません。彼氏がいるのですが、彼氏よりも他のことを優先しがちです。これって、彼氏のこと本気で好きじゃないってことでしょうか? というお悩みですが、羽柴先生どう思いますか?』
『これはですね、恋愛のお手本となる純文学を読めばよろしい。そこには、ありとあらゆる恋愛のことが書いており、きっとあなたの――』
蒼真の相方である由紀ちゃん担当のお悩み相談コーナー。それを聞いて、詩織がふっと笑った。
「これって、葉琉のことじゃない?」
「確かに当てはまってるけど、俺は相談してないから」
「わかってるよ……」
詩織が少し首をかしげる。
「葉琉ってさ、今まで誰かを本気で好きになったことある?」
「……俺的には、詩織のことも本気で好きだと思ってたんだけど」
「……本気じゃないでしょ。葉琉の好きって、いつもふわふわしててよくわかんないもん」
「ひでー。伝わってなかったのかよ」
「うん。全然」
二人で目を見合わせて笑った。なんだか、付き合ってた頃より今の方が居心地がいい。
『ゲストの羽柴先生のご出演はここまでです。羽柴先生ありがとうございましたー!』
『では、次のコーナーに移りたいと思います。曲紹介のコーナーですね。今回は僕・蒼真が、おすすめの曲を紹介しちゃいます』
放送が変わる。曲紹介のコーナーだ。
蒼真が何か言っている。何の曲かは、ちゃんと聞き取れなかった。
ただ、その声が耳に入るたびに、さっきまでの穏やかな気持ちが少しずつざわついていくのがわかった。
詩織と笑い合っていたはずなのに、蒼真の声だけが、やたらと胸に残る。
「本当はさ、他に好きな人がいるんじゃないの?」
弁当を食べ終えた詩織が、俺になにかを手渡した。手の中にはレモンキャンディーがあって、ありがとうと言ってそれを口に放り込んだ。
「そんなわけないって。他に仲いい女子とかいないし……」
詩織は少し納得いかないというように眉根を寄せたが、ふ~んと気のない返事をして自分もレモンキャンディーを口にした。
(好きな人なんてべつに思い当たらないけど……)
俺は口の中でレモンキャンディーを転がしながら、レモンなのにみかんみたいに甘いな、なんて頭の隅で考えていた。



