玄関に飾ってある日めくりカレンダーを破る。今日は、六月十七日の水曜日。カレンダーにはゆるいネコのイラストが描かれている。母さんが買ったくせに自分では破らないから、俺が仕方なく毎朝破っている。
短い黒髪を手ぐしで適当に整えながら、家を出た。空は穏やかに晴れている。昨夜、ぽつぽつと雨が降っていたので、少し湿った空気が肌にまとわりつく。電線には鳩が一羽とまっていて、デーデーポッポーと一定のリズムで鳴いている。何のために鳴いてるんだろう。仲間でも呼んでいるのか。そんな、特に代わり映えのしない朝だった。
「葉琉、おはよ」
家を出て数歩のところで声をかけられる。
まだ覚醒しきっていない頭にちょうど心地いい、穏やかな低音。俺はこいつの声が好きだ。
「おー、蒼真。おは――」
振り返った瞬間、言葉が止まった。
昨日、眠りかけの俺に、蒼真が冗談っぽくなにか囁いてきた。あんなの、効くわけがない。……はずなのに、今朝会った蒼真は、なぜか信じられないくらいキラキラ輝いて見えた。朝日でも背負ってるのかってくらい、輪郭のまわりがまぶしい。
「葉琉? どした?」
不思議そうに首をかしげる蒼真を見て、俺は思わず目をこすった。けど、キラキラは消えない。
「いや、なんか……」
まだ眠い? と蒼真は小さく笑う。
俺が何度も目をこするものだから、そのうち少し心配そうに顔をのぞき込んできた。
「ゴミでも入った?」
近い。
アーモンド型の涼やかな目元も、風に揺れる茶髪も、今日は妙に鮮やかに見える。制服姿も見慣れているはずなのに、白いシャツが爽やかで眩しく、青のチェックのネクタイもおしゃれに映えている。
「だいじょうぶ?」
瞬きひとつ、唇の動きひとつにまで変なスローモーションのエフェクトがかかっているみたいで、俺は視線を外せなかった。
(マジでどうなってんだこれ……。あいつの顔、さっきからまぶしすぎて直視できない)
「葉琉? 葉琉!」
軽く肩を揺すられて、はっと我に返る。
「あ、ごめん。俺――」
「本当に大丈夫?」
「……うん」
「体調悪いの? 寝不足?」
目をこすっても、つぶっても、蒼真の周りに浮かぶ光の粒は消えない。いい加減まぶしくなってきて、俺は無理やり顔をそらした。
「だ、大丈夫。昨日の夜、ずっとゲームしてたからさ。それで目が疲れてんのかも」
「程々にしなよ」
蒼真は呆れたようにため息をついて、前を向いて歩き出す。俺も慌ててその隣に並び、二人でいつもの通学路を歩き出した。
「昨日のあれさ、大丈夫だった?」
「え?」
「なんか変わったことない?」
変わったことといえば、蒼真のことが妙に輝いて見えることくらいだ。昨日のあれが、本当に効いたなんて思えない。
「特になにもないけど」
そう答えると、蒼真は安心したような、でも少し拍子抜けしたような顔で苦笑した。
「だよね」
「矢野の悔しそうな顔が目に浮かぶわ」
「ハハッ、今度は俺がやる!とか言いそう」
「うわー、矢野にはしてほしくない」
「うん、わかる」
「あ、そういえばさ――」
コンビニで買ったグミがうまかったとか、小テストの勉強をしていないとか、スマホの新機種が欲しいとか。そんな他愛ない話をしながら歩いているうちに、いつの間にか学校に着いていた。
三階にある二年三組の教室を目指して、長い階段を上っていく。
「エレベーターほしい」
「うん、俺はエスカレーターかな」
「だと思った。閉じ込められたら怖いとか言うんだろ」
「そうなんだよ。昨日見ちゃってさ、エレベーターに閉じ込められるやつ」
「あんなん、めったに起きないじゃん」
「そうだけど、起きた時に後悔したくないじゃん。乗らなきゃよかったって」
そんな話をしているうちに教室にたどり着く。
俺と蒼真は同じクラスだ。去年は別だったから、今年一緒になった時は普通にうれしかった。一学年七クラスもあるし、地味に運がいいと思う。
教室にいたクラスメイトに適当に挨拶して席についた途端、友達の矢野がずかずかと近寄ってきた。先日、染めたばかりだという金髪が妙に浮いている。
「葉琉! どうだ!?」
一重の小さな目を見開き、食い気味に顔を寄せてくる。近い。普通にうざい。
「どうって、お前が期待してるようなことは一ミリも起きてません」
そう言うと、矢野はわかりやすく肩を落とした。
「マジかー、効かなかったか。じゃあ、他の方法でお前に――」
「俺のことはもういいから」
「いいわけないだろ。そんなんだから詩織ちゃんに振られるんだよ」
「は?」
矢野はノリがよくて明るくてうざいけど基本いい奴だ。だが、時々無神経なことを口にする。さっきのセリフは聞き捨てならない。
「大きなお世話です」
「自分の気持ちに無頓着なんだよ。お前って、彼女いる時もいない時も変わらないじゃん。俺みたいに幸せオーラがでるわけでもなく、恋する乙女みたいに外見が磨かれるわけでもなく」
「うるせーな。世の中、矢野みたいな人間ばっかじゃないの」
「もう少し自分と向き合ってみたら?」
「向き合えって言われても、どうすりゃいいんだよ」
「だから、この愛の伝道師の矢野様が直々にお前にーー」
うざい演説が始まりかけたところで、蒼真が横から割って入る。
「昨日の美咲ちゃんからの呼び出し、なんだったの?」
矢野と蒼真が隣に並び、俺は二人を見比べた。矢野の金髪よりも、蒼真の顔の方が輝いて見えるのは、俺が矢野の金髪を受け入れられていないからだろうか。
「え? なに? 聞きたい? そんなに聞きたいの?」
「あー……」
話したくてうずうずしている矢野。俺と蒼真は顔を見合わせて、渋々うなずいた。
「君たちがそんなに聞きたいなら、話してあげてもいいよ」
(うぜー。まあ、のろけ話のほうがまだマシか)
「キリのいいところで逃げよ」
蒼真がこそっと耳打ちしてくる。
「お、おう……」
その声が、鼓膜にじんわりと響いた。俺は思わず胸に手を当てる。
矢野が嬉々として語り始めたのろけ話は、ほとんど頭に入ってこなかった。
さっき耳元で聞いた蒼真の声が、まだ耳の奥に残っている。俺は小さく息をついた。
(なんだこれ……)
短い黒髪を手ぐしで適当に整えながら、家を出た。空は穏やかに晴れている。昨夜、ぽつぽつと雨が降っていたので、少し湿った空気が肌にまとわりつく。電線には鳩が一羽とまっていて、デーデーポッポーと一定のリズムで鳴いている。何のために鳴いてるんだろう。仲間でも呼んでいるのか。そんな、特に代わり映えのしない朝だった。
「葉琉、おはよ」
家を出て数歩のところで声をかけられる。
まだ覚醒しきっていない頭にちょうど心地いい、穏やかな低音。俺はこいつの声が好きだ。
「おー、蒼真。おは――」
振り返った瞬間、言葉が止まった。
昨日、眠りかけの俺に、蒼真が冗談っぽくなにか囁いてきた。あんなの、効くわけがない。……はずなのに、今朝会った蒼真は、なぜか信じられないくらいキラキラ輝いて見えた。朝日でも背負ってるのかってくらい、輪郭のまわりがまぶしい。
「葉琉? どした?」
不思議そうに首をかしげる蒼真を見て、俺は思わず目をこすった。けど、キラキラは消えない。
「いや、なんか……」
まだ眠い? と蒼真は小さく笑う。
俺が何度も目をこするものだから、そのうち少し心配そうに顔をのぞき込んできた。
「ゴミでも入った?」
近い。
アーモンド型の涼やかな目元も、風に揺れる茶髪も、今日は妙に鮮やかに見える。制服姿も見慣れているはずなのに、白いシャツが爽やかで眩しく、青のチェックのネクタイもおしゃれに映えている。
「だいじょうぶ?」
瞬きひとつ、唇の動きひとつにまで変なスローモーションのエフェクトがかかっているみたいで、俺は視線を外せなかった。
(マジでどうなってんだこれ……。あいつの顔、さっきからまぶしすぎて直視できない)
「葉琉? 葉琉!」
軽く肩を揺すられて、はっと我に返る。
「あ、ごめん。俺――」
「本当に大丈夫?」
「……うん」
「体調悪いの? 寝不足?」
目をこすっても、つぶっても、蒼真の周りに浮かぶ光の粒は消えない。いい加減まぶしくなってきて、俺は無理やり顔をそらした。
「だ、大丈夫。昨日の夜、ずっとゲームしてたからさ。それで目が疲れてんのかも」
「程々にしなよ」
蒼真は呆れたようにため息をついて、前を向いて歩き出す。俺も慌ててその隣に並び、二人でいつもの通学路を歩き出した。
「昨日のあれさ、大丈夫だった?」
「え?」
「なんか変わったことない?」
変わったことといえば、蒼真のことが妙に輝いて見えることくらいだ。昨日のあれが、本当に効いたなんて思えない。
「特になにもないけど」
そう答えると、蒼真は安心したような、でも少し拍子抜けしたような顔で苦笑した。
「だよね」
「矢野の悔しそうな顔が目に浮かぶわ」
「ハハッ、今度は俺がやる!とか言いそう」
「うわー、矢野にはしてほしくない」
「うん、わかる」
「あ、そういえばさ――」
コンビニで買ったグミがうまかったとか、小テストの勉強をしていないとか、スマホの新機種が欲しいとか。そんな他愛ない話をしながら歩いているうちに、いつの間にか学校に着いていた。
三階にある二年三組の教室を目指して、長い階段を上っていく。
「エレベーターほしい」
「うん、俺はエスカレーターかな」
「だと思った。閉じ込められたら怖いとか言うんだろ」
「そうなんだよ。昨日見ちゃってさ、エレベーターに閉じ込められるやつ」
「あんなん、めったに起きないじゃん」
「そうだけど、起きた時に後悔したくないじゃん。乗らなきゃよかったって」
そんな話をしているうちに教室にたどり着く。
俺と蒼真は同じクラスだ。去年は別だったから、今年一緒になった時は普通にうれしかった。一学年七クラスもあるし、地味に運がいいと思う。
教室にいたクラスメイトに適当に挨拶して席についた途端、友達の矢野がずかずかと近寄ってきた。先日、染めたばかりだという金髪が妙に浮いている。
「葉琉! どうだ!?」
一重の小さな目を見開き、食い気味に顔を寄せてくる。近い。普通にうざい。
「どうって、お前が期待してるようなことは一ミリも起きてません」
そう言うと、矢野はわかりやすく肩を落とした。
「マジかー、効かなかったか。じゃあ、他の方法でお前に――」
「俺のことはもういいから」
「いいわけないだろ。そんなんだから詩織ちゃんに振られるんだよ」
「は?」
矢野はノリがよくて明るくてうざいけど基本いい奴だ。だが、時々無神経なことを口にする。さっきのセリフは聞き捨てならない。
「大きなお世話です」
「自分の気持ちに無頓着なんだよ。お前って、彼女いる時もいない時も変わらないじゃん。俺みたいに幸せオーラがでるわけでもなく、恋する乙女みたいに外見が磨かれるわけでもなく」
「うるせーな。世の中、矢野みたいな人間ばっかじゃないの」
「もう少し自分と向き合ってみたら?」
「向き合えって言われても、どうすりゃいいんだよ」
「だから、この愛の伝道師の矢野様が直々にお前にーー」
うざい演説が始まりかけたところで、蒼真が横から割って入る。
「昨日の美咲ちゃんからの呼び出し、なんだったの?」
矢野と蒼真が隣に並び、俺は二人を見比べた。矢野の金髪よりも、蒼真の顔の方が輝いて見えるのは、俺が矢野の金髪を受け入れられていないからだろうか。
「え? なに? 聞きたい? そんなに聞きたいの?」
「あー……」
話したくてうずうずしている矢野。俺と蒼真は顔を見合わせて、渋々うなずいた。
「君たちがそんなに聞きたいなら、話してあげてもいいよ」
(うぜー。まあ、のろけ話のほうがまだマシか)
「キリのいいところで逃げよ」
蒼真がこそっと耳打ちしてくる。
「お、おう……」
その声が、鼓膜にじんわりと響いた。俺は思わず胸に手を当てる。
矢野が嬉々として語り始めたのろけ話は、ほとんど頭に入ってこなかった。
さっき耳元で聞いた蒼真の声が、まだ耳の奥に残っている。俺は小さく息をついた。
(なんだこれ……)



